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第2章–3 田舎犬の見てきた世界
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どれくらい時間が経ったのだろうか。
とりあえず、なんとなく構想が浮かんだことを書類に落とし込んでいると、お腹が鳴った。
残業をする時は、夕食を調達することもあるが、予想外の残業だったので、そこまで頭が回っていなかった。
顔を上げると、時計の針は22時を回るところだった。
もうこんな時間か。
そう思って保住に視線を向けると、彼は黙々と仕事をしているところだった。
「係長」
声をかける。
「ん?」
さっきと同じ空返事。
もしかして。
嫌な予感。
田口は、立ち上がり、保住の側に行って声をかけた。
「あの!係長」
大きな声で彼を呼ぶと、弾かれたように顔を上げる保住。
彼は目を瞬かせてから口を開いた。
「なんだ。驚くだろう。というか、田口。今日は残業なしの日だろうが」
やっぱり。
さっきのやり取りは、彼の意識には残っていなかったらしい。
田口は、顔を押さえる。
「……先ほど、あなたの許可をもらいましたが」
「そうか?いつ?さっきって?」
これ以上は無理。
「すみません。しかし、残ってしまったので取返しが付きません」
田口が険しい表情になるのを見て、保住は笑った。
「そう構えるな。別にいいじゃないか。人事に見つかったら『ごめんなさい』しておけばいいのだ。おれだって同罪だからな」
保住は、大きく伸びをする。
「夢中になっていたせいで、背中が痛むな」
「痩せすぎですよ」
田口は、つい思っていることが口に出てしまう。
はっとして口元を押さえるが遅い。
保住は、大して気にしていない様子で首を傾げた。
「そうかな?」
そう言われると続けない訳にいかない。
諦めて続きを口にする。
「係長は運動好きではないんですか?」
「どうして、そう思う?」
「まったく運動していない身体をしていますよ」
「え!なんで見てもいないのに分かるのだ」
保住の驚きように、逆に自分がはっとして、赤面してしまう。
「べ、別に。じろじろ見ている訳ではないですからね!おれが運動系だったので、それとは相反する体系だなと思ったので。きっと筋肉なんてついていないんだろうなという想像です」
「想像って、お前……」
「だから!変な風に捉えるのはやめてください」
保住の前では、無表情なんて形無しだ。
からかわれているのだ。
きっと。
いや。
確実に。
「お前の推理は、大正解だな」
保住は、豪快に笑いだした。
「……」
なんだか嬉しくないのは気のせいではない。
田口は、咳払いをして黙り込んだ。
「運動というものには全く縁がないな」
「縁がないのではなく、関わってこなかっただけですよね」
「まあ、そうだな。縁はあるな。今の日本の教育では、否応なしに体育というものをやらされるからな」
「そうですね」
「身体を動かすことは嫌いだ。頑張るというのも好きではないな」
「そうなんですか?」
「勝負事は嫌いだ。面倒だし。勝っても負けても嫌な気持ちになる」
「そうでしょうか……」
「平和主義みたいな顔をしているくせに、勝負事が好きか」
保住は、意外そうに田口の顔を覗き込む。
じろじろ見られると恥ずかしい。
田口は、視線を逸らした。
「ずっと剣道をしていましたから。勝っても負けても後味が悪いという気持ちが分かりません」
「ほほう」
保住の相槌は、自分の言葉を促すような力がある。
ペラペラとしゃべる質ではないはずなのに、言葉がわいてくる。
「おれは、いつでも真剣に勝負してきました。相手もそうです。自分が勝ったとしても、相手に敬意は払いますし、負けても敬意を払います。相手も然りです。ですから、いつでも勝負して良かったと思います」
「悔しいという気持ちは起きないのか?」
「それはありますよ。ですが、悔しい気持ちは相手に対してではありません。出来ない自分に対してです。自分の能力がそこまで到達していなかったということです。それに勝負には、運もあります。今日勝った相手に、明日また勝つという保証はありません。ですから、相手を恨むなんてことはあり得ません」
「それはお前だけの話ではないのか?剣道をやっている人間が全てそうだとは、到底思えんな」
「それはそうです。世の中にはいろいろな人間がいます。ですが、おれはそうしてきました」
田口の言葉に保住は、大きく頷く。
「それは、興味深いな」
「そうでしょうか」
「おれが経験したことのない世界だ。大変面白い!」
保住のリアクションはなんだか古めかしくて笑える。
田口は、少し吹き出した。
「笑うな。失礼なやつだな」
「笑っていませんよ」
「いいや。笑ったぞ。失礼だな~。おれは、本当に感銘を受けているのだ」
「そうでしょうか」
自分の見てきた世界がすべて。
そう信じてきたが、その世界を「面白い」という人がいることに驚いていた。
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