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84.暗闇4
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圭が退院の日。
蒼は仕事だった。
結局、一人で帰る羽目になった圭。
荷物も大したことがないから、タクシーに乗り込む。
主治医にはしばらく、きっちり通院するように言い渡された。
気分は嵐のようにめまぐるしく変わる。
退院を経て、嬉しい気持ちもある反面、これからしばらく、なにもしないで自宅にいなくてはいけないのかと思うと気が重い。
ヴァイオリンが弾けないことが、こんなに苦痛になるなんて思いもよらなかった。
途中、ふと桜を思い出して、足を延ばす。
どうせ、自宅に帰っても蒼は夜まで帰ってこないのだし。
寄り道していってもいいだろう。
店は暗くなっていた。
まだ寝ているのかな?
扉を押すと、それは容易に開いた。
「こんにちは~」
顔を出す。
中からはヴァイオリンの音が響いていた。
誰?
そっと覗き見る。
女性の後姿が見えた。
桜?
曲はチャイコフスキーの協奏曲。
艶やかで、そして深みのある音色だった。
これが、桜の音。
彼女の音は録音で聞いたことはある。
しかし、それはかなり状態の悪い音源だった。
彼女の音はあまり残されていないのだ。
彼女は録音を好まず、ライブに生きたヴァイオリニストだったから。
思わず聞き入る。
愕然とした。
プロとして駆け出したのはよかった。
みんなにはちやほやされて。
今の自分は浮かれていたのだと思い知らされた。
圭一郎みたいな偉大な音楽家になりたい。
そう思ってはいても、内心はどこかで、現状維持で満足していた自分に気が付いた。
桜のその音は、大きなハンマーで殴られたかのような衝撃だった。
ただ、黙って突っ立っていると、桜の手が止まる。
「あら。退院したのかい?」
彼女はあっさり演奏をやめる。
「さ、桜さん。やめないでください」
「はあ?」
「続き。聞かせて欲しいんです」
「バカ言ってんじゃない。あたしの演奏は高いよ?」
彼女は冗談交じりで楽器を下ろす。
「お願いします!」
圭は引き下がらずに、彼女にすがりつく。
「桜さんの音を聞かせてください」
彼女は呆れた顔をしていたが、大きくため息を吐く。
「仕方ない子だね。ま、あたしの演奏なんて聞いたってどうってことはないでしょうけどね」
肩を竦めて、桜は演奏を再開する。
圭は、さっきと今ではまったく違う世界にいるぐらいの感覚に襲われていた。
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