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25.奇跡と馘首
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買い物も少しずつ慣れてきた。
買い過ぎて捨ててしまうことも多かったが、どの食材をどれくらい買えばいいのか、それでどう使いまわすのかを少しずつ勉強している最中だ。
野菜や肉を袋にぶら下げてマンションに帰宅をしたのは夜の7時を回っていた。
天沼は遅い。
早く帰ってきた試しなどないので、わかりきっていることなのだが、彼は毎日律儀に「遅くなります」とメールをくれるのだ。
メールが来る時間はほぼ決まって7時前後なのだが、今日はまだない。
——外勤か? 忙しいのかな? 珍しい。
どうせメールがなくても遅いのはいつものことだから、大して気にすることもなく十文字は玄関を開けた。
しかし、今日はいつもとは違っていた。
いつもだったら真っ暗な室内なのに、電気が灯っていたのだ。
——いい匂い?
「天沼、さん?」
——嘘でしょう? そんなことありえない。それとも別の誰か?
「泥棒!? ……なわけない。いい匂いなんかしない」
自分に言い聞かせながら、心臓の鼓動を感じつつ廊下を抜けてリビングに顔を出した。
「ただいま」
すると奥から、いつも十文字がつけている赤いエプロンをした天沼が顔を出した。
「遅いよ。帰ってくるの」
「だって。どうしたの? なに? どういうこと? メールくれていないじゃない」
「どういうって、仕事早く終わったの」
「嘘でしょう? 奇跡みたい」
十文字は嬉しくて天沼を見つめるが、彼はそう嬉しそうでもない。
なんだか浮かない顔をしていた。
「なにかあったの? 仕事」
一瞬で自分の嬉しい気持ちは押し込める。
「まさか……お払い箱?」
冗談のつもりで口にしたが、更に顔色を暗くする天沼を見て、はっと口元を抑える。
また悪い癖。
人が嫌がることを平気で言ってしまうのだから。
——嫌になった。
***
「ごめん。冗談だと思って」
「ううん。十文字は悪くないよ。だって本当のことだし」
「天沼さん……」
料理をしている手を止めて天沼は十文字を見た。
「副市長に,『明日休み取れ、出てくるな』って言われちゃって……」
「え? 明日? 平日なのに?」
「うん。ひどい顔しているって。ずっと休んでいないから。休めって」
「それって、天沼さんを気遣ってくれているんじゃない?」
「違うよ。きっと力になれないんだと思う。おれじゃ……なんだか今日の副市長、妙に優しいし。今日も早く帰れって言うし……。なんか。おれ、涙出ちゃう」
「天沼さん……」
後ろから腕が回ってきて、天沼を引き寄せる。
すぐ後ろに彼を感じて、心が少し落ち着いた。
朝からずっと不安だった。
「お前がいなくてもなんとでもなる——」
そうだ。
なんとでもなる。
澤井の言葉が脳内でエンドレスに流れていて、胸が苦しかったのだった。
「副市長にお払い箱にされても、秘書課が首ってわけじゃないから、市長付きのみんなのところに戻るだけなんだけどね。でも、結構頑張ったんだけどな……」
「まだ、そうと決まったわけじゃないじゃない」
「でも……」
「素直にそのままの意味かもしれないよ。本当に、ここのところの天沼さんは見ているこっちもしんどくなるくらい疲弊してる」
「そんなことは……」
「澤井副市長って鬼みたいだけど、そう悪い人じゃないのかもね」
十文字は天沼を励まそうとしてくれているのだろう。
明るい声色で澤井のことを褒める。
――それはそうだ。おれも同感だけど……。でもやっぱり。不安は拭い去れない。
「それは……おれもそうは思うけど。やっぱりなにを考えているか、わからないんだよね……」
「それはそうでしょう。副市長って市役所職員のトップだよ? 腹黒くなくてあそここまではいけないって」
「まあね」
「おれは一度、怒鳴られたことあるけどな。あれ、怖いよね。うん。あんなに毎日怒鳴り散らしている訳?」
十文字の問いに天沼は苦笑した。
「声大きいし短気だし。面倒なこと嫌いだし。怒ると手がつけられないっていうか……でも」
「でも?」
「素直じゃないっていうか」
「素直じゃない?」
十文字に促されて天沼は近くのソファに座る。
二人は並んで腰を下ろした。
「なんか変だよねえ。副市長のことを理解しようと思うと、なぜか保住室長の顔が浮かぶんだよね……」
「保住室長?」
十文字は「ああ」と頷いた。
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