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30.初恋と独唱
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「わあ、美味しそう。お腹ペコペコだもん」
天沼はにこっと笑って石田に感謝の意味をこめてナポリタンを食べ始めた。
「美味しいね」
「石田は昔から料理上手で……そうだ。今度、お前に料理習えばいいんだ」
「は? お前料理なんてしてんの? 嘘でしょう? 意外だな」
「あのね」
石田はにやにやとして天沼に話しかける。
「こいつ、高校の時はボンボン育ちで、本当、トンチンカンだったんですよ」
「そうなの?」
「そうですよ。当時の市長の息子だっていう肩書だけで、な〜?」
「言うな」
「そうそう。十文字のお父さんは市長だったんだもんね」
十文字は頷く。
「あの人、天沼さんみたいなところあって、体調悪いのに無理しちゃって。結局、突然のリタイアですよ。無責任すぎる。もっと早めに治療しておけば良かったのに」
「今は……?」
「今は元気です。今のご時世なら、辞任するほどのことなかったんですけどね。当時の医療技術ではなかなか治療に手間取っていたんですよ」
「そう。お元気ならよかった」
天沼はほっと息を吐いた。
それから石田を見る。
「十文字から、石田くんの歌がすごいって話を聞きました。どこかで聞く機会なんてあるんですか?」
石田は、「え?」と目を見開いてから笑い出す。
「いやいや。おれの歌よりも十文字の聞いてやってくださいよ」
「あ、そうか。同じ部活ということは……」
期待を含む視線に十文字は、慌てて首を横に振った。
「いやいや。おれは。そんな」
「いいでしょう? 聞いてみたい!」
天沼はねだるように十文字の腕を捕まえる。
そんなに触れられるとドキドキが止まらないから止めて欲しい……。
「お前、ちっとも練習してないんだろう? もうダミ声しか出ないかもな〜」
石田の焚きつけるような言葉に、ついいつもの調子で答えてしまう。
「ば、バカにすんなよ。少しは歌えるっつーの」
十文字は顔を真っ赤にして咳払いをする。
「おお、いいね。久しぶりにレッスンつけてやるぞ」
「んな馬鹿なことを言うなよ」
「えー、聞いてみたいな」
「冗談、やめてよ! 天沼さん!」
「だめ?」
「だめだって。しばらく歌ってないし!」
「あれでいいじゃん、いつもあれ——」
石田はニヤニヤとしてから、側のアップライトピアノに腰を下ろした。
「冗談だろう? 本当に勘弁してよ。おれは……」
「客も少ない。構わんだろう」
石田は慣れた手つきですピアノを軽く鳴らした。
「久しぶりだな。お前の《《初恋》》」
「お前……っ」
ハッとして、見ると天沼がニコニコしている。
「楽しみ」
「天沼さん……」
——ここまで期待されて歌わないなんて、場がしらけるではないか!
十文字は半分ヤケだ。
ネクタイを緩めた。
そんな間にも、石田が前奏を奏で始める。
——懐かしい曲だ。高校最後の定期演奏会でソロ歌わされたっけ。
ほかの客たちも、ピアノの音につられて視線を向ける。
「砂山の砂に 砂に腹ばい
初恋の いたみを
遠くおもい出る日
初恋の いたみを
遠く 遠く あ——
おもい出る日——」
石川啄木の「初恋」をメロディに乗せて。
高校三年生の夏。
定期演奏会で披露した曲だ。
当時、十文字は男声合唱団のトップテノールのパートマスターを担っていた。
懐かしい青春時代である。
あの頃、恋い焦がれていた男には振られた。
つい昨年の話だ。
だが、随分と時間がたっている気がした。
——今想うのは?
カウンターに座り、優しい顔で見守ってくれる天沼。
——自分はこの人のために在りたい。この人が大事。
——ああ、そうだ。天沼が好きだ。
その場の成り行きでもなく、感覚でもなく、じっと冷静に考えて見ても彼が大事。
そう思った。
最初は最低な始まりだった。
大雪で帰宅できなくなった自分を善意で泊めてくれた天沼の好意を仇で返すようなことをした。
田口のことばかり話す彼にイライラして、つい悪態ばかりついてのだ。
それに普通の天沼に「付き合って」なんて迫った。
本当なら嫌われても仕方がないようなひどいことばかりだったのに、天沼はこうしてそばにいてくれる。
天沼がこうして隣にいてくれるだけで、自分は強くあれる。
自分に自信が持てる。
有能で、誰からも好かれる兄へのコンプレックスも、父親への思いも、全て許される気がするのは、天沼と出会ってからの話だ。
彼は自分を救ってくれる人だ。
眠るように消えていく石田のピアノが途絶え、曲は終わる。
店内にいた客から拍手が沸き起こった。
天沼はぼんやりとしていたが、はったとした顔をして拍手を送ってくれた。
「変なやつって思ってますよね?」
——引かれた……。
恥ずかし過ぎた。
十文字は赤面をして天沼の目の前の椅子に座った。
居心地が悪くて最悪だけど、天沼は目を輝かせていた。
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