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あれから暫く経って、雅琴はそのお見合い相手に気に入られたらしく何度か食事に誘われていた。
雅琴はその連絡が来る度に複雑そうな面持ちでスマホを見つめていたものの、なんだかんだで相手に絆されてしまっているようだった。
「今日も、あの人のところ?」
「…まぁ、そんなところ」
「…そっか」
また一人の一日が始まる。
一人は少しだけ寂しい。
でも、雅琴を心配させることだけはしたくなかった。
だから、
「行ってらっしゃい、雅琴」
いつもと同じ言葉で、いつもと同じ笑顔を浮かべた。
雅琴がいなくなった静かな部屋の中で俺は床に仰向けになって寝転ぶ。
見ず知らずの男に嫉妬してしまっている自分がいて、いつからこんなに汚い人間になってしまったのだろうと乾いた笑いを零した。
雅琴が漸く前に進めるようになったのだ。
それは喜ばしいことである。
俺に出来なかったことを、その彼は成し遂げようとしているのだ。
それなのに、この状況に妬ましさと寂しさを感じるなんてどうかしている。
だってーー、
「え、母さん」
不意に窓の外から聞こえた雅琴の声。
次いで、聞き慣れた雅琴の母親の声がした。
「あら雅琴、出掛けるの?」
「あぁ…うん。楓さんに食事、誘われてて…」
「まぁ、良かったわ。西条さんとっても良い人だったし、これで安心ね。呉々も、西条さんに粗相のないようにね」
「っ、ちょっと母さん、俺は…」
勝手に話を進めようとする母親に雅琴は動揺する。
「あぁそうそう、あんた出掛けるのいいけどちゃんと食べてるの?今日色々持ってきたから、自炊も面倒くさがらずにやりなさいね」
「母さ…、」
「って、雅琴時間は大丈夫なの?西条さん待たせちゃダメよ」
「っ、も〜…!分かってるよ…っ」
自分が言いたいことをマシンガンのように早口で捲し立てて、小言をも言ってくる母親に相変わらずだな、と俺は苦笑した。
それでも、女手一つで雅琴を育ててきた彼女はただ母親として雅琴のことが心配なのだということがよく分かる。
度が過ぎて身勝手にも見えるが、これも一つの愛情表現だと俺は思っていた。
雅琴は、あまり好ましく思っていないみたいだけれど。
それでも、母に笑顔を向けられると雅琴もどこか柔らかな表情に変わった。
「そう、気を付けて行ってらっしゃいね」
「…ん、行ってきます」
そう交わして二人は別れると入れ代わり立ち代わりで、母親が部屋に入ってきた。
「全く…あの子また電気つけっぱなしで。何度言えば分かるのかしらねぇ…。相変わらず適当なんだから」
呆れたように溜息をつきながら大きなスーパーの袋を机の上に置いた母親は、慣れた手つきで冷蔵庫へと食品を仕舞っていく。
「ほんと、変わりませんよね。雅琴」
俺はそんな母親の顔を見て苦笑する。
母親は羽織っていた薄手の上着を脱いで椅子に掛けると居間にやって来て笑った。
「絢介君、こんにちは」
「紗恵子さん、こんにちは」
雅琴の母親、紗恵子はそう言いながら居間の仏壇へ向かい、その前に正座した。
「でも、あの日以来人と関わることから逃げていたあの子がこうして休日に誰かと出掛けてるんだから、きっと…何か変わってきてるのよね」
紗恵子は静かに安堵の笑みをたたえながら蝋燭に火をつけて線香を近付けた。
ラベンダーの仄かな香りが部屋に漂い始める。
「もう…あれから何年経ったかしらねぇ…」
「もう五年ですよ。早いですよね」
「あの頃は雅琴もよく笑ってたわね。とても楽しそうだった」
「雅琴は元々よく笑うやつでしたもんね」
香炉の灰に立てた線香の先端が燃え尽きて白くなり、灰の上に落ちていく様子を見つめながら紗恵子は思い出すように目を伏せた。
「…本当はね、雅琴が生まれた時産んだことにすごく後悔したの。この世界はΩであるあの子が生きていくにはあまりに酷な世界だったから。子供の頃、クラスメイトにいたΩを思い出して、私の息子もあれと同じ運命を辿ることになるのかしらって…すごく、不安だった。現に、夫は雅琴を見た時、私に捨ててこいと言ったものね。私、その時あの人に思わずフライパン投げつけちゃったわ。…その結果、彼は私と雅琴を置いて出て行ってしまったのだけれど。どう足掻いても子供は子供、親である以上、産んでしまったなら私が雅琴の居場所をつくってあげなきゃって思ったの。例え世界が雅琴を否定しても、私だけは雅琴を愛して、守ってあげなきゃって。それで幸せになれるかはあの子次第だったけれど、せめて雅琴の人生の障害にならないように、雅琴が普通の生活を送れるように、最低限のことをするのは親として当然でしょう?…だから、あの子がどんどん大きくなって、雅琴に相手ができたって聞いた時、どれだけ嬉しかったか。私以外にも、ちゃんと雅琴のことを想ってくれている人がいるんだって。雅琴は言ったわ、この出会いは運命なんだって、それはそれは幸せそうに。私はβだからαとΩの間にある”運命の番”とかはよく分からなかったけれど、きっと、本人達の錯覚だったのだとしても、”運命の赤い糸”って本当にあるのかもしれないわね」
初めて聞いた彼女の本音は親としての愛で満ち溢れていた。
そして、母親は強気な瞳を感情的に揺らすと続いた言葉が微かに震える。
「…それなのに、これからって時に死んじゃうなんて…運命のイタズラっていうか、神様も随分残酷なことをするわよね」
「それは俺も驚きましたよ。…人生って何が起こるか、ほんとに分からないものですよね」
俺が笑うと彼女は仏壇に飾られていた写真を手に取ってそっとその縁をなぞる。
毎日雅琴が手入れをしている仏壇には埃一つ無く、写真も綺麗に汚れを拭き取られていた。
「あの子、まだ引き摺ってるのよ」
「そうですね」
「だって、大切だったんだもの」
「…そうですね」
「…ねぇ、どうしていなくなっちゃったの」
「……、」
写真に被せられた硝子にポタポタと雫が落ちて写真立ての縁に伝う。
俺は、何も言うことが出来なかった。
「…もう、やぁね。歳取ると涙脆くなっちゃって」
彼女は涙を拭い、いつも通りの明るい表情に戻ると写真を元の位置に返して立ち上がった。
「さてと、何かしんみりしちゃったし用は済んだから今日はもう帰ろうかしら。昼過ぎにはスーパーのタイムセールもあるものね」
紗恵子は鼻歌交じりに帰り支度を済ませると、帰り際に優しく笑いかけた。
「また来るわね、”絢介君”。雅琴のこと、見ていてあげてね」
俺は笑い返してはい、と返答するけれど、その視線が交わることは無い。
ーー彼女の目はすぐ傍に立つ俺の横をすり抜けて、しっかりと仏壇に飾られた”写真の中の俺”へと向けられていた。
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