アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
グッド・ガイ①
-
剛田君、コールバック来てたよ、という掛け声と同時に、背後から素早く差し出される紙切れ。俺はとても良い返事をして、その紙切れを受取る。
紙切れに殴り書きで書かれた、会社名と名前をチラリと確認。今朝電話を入れた業者か。すっかり手に馴染んできた受話器を掴み、電話番号を押す指も軽快だ。
あ、いつもお世話になっております、私、と、滑らかに動く俺の口。オフィスに鳴り響く電話のコール音に負けないように、余所行きの爽やかな声を、ハッキリと紡ぐーーー
30分休憩に行くのも惜しい程、毎日毎日、いや、毎時間、いや、毎秒毎秒、忙しかった。
新卒でこの会社に入社して、幸運な事に面接の頃から志望していた広報部に配属になり、今年で、5年目。
やっと役職が付くか付かないかというキャリアに届きかけている今、確かに、一番忙しいのかもしれない。“5年目の壁”を感じろ、とは、いつも公私共に面倒を見てくれている、岡野主任の言葉だ。俺はその壁を今、感じているのだろうか?え、もしかして、もしかしたらまだそんな壁全然現れてもなくて、片鱗すら姿を見せていなくて、本当に忙しいのは、この後だったりして、
「お疲れ」
右肩に手を置かれて振り返ると、まさにその岡野主任が立っていた。
アァ、お疲れ様ですと気の抜けた反応の俺。
少し小柄な先輩は、いつも通り小洒落たペイズリーのネクタイに、グレーのスーツという出で立ちで。
うちの会社は基本的には、スーツの色は黒、紺、グレーが許可されており、ネクタイの柄も“余程華美な物でなければ何でもよい”とされているので、皆好きなデザインで個性を出して楽しんでいるらしい。でも俺は、何となく勇気が出なくて、スーツも黒しか持っていないし、ネクタイだって結局無難な色の、つまらない柄の物を選んでしまう、つい、癖で。
朝から飛ばしてない?休憩しよ休憩、と、椅子に凭れかかる俺を無理やり立ち上がらせる岡野主任。俺は仕方なく、彼の言う通り休憩することにした。腕時計に目を遣ると、午前11時半。俺としては、あと1時間は行けたのだけれど。でも、こういう時にこの人の誘いを断ると、機嫌を損ねてしまい後が面倒な事になるので、素直に従うのが一番だ。
彼の言う“休憩”は、自動販売機とソファが並ぶエレベーター前のスペースで、珈琲を飲んで10分息抜きしようという意味だ。いつもそうなのだ。そしていつも、俺に珈琲かジュースを買ってくれる。ホラ、今日も。
何が良い?と振り返って尋ねてくるから、俺は一度は遠慮するが結局、二度目ですぐお目当てのジュースを口走ることになる。
今日は電話多いね、と彼が呟き、青い珈琲の缶を開ける。プシュッと小気味良い音。
多いっすね、と俺は答え、果汁100%のジュースの缶の口に指を掛ける。
「忙しくなってきたんじゃない、やっと」
「いやー、岡野主任に比べたらまだまだ」
「そろそろ主任の試験でしょ」
「そう…は言われてますけどいつ行けるか」
「えー、そんなん次の9月には行くでしょ、試験受かるまで誘わないで下さいとか言うなよ」
少年のような物言いで岡野主任が話すので笑みが溢れ、俺は、ハハハ、誘ってくれるんですかと返した。
本当に、この人にはとてもお世話になっている。速いペースで珈琲の缶をグビグビ飲む彼の横顔を見ながら、酸っぱい液体を喉に流し込む。
偶然デスクが近かった事もあり、配属された当初から何でも教えてくれた。そういえば、俺の特徴的な苗字を我先にイジり倒し、あの有名なガキ大将のあだ名をつけようとしたのもこの人だ。結局、俺の雰囲気と合わないということで却下になったけれど。
仕事のことだけじゃない。彼女がいなかった俺を、色々な食事会に招いてくれたのもこの人だ。数々の女性を紹介して貰ったのに実を結んだのは数人だったが、その度に、お前の弟っぽい所がどうのこうのとか、お前は可愛い顔の割に意外と肝が座り過ぎているのがどうのこうのとか、的を得ているのかどうかよくわからない助言を、泥酔状態で垂れ流してくれたのも、この人だった。
まあ、そもそも彼本人も長いこと恋人がいないらしく、自分の為にも躍起になっていたのは間違いないと思うが。
ほんの一瞬過去の思い出に耽っていたら、ガコン、と軽快な音が響く。いつの間にか立ち上がっていた岡野主任が、飲み終わった珈琲の缶をゴミ箱に捨てた、その音。
振り返りながら彼は、そういえばさ、最近どうなの、と尋ねた。それが所謂、女性関係の話題を指している事は、俺にもすぐ分かった。
「どうって、何も変わりないです」
情けなくもそう答えるしかない俺に、ほらー、そうだと思った、と彼は嬉しそうに言葉を返す。
「久し振りに、合コンしようよ」
「合コン……」
確かに久し振りに聞く、その単語。意識していなかったが、ここ数ヶ月はお互い忙しく、食事会、という名の合コン、とはすっかり疎遠になっていた。
別に女に興味がないわけではないのだけれど、わざわざ自分で機会を作って近付こうとする程、ではない。というのが本音だ。
それに、近付いていない訳ではないし。広報部だって美人が多いと評判で、綺麗なお姉様方からは、俺は幾分か可愛がられている方、だと思う。多分。
自動販売機の近くからこちらへ戻って来る彼は、妙に心浮かれた足取りだ。俺の隣に再び腰を下ろしながら、彼が発した言葉は、何とも意外な誘い文句、だった。
「俺さあ、すごいのと知り合っちゃって」
「すごいの?」
「登坂って知ってる?営業の登坂」
突如話題に上ったその名前は、フロア内で知らない人は居ないと言っても過言ではない程の、有名な男の名だった。
確か俺の2年?先輩で、他部署の上司も一目置く、成績優秀なエリート。それが、営業の登坂、と呼ばれる人物。
名門M大卒で、新入社員の頃から頭角を現し、あっという間に同期の頭となり、あれよあれよと言う間に先輩も追い抜き、今では不動のトップに君臨する、恐ろしいエース。とは、全て岡野主任から聞いた話だ。
彼が有名な理由は、その優秀な実績だけではない。俺は今まで数回、いや、数十回は見たか、食堂や廊下で遠くから見たことしか無いのだが、それはそれは、もう、何だ、悔しいけど、ストレートに、男前だ。
花形である営業部は、髪型に関してもある程度は寛容で、それこそ裏の規則で言うと、“先輩より派手でなければ何でもよい”のだ。
つい一週間程前の情報ではあるが、営業の登坂主任、はサラリとした黒髪が額にかからないよう完璧にセットし、清潔感をこれでもかと漂わせた風貌で、隙の無い営業スマイルを浮かべ、携帯で話をしながら歩いていた。
顔も良けりゃ、身嗜みも完璧。こんな人に、目の前で仕事をバリバリこなされたら、俺だったら、俺だったら、どう思うだろう。
営業部の登坂君、やるねえ。まだ若いのに。登坂って大手の他社から引き抜きの誘い受けてるらしいよ。営業部の登坂には気をつけろよ、アイツ、上司のこと舐めてる。営業の登坂って仕事できるけど、性格腐ってるらしいよ。登坂さんって超かっこいいですよね。私の同期、登坂さんとデートしたって。登坂って総務部のマドンナと付き合い始めたらしいよ。俺の後輩が、登坂に女とられたってよ。
いつ聞いたかも思い出せない噂話が、脳裏をサーッと通り過ぎる。そんなに噂の的になるなんて、凄い人なんだろうな、まあ俺は知らないけど。と、完璧に他人事に考えていた、俺なんかとは、住む世界が違う人だと。
噂話だって、正直真偽の程は知らない。でも、火の無い処に煙は立たぬという話で、何も無く誰とも不純交遊をしていなければ、そんな噂は広まらないと思うのだ。少なくとも、何かはあるからそんなことを言われるに違いない。
まあ、あれだけ男前なら、多少は火遊びをしても、仕方ないのかもしれないけど、不器用でそんな事とは無縁の俺には、理解し難い。
だから俺は、面識も無いのに、勝手に苦手意識を持っていた。できればお近付きになりたくないなあ、と。それがまさか、こんな形で知り合うことになるなんて。
「ああ……有名な人だ、面識は無いっすけど」
「俺登坂くんとライン交換しちゃった」
「何でそんなにウキウキしてるんすか」
「ね、俺と、お前と、登坂くんの3人で」
「え??だから俺面識無いですって」
「大丈夫大丈夫、喋ると意外と普通だから」
すっかり浮かれた様子の彼は、最早、俺の上司・岡野主任の顔を捨て、“有名な後輩と合コンを開催することができる喜びに浸るお調子者”の仮面を、ガッチリと装着してしまっている。
そもそも、面識が無いと言っている俺の事は全く気にしていないようだし…大体、合コンって、男側は全員知り合いというのが、スタンダードじゃないのだろうか。俺は時代遅れか?
いや〜登坂くん連れてけば絶対間違いないから!それにお前でしょ?もう最高じゃんあ〜楽しみ、
そう零しながら歩き始める岡野主任の後ろ姿を、愛想笑いと一緒に追いかける。
まあ、いつ開催するか分からないし、適当に話を合わせておけばいいだろうと思っていたら、来週末の予定を聞かれる始末。嘘だろそんなに早く?てか本当にやるの?と答えそうになるのを必死で我慢し、いつでも空いてますと答える、先輩孝行なやけくその俺。
突如目の前に現れた会社のプリンスに、全て持って行かれて、岡野主任と二人で項垂れる未来しか見えない俺は、正直全く乗り気になれなかった。
.
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
1 / 2