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第5章ー12 おれが必要だ。
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また、一日が始まる。
天沼は7時半には副市長に出勤する。
澤井が来る前に清掃し、換気を行うためだ。
今朝もいつも通りに出勤して準備をしていると、いつもよりも早い時間に不機嫌な顔の澤井が出勤してきた。
「おはようございます」
「今日の予定は?」
天沼は、一瞬言葉に詰まってしまった。
その様子に怪訝そうな澤井が鋭い声を上げた。
「おい。天(てん)」
「は、はい! 申し訳ありません」
「なんなのだ? お前、今日は変だぞ?」
「あ、あの。それは……」
天沼が言いよどんでいると、扉がノックされた。
話題が逸れるとばかりに、天沼は慌てて扉を開けようと体をそちらに向けたが、ドアは勝手に開く。
こんな不躾な態度が許されている人間は一人しかいない。
「昨日は、すみませんでしたね」
「やっと顔を出したな」
澤井は保住を見据えた。
天沼も心配になった。
保住はまだまだ顔色が悪い。
元々、血色が良い方ではないが、酷い顔だ。
「まったく、お前は」
「あなたの言いたいことはわかります。ですが、お小言を頂く暇はないんですよ」
「お前な」
保住は体調が悪いせいか不機嫌さがにじみ出ている。
いや、不機嫌と言うか、周りに配慮できる余裕がないと言うところだろうか。
「頭が痛みます」
余計なことを言うなと言うことか。
不機嫌な保住は、澤井に引けを取らないくらい凶悪だと思ってしまうのは、天沼だけだろうか?
「今日は、暴れるなよ。苦情は御免だ」
「苦情処理が上司の役割ではないですか」
「貴様」
澤井は立ち上がると保住の胸倉を掴んで引き寄せた。
「図にのるな」
「好き勝手やらせてくれると言ったのは、あなたですけど」
「貴様の不機嫌さは、庁内一タチが悪い。そんな輩に業務はさせられん」
「これ以上、部下たちに負担はかけさせられないのですよ」
保住は怯むことなく、澤井を真っ直ぐに見据える。
一触即発……。
そんな雰囲気に朝からドキドキした。
「部下に迷惑をかけたくないなら自重しろよ」
澤井の低い声に、保住は瞳の色が濃くなる。
「お前一人の問題ではないのだ。知っている。あちこち滞っているのは。だが、我を失うくらいの不機嫌さでは、交渉のテーブルにも座れないぞ。冷静になれ。頭を冷やせ。お前らしさが失われてはならないのだ」
澤井の言葉は保住にはどう響いているのだろうか。
「お前はよく知っているはずだ。お前が自分勝手に行動したら、どんな結末になるか? 忘れたとは言わせんぞ」
霞みがかったようにぼんやりとしていた瞳が、いつもの冷静さを取り戻す様が見て取れる。
天沼は息を飲んだ。
––––保住室長を使いこなせるのは、やはり副市長だけだ。多分、田口たちでは難しいのではないか?
保住は澤井を見上げ「すみませんでした」と小さく呟いた。
「わかったのなら良い。だが無理するな。お前が周囲に配慮出来なくなったら終わりだぞ。誰もついていけない。奇異の目で見られるだろう」
「わかっています」
「弁えているならいい。サポートが欲しいなら天《てん》を貸してやろうか」
「おれですか?」
天沼は、はっとして保住を見る。
彼は微笑を浮かべる。
「天沼は、あなたのものでしょう? 大丈夫です。田口がいます」
「そう言うと思った」
澤井も微笑を浮かべてから、手を離す。
「田口ならどんなお前にもついて回れる。休んだ分は挽回しておけよ。自己管理不足の責任だ」
「承知しました」
澤井と話して、病人みたいだった保住に生気が戻る。
「夕方、報告にこい」
「失礼いたします」
保住はそう言うと副市長室を出て行った。
「大丈夫なのでしょうか」
「体調の悪さは関係ない。自分のコントロールがつけばな。……あいつは昔からそうだ。かっかとなると、自分で自分を制御できない。だから、おれのところにくる。あれはあれなりに苦労しているのだ」
「副市長じゃないと出来ないこと……ですね」
「そのうち、田口にも出来るのかも知れんが、まだあれの持て余す気持ちを受け止められるほどの器がないだろう。まだもう少し、あいつにはおれが必要だ」
澤井は満悦な笑みを浮かべている。
––––そこのところだけはまだまだ田口には譲らないぞ。
そんな顔だ。
天沼は息を飲む。
保住と田口と澤井。
この関係性は計り知れない。
多分、踏み込まないほうがいいと心のどこかで警告音が響いている。
––––見て見ぬふりをするのが一番、なのかも知れない。
背中を伝う汗を感じながら、じっとしていると、澤井は興味を失ったかのように、椅子に座った。
「今日は田口がいる。問題なかろう」
––––田口がいれば、保住《あの人》は大丈夫、という事か。
天沼は黙り込む。
「それより、天(てん)! お前もだぞ。今日はおかしい。さっさといつものようにやれ」
今の一瞬の邂逅で、自分の心にくすぶっていたものなんて、どこかに消失していた。
「は、はい!」
天沼はいつも通りの日常業務に戻って行った。
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