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シャイナーボック3本前
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※以下は『ディテールズ』2020年6月号に掲載された、ダリル・インマン氏によるインタビュー記事を再構成したものです。
確かにグレスラー・オイル・カンパニーと聞いても、街角にあるエッソのスタンドより、具体的な想像を巡らせるのは難しいかと知れません。
そこを敢えて想像して欲しいのは、テキサスにおいてその名が口にされる時、どれほど人が畏るかと言うこと。その業績を知っているか否かが、現地人とよそ者を区別するリトマス紙の役割を果たし、心得ているテキサスっ子の心にこの上ない誇りと庇護を与えてくれるのです。
1930年の東テキサスにおける石油発見時、いち早く油井の開拓に取り組んだマンフレート・ハンス・グレスラーは、アップシャー群最大の石油長者として、その名を響かせます。
彼が終生目指し続けたのは、自らの興したGOCと一連のコングロマリットだけではなく、後世そのものが豊かになる事でした。NASAのジェミニ計画において、マクドネル・ダグラス社の依頼により半導体機器回路の設計と製造を請け負っていた企業こそ、現在ではEMSの始祖的存在の一つに位置付けられるグレスラー・エレクトロニクスです。
ただしこの余りに先駆的過ぎた企業形態が、経済界にて本格的な脚光を浴びるのは、1980年代にシリコンバレーが花開くまで待たねばなりませんでした。
一代で幅広い事業を展開してきたマンフレートの帝国を82年に受け継いだ際、長男ギルバート・ハンスが重要視したのは、原点に立ち返る事でした。彼は上院に立候補する2004年まで、テキサス内における石油関連企業の吸収合併に奔走し、地盤を固める事へ尽力しました。まるで湾岸戦争からイラク戦争に連なる石油危機を予見していたかの如く、決して枯れることのない“ブラック・ジャイアント"とテキサス魂をアメリカへ示したのです。
そして21世紀に入り、GOCとグレスラー一族には、更なる発展を遂げる為、二つの道を提示されています。幸いギルバートの2人の子供は、それぞれ一羽ずつウサギを追いかけることで、これを容易く実現しようとしています。
ギルバートの意思を受け継ぐ長女のサマンサ・ハンナは、テキサスにて生活を続けています。国際的に活躍する身であるとは言え、彼女は世界中のどこよりも、故郷を愛していると答えるでしょう。父親が決して、自らを育んでくれた土地を忘れなかったように。
一方、弟のライオネル・ハンスには祖父の血が色濃く、東海岸を拠点に関係会社の統括に勤しんでいます。
かつてアメリカン・ドリームを夢見た人々は、いざ叶えた暁にどうなるかを知りませんでした。まだその夢を叶えた人が1人もいないのでは、想像することが出来なかったのです。
今や夢は現実として定着し、その中でもグレスラー一族はまさしく絵に描いたような発展を遂げ、頂点に君臨し続けています。
今回このシリーズを執筆するにあたり、私はライオネルの息子、ジャック・ハンス"ハンノ"・グレスラーと対面しました。
インタビューを依頼する連絡をした時、彼は2年前にスペインで起こった不幸な事故に関する、左目の再手術を受けたばかりでした。けれど彼は「僕にも間違いなく、テキサスの血が流れているから、痛みへの耐性は強いんですよ」と、快くオファーに応じてくれたのです。
半日に渡るインタビューの中で、将来グレスラーを牽引する事を願う彼の視点から見た、自らのアイデンティティ、父親を始めとした一族、そして彼が生きる世界についての、率直かつ鋭い考察をうかがうことができました。
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ーー実はあなたが4歳の時に一度お会いしています。ライオネル・グレスラー氏のインタビュー記事を書いた時の事です。あなたは理髪店の待合室の机の下に隠れていました。
ジャック・ハンス・グレスラー(以下JHG):はい、朧げには記憶にあったのですが、この前、実家から記事を送って貰って、はっきり思い出しました。初対面の人に会って、凄く恥ずかしかったのを覚えています。人見知りは今も治っていないんですよ。
ーーあなたの一族は、男性ならハンス、女性ならハンナのミドルネームを付ける習わしですね。
JHG:皆一様に、子供の頃はハンノと呼ばれています。父が祖父から呼ばれていたように、僕もまた父からハンノと。ベイビーと呼ぶ代わりの愛称のようなもので、親にファーストネームで呼ばれるようになったら大人の証と言ってもいいかもしれません。もっとも、父達は未だに僕をハンノと呼びますが。
ーーテキサスと言う保守派優位の土地で、2人のお父上は苦労なされたのでは。
JHG:並ならぬ苦労があったと想像に難くありません。特にアーノルド父さんは苦しんだと思います。あの土地に根を張る一族へ、黒人の同性愛者として参加しなければならなかったのですから。
ライオネル父さんも思うところはあったでしょうが、表立って子供に感情を見せることはありませんでした。僕が小さい時に感じていた印象は、ライオネル父さんがとにかく社交的で明るい人だと言うこと、そしてアーノルド父さんは物静かで繊細な人だと言う事でした。
どちらにしろ、僕自身は主にニューヨークで生活していたので、そこまで強烈な経験はしていません。
ーーライオネル・グレスラー氏とアーノルド・ハンター氏は92年パートナーに。テキサス出身の富豪と、マーカス・シェンケバーグ&ブルース・ウェバーの「カルヴァン・クライン・キャンペーン」に対するドルチェ&ガッバーナの切り札と呼ばれたファッション界のスーパースターの同棲は、当時非常なセンセーションを巻き起こしました。
そして翌年、人工授精、そして代理母による出産もまた、世間に議論を呼んでいます。
JHG:今なら何てことない話なんですけど、当時の反応は凄かったと聞いています。特に祖父のギルバートは、当初かなり反対したそうです。逆にライオネル父さんは、養子ではなく2人の間の子供を持つ事に固執したと。
それは何も、自らの血を引いた孫の生まれる可能性に、祖父の態度が軟化する事を目論んだだけではないと思います。寧ろ父本人が、血の継承を願っていました。ハンノを名乗る子供の存在に。
ーーライオネル氏が子供に固執したと言う事ですか?
JHG:もちろん、養子縁組をした子供達が不幸になるとか、血の繋がりが親子関係で最も重視されるとか、僕も父も全く考えていません。事実僕は、両親のパートナー達と、とても良い関係を築けていますから。
ただ、もしもほんの僅かとは言え可能性があるならば、自らの血を分けた子供が欲しいと願う事が、全く間違っているとも僕は思いません。
ーーライオネル氏とハンター氏はニューヨークを拠点に生活し、あなたもそこで育った訳ですが、ライオネル氏は幼い頃からあなたに、あなたが「ハンノ」である事を強く意識させましたか?
JHG:名前を呼ばれる事以外で、ですよね。
もちろんありました。ライオネル父さんは東海岸に来ても、テキサスの気風を大事にしていましたから。国境警備隊式騎士道とでも言うのか……男は泣かない、女子供には優しく式の。保守的と言われるかも知れませんが、悪い規範じゃないと思うんですよ。
でも僕は甘やかされていました。泣き虫だった僕を、ライオネル父さんが厳しく叱りつけたり、ましてや拳骨を落とされたなんて記憶はありません。
ーーライオネル氏のインタビューの時も、あなたは泣いていましたね。ライオネル氏が床に膝をついて、あなたを机の下から引っ張り出して。
JHG:そんなことまで覚えてるんですね! あの時は耳を怪我していて痛かったし、知らない人も沢山来るしで……
そう、ライオネル父さんは僕が泣いているといつも抱き上げて頬にキスをして、歌を歌ってくれました。賛美歌をもじった曲で、子守唄代わりでした。「可愛いハンノはどこにいる、子犬の傍かお布団か、干し草の上でお昼寝か」って。もしかしたら、この曲も父さんが、祖父から受け継いだものかも知れませんね。
ーーあなたは子守唄を聞かされて、自らがハンノである事を意識しました。逆に、『ハンター』であると言うことを意識したことはありましたか。
JHG:正直に言うと、やはり自らはグレスラーと言う人間なのだとの意識が強かったです。けれどアーノルド父さんといて、仕事の関係者の父さんに対する態度等を見た時は、とても誇らしさを覚えました。
自分が特殊な環境にいるのだと強く意識することも、彼と一緒にいた時の方が多かったです。ライオネル父さんといる時は、確かに自らがテレビで見る人々よりも裕福であることは自覚していましたが、同時に父によって守られているのだと言うことも感じられました。そこは安全な、ある意味平凡な世界でした。
けれど撮影所やそこに関わる人、物という存在は、とにかく何もかもがエキサイティングで、非現実的でしたから。
そんな弱肉強食とも言える場所で力の限り戦い、名を刻んだアーノルド父さんを、僕は今でも心から尊敬しています。
ーーライオネル氏とハンター氏は97年に関係を解消。ハンター氏は共同親権を主張し、息子を血縁者として登録していたライオネル氏を提訴しましたが、最終的にこの訴えは退けられました。名実ともに、ライオネル氏は息子の唯一の父親になったのです。
JHG:アーノルド父さんの精神状態もありましたし、やむを得ない措置だと思います。幸い父さんはジュディ・ガーランドじゃないし、僕はライザ・ミネリじゃなかった。彼は自分が療養所にいる時は、僕の見舞いを徹底的に拒みました。弱い所を見せたくなかったんです。
それでもライオネル父さんは、僕がアーノルド父さんと会いたいと思うのを、一切阻みませんでした。
恒例として、労働者の日と感謝祭休暇は必ずアーノルド父さんと過ごすと言う決まりがあって、そのたびに僕らはあちこちへ旅行しました。一度なんか東南アジアへ行ってアリを食べたり、楽しく貴重な体験ばかりです。
ーー裁判所の判決もまた、批判を含む話題となりました。あなたの黒人としてのアイデンティティを育むのに、ライオネル氏では役目が不十分だと。
JHG:黒人としてプライドを持って生きるアーノルド父さんの姿を見ていれば、自然とアイデンティティは育まれましたよ。
それに、その点へ関していえば、ライオネル父さん自身が心を砕いていたた思います。
一つ強烈な印象に残っているのは、小学生の時のこと。僕がいつも通り、仲の良い黒人の友達に向かって「ニガー」と言った時、ライオネル父さんに平手打ちされた事があります。僕はただ、アーノルド父さんが同じように、自らの友達へ言っているのを真似したんです。
思えばあの時、ライオネル父さんは僕の事を白人だと思っていたから、発言に物凄いショックを受けたんだと思います。
後になれば、アイデンティティの選択を僕自身に委ねてくれるようにはなりましたが、当時父さんの中で認識が固まっていなかったと言うのは事実でしょう。
アーノルド父さんは、僕の事を最初から「ニガー」だと思っていましたし、そう生きるにおいて心構えを説いてくれました。彼はその点、シビアな人です。たとえ僕がどんな教育を受けようと、肌の色は変わらないと、繰り返し教え続けました。
ーーあなたは自分を「ニガー」だと?
JHG:肌の色は変わらない。
けれど、これは傲慢な考えなのかも知れませんが、グレスラーの血に白人以外の血を入れる事って、面白いんじゃないかと思って。挑戦は望むところだけれど、僕に才覚がなければクビにしてくれてもいい。別に親戚の全員がGOCで働いている訳でもないし。変わり種には慣れてる一族なんです。
ああ、でもこのマイペースさは、アーノルド父さんの血かな。
ーーあなたは幼い頃から、グレスラーの仕事を継ぐ自らの将来像を思い描いていましたか?或いはハンター氏のような生活を望んでいた?
JHG:アーノルド父さんは、絶対この仕事はするなと口癖のように。
具体的に、と言われれば難しいんですが、自分が内向的だったせいか、色々な人と話をして意見の交換をしたり、指示を飛ばす両親をかっこいいなと思って、漠然と憧れてはいました。
でも小さい頃、本当になりたかったのはアイスクリームの販売屋さん。あの可愛いジングルの鳴るトラックを運転して、毎日アイスクリームを食べていたかった!
ライオネル父さんは、沢山勉強したら、大きくなった時にアイスクリーム・トラックを買ってあげるよって。
ーーご両親はあなたの意見を尊重し、自らの意見を押し付けなかったと。けれどあなたが見ていたご両親は、人を従える地位にある、力を持った人間の姿ということですよね。
JHG:そうですね。自分が人から命令される側になるってことは、あまり想定していなかった。でも子供って、大体そんなものじゃありませんか?
ーー幼少期、ご両親が持っている力について、あなたが一番強く実感したエピソードを一つ挙げるとすれば?
JHG:初めてお会いした理容室のこと。
オーナーのペルサキス氏は、2週間に一度家まで僕の髪を切りに来てくれました。今では予約の取れない、一回500ドルはする流行の美容師が、理容室の椅子へ座るのを怖がる3歳の子供の為に、わざわざ。
後で知ったんですけど、そもそも彼が独立する際、資金を援助したのはライオネル父さんだったそうです。
ーーあなたは先程、自らが裕福であると言うことを幼い時から自覚なさっていたと仰いました。それは非常な稀有なことですね。
JHG:ニューヨークでもテキサスでも、富裕層の親は、その点を子供達に自覚的であるよう躾ると思います。ただ、ニューヨークではそれが権利である事が優先されて、テキサスでは義務である事が強制される。
テキサスのいとことソーダファウンテンに入ったとき、飲み終わればちゃんとチップを置いていく。10歳の子供でも、当たり前にやっていました。強権的に振る舞うけれど、その分周囲に気を配らなければ、尊敬はあっと言う間に失われてしまいます。ルーティンになれば楽でしょうが、慣れるまではある意味、重荷とも言えるかも知れない。
それに比べてニューヨークでは、何もかもがもっと個人的で、自由ですよね。古き良き社交界なんて崩壊しているし、誰も興味を持たない。
けれどその分、しっかり自らを持っていなければ、崩れる事も容易い、諸刃の刃です。
どちらが良いとか悪いとかいう訳では無いけれど、僕は2つの良い面も悪い面も、内在化していると思います。
ーーそれはライオネル氏が教えた「国境警備隊式騎士道」も含めて?
JHG:それが一番大きいかも。でもやはり、僕は彼らほど厳格にはなれませんでした。両親もそうあることを望んではいなかったでしょう。
ライオネル父さんは、僕をテキサスで育てる手段がいくらでもあったのに、そうしませんでした。
ーーテキサスっ子でありニューヨーカー、強さを望みながら弱いままの自らを認める、保守的でありながら反逆者、白人であり黒人。
先程自らで仰った通り、あなたの中には2つの両極端な価値観が内在されています。これは幼少期より、2人の両親から与えられた、ある意味ダブル・バインドによるものなのでは?
JHG:ええ、それは確かに。けれど僕、全然平気ですよ。
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