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ラムネ雪1
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コンサートホールの掲示板に貼られているポスターの前に立っている。
「…」
体のどこかに力が入っているような気がする。
固まっている肩をほぐすように回して、それから深く息を吸って、ゆっくり吐き出す。
ポスターには、知り合いなのに、知らない人みたいな顔立ちをした人物がスーツを着て、腕を組んでこちらを見つめている。
その表情は凛々しく、照明なのか背景なのか、ネクタイの色なのか。
それがまた、見たことがない人物と錯覚してしまう原因なのかもしれない。
送られてきたチケットに同封されていたフライヤーと全く同じだというのに、どうしてもまたプロフィールに目を移してしまう。昨夜から何度も目を通した文章を初めて読むみたいに文字を眺める。
体のどこかに入っている力を散らそうと必死になっている無意識な自分がいた。
コンサートホールで行われるのは『新人演奏会』という名目の演奏会で、各大学を卒業した生徒たちが一同に集められている。
しかも、それは各大学のピアノ科を代表する首席で、今年の春に卒業式を迎えたばかり。
大学にはあまり詳しくはないが、聞いたことのある有名大学ばかりが名を連ねている。20人以上出演者はいるが、全てピアノ科に限定され、各大学から選抜された若者たちは、将来の音楽界を担い、羽ばたいていくであろう、いわばルーキーたち。
大学の首席と名乗れる人たちも、ルーキーという存在も、同時に目にすることができる貴重な演奏会というわけだ。
都内のコンサートホールで駅からも近い。
とても大きなホール。
そのポスターの中に1人知り合いがいる。
彼の名前は、青蓮 ナツキ(せいれん ナツキ)その名前を読むだけで頭の中に彼との出来事が烟る。
今年、音楽大学をめでたく首席で卒業したらしい。文章によると、留学の経験があったり、コンサートで賞を取っていたりしている。
師事を仰いでいる教授の名前も書いてあるが、知識がないので単純にすごい人なんだろうという想像の域を出ない。
しかも大学の首席という言葉のインパクトも凄まじく、希少な生き物を見る時のような好奇心と期待を無意識に抱かせる。
つまり、立派な人間になった。
ということだ。
文章を最後まで読んで、また宣材写真を見つめる。
印刷の荒さが際立つほど、紙がヨレヨレになるほど見た。
今日は演奏を聴きにきたんだ。そして聞きたいことがある。
いつの間にか宣材写真に話しかけてしまい無言で頷く。
顎を下げて、何をやっているんだと恥ずかしくなり、視線をそらしたまま滑らかに体を動かして、掲示板の前から離れる。
コンサートホールの入り口は、掲示板がある位置からは、少し歩いて目の前の開放されている扉を潜る。
入り口の目の前には、パンツスーツを着た劇場スタッフが何人も立っていた。
「こちらでチケットを拝見いたします」
口々にスタッフが微笑みを浮かべて手を上げ、客の案内をしていた。
会場は開始しているが、開演はまだ1時間ほど先になる。だからか、スタッフは早く訪れる客に対して呆れているような雰囲気があった。
一方、そんな呆れた客に対して慣れているようでもあって、訪れた客に対し憮然とした対応はしない。
数人のスタッフが並んで一様におんなじことを口にする。
他に客もいないため、圧迫感を感じたがさっさとしろという圧もあって、戸惑いながらも、そのうちの一人にチケットを見せる。
すると、チケットの半分がもがれる。その様子をまじまじ見つめると、なんとなく緊張してきて、ゴクリと生唾を飲み込んでしまう。
生唾を盛大に飲み込んだ音が聞こえたのかと思うほどタイミングよく、スタッフが顔を上げて目が合う。
「どうぞ」
戻されたチケットを受け取って『どうも』と短く返事を返して頭を下げる。
中に入ると目の前に大きな劇場内の席図が貼られていて、その目の前に立つ。
チケットは、全席自由席なのでどこに座っても良いが、あまりうろうろ座席を探しても目立って恥ずかしいので、ある程度目押しをつけて会場の中へ入る。
ついで、トイレの位置も確認した。
会場に入ると、薄暗く感じた。開演1時間前だというのに、まばらに人は座っていた。正面から見て右側から場内へ入った。大きな通路をまっすぐ進む。舞台の上には、グランドピアノが1台と背もたれのある椅子が置いてあった。
天井は高いが、音の反響はない。
まばらに座る客の話し声が騒めいていた。
こういう時、何を重要視して座席を選べばいいのか迷う。
指定席なら、仕方ないと思えるのに。
良い音を聞くための座席だとしたらやはり通路から1段降りた座席だろうか。よく録音機材などが置いてあったり、関係者席が作られたりする場所の近く。
映像機器や、音響機材などが置いてあり仰々しくテープなどで囲いがされている。
その近くに席を取れば、良い音が聞こえるのだろうか。
確かに、その周囲の席はかなり人が集まってて、座席の列に入りづらい。
かといって、後ろへ行くのはどうだろう。階段に足をかける。
通路から見上げると後方はだいぶ影になっているが、前方よりも明らかに人は少ない。
けれど、ふと思う。
一体、自分は何に気を遣って後ろに行こうとしているのか。
ステージを再度見て、後ろの席を見上げる。
知り合いがステージに出て一所懸命演奏をしている勇姿を見るなら、後方よりも前方に席を取るべきではないだろうか。そう思い、方向を変えて通路を進んで行く。
そして、グランドピアノの後方の席に続く通路に足を向ける。
フルオープンになっているグランドピアノから会場に音が響くのを想像した。
だが、ふとそこでも考える。
椅子に座ってピアノを弾くのだから、勇姿を見るのであれば椅子がある方へ座らないと影になってよく見えないではないだろうか。
そう思い、また足を進めて通路を進んでいき、やがて中央よりも左側の階段を降りていく。
あまり手前すぎても首が痛くなるのではないかと杞憂をして、ようやっと席についた頃に会場の電子時計を確認すると、既に15分くらいうろついていた。
ステージから見て左側の通路のすぐそばに腰を下ろして、上着を脱いで身体を落ち着かせる。
それでも、なんだかソワソワしてしまうのは、会場に慣れていないからだろうか。それとも、演奏者への不安を募らせているからだろうか。
一体なんの不安?
それが、さっきからわからないのだ。
だから、余計に体に力が入って、落ち着かない。
鞄を無意味に開いて、中からヨレヨレのフライヤーを取り出す。
先ほど、ホールに入る前に見ていたポスターと全く同じもので、書いてある内容は何日も前から、何回も読み直した。
文章の内容が変わるわけじゃないのに、飽きもせずまた目を写す。
まるで、別人のような彼の宣材写真を見る。
青蓮ナツキとは、年下の幼馴染という間柄だ。
幼い頃のナツキは女児のようだった。目が大きくて色が白くて、髪が天然パーマで、泣き虫で、怖がりだった。天使のような愛らしさがあり、周囲からもとても可愛がられていた。
しかも家が音楽一家だったから幼い頃からピアノを習っているのは知っていた。その頃、彼のピアノを聞いた記憶は全くない。ピアノを習っているんだと嬉しそうに話してくれた笑顔だけはよく覚えている。
ナツキは、中学に上がる前に引越しして行ったから、それから彼には会っていない。
だから、幼い彼の印象しかなかったが、数年前に帰省した際に、何十年ぶりに彼と顔を合わせた。面影は薄れ、別人になっていた。
「えっ…!?っあ!もしかして、ゆきちゃん!?…ゆきちゃんだよね??」
と言われた時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。
まるで、グラスの底に沈んだ気泡が1つ1つ浮かんで弾けるように、彼の声が聞こえる。気泡の中の込められた想いが弾ける。
二酸化炭素を吸い込んで咳き込むような、そんな息苦しさを感じる。
眉間に皺が寄り、目を閉じる。
その名前で呼ばれるのは懐かしい。
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