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ラムネ雪13
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ステージを見るとピアノの椅子は、背もたれのある椅子に変更されていた。
数人の男性スタッフが椅子を運んで袖に捌ける。
ああやって、椅子は変更されていたのだ。魔法のように消えていたわけではない。人力によるものだったのにも関わらず、先程からずっと気づかなかった。
今日、何度も目にしたように出演者の名前が呼ばれる。
雪は、中央のピアノから視線を外して舞台袖に視線を移す。
出てきたのは七分袖のカジュアルなスーツを着た男性だった。
髪は黒く、少しだけウェーブがかかっている。
前髪が邪魔にならないようにジェルで固められている。耳にピアスはしていない。背は高く、深々と頭を下げる。
頭を上げてから、薄い笑みを浮かべて穏やかな表情で、ピアノの椅子に座る。
緊張しているようにはいえない。自信が満ち溢れているというわけではない。それでも日々の練習や場数は裏切らないとでもいうかのように落ち着いていた。きっと、経験値が高いのだろう。
座り心地を確認してから、何度か高さを調整して、自分の丁度良い位置を見つける。
今日、そんな場面を繰り返し何度も目にした。
少しだけ椅子を引くと、ギギッと控えめに椅子の足がステージを擦れる音がする。
準備が整ったようで、最後の演奏者は目を閉じて顎を少しだけ上げた。
心を落ち着かせているというか、壇上の静寂とした空気を体内に取り入れているかのようだった。
そのまま2、3度浅い呼吸をしてから、目を開けて顎を下げる。
空調の音ではない静寂が煩い。
1つの物音もくっきりと形を現してしまう様は、雑音1つで興醒めするほど感情にすら影響を与えていた。
場内の静寂は、冬の寒さに似ているような気がした。
冬の日の凛とした空気と同じ様に、この会場の張り詰めた緊張感が、指先から体温を奪っている様な気がした。
これから、この空気の季節を変えるのは、彼の演奏にかかっているし、場内の誰もがそれを望んでいる。
早く早く、この煩い静寂をどうにかして欲しい。
と、観客が彼を急かしているような気がした。
一方、ステージの彼は落ち着いていて、手に取るように静寂を楽しんでいるみたいだった。
彼が力を入れて、鍵盤を押したその瞬間から、会場の空気がガラリと変わった。まるで、静電気のようにパチパチと肌に閃光が走るみたいだった。
決して、激しい曲という訳ではない。
どちらかといえば、宗教的な曲の題名だったはず。
横文字の名前だったから、あまりよくは覚えていない。
イ長調とかハ短調とか…アリアとかマリアとか。
そういうのが確かついていたと思う。季語が入っていたような気もする。
雪にはどの単語も馴染みがなく異国の言葉のようだったことだけは記憶している。あんなにフライヤーを何度も読んだのに。
けれど、今それを確かめる余裕はない。
紡ぎ出される音の応酬に、雪は只々愕然としていた。
同じ楽器で演奏者が違うと、ここまで違うものなんだということを、見せつけられるかのようだった。
ホールの中に響く音はピアノから遠く離れた客席、天井の隅々まで届く。
その原理は、鍵盤を力強く叩けるというだけではない。
打楽器だろうが、管楽器だろうが、同じなのではないだろうか。
息を強く拭くだけとか、強く叩き付けるとか…
響くというのは、そういうことではない。
それでは、ただ大きな音が出るだけで、響いているのとはまた別問題。
音が会場内に散り散りに舞い、降り積もるかのようだった。
目の前で音が迫るように感じる。
凍えそうな冬の凛とした空気を思い切り肺腑に吸い込んだときのような、息苦しさに似た感覚。
聴覚ではなく、音を鼻腔で吸い込んでいるような、そんな気がした。
彼の指から紡ぎ出される音が、空間を支配して、聴覚から体内へと一瞬の休息を与えない。北颪のように駆け抜ける。
彼の演奏は彼以外へ緊張感を与える。思わず、全身に力を入れて身を縮こめるかのような、壊れそうな危うさを秘めている。
壇上から客席へ。山から平地へ抜けるように。
全てを拐うかのように音の猛襲が凄まじく、顔面に猛吹雪の直撃を受けるようで、思わず顔をしかめそうになる。
暴風の中、強制的に呼吸をしようとするから、息苦しさに拍車をかける。
彼が鍵盤を押すたびに、弾くような物理的な音が、鍵盤から聞こえる。今の状況が現実であると証明している。
先ほどまで、重くなっていた目蓋は得体の知れない音を奏でる彼とピアノに、終始感覚を支配されていた。寝たらもったいないという卑しい事情ではなく、命の危険を知らせる警鐘に似ているような気がした。
感情が無意識に暴走し、心が揺さぶられ涙を流すような次元ではない。
仮に、涙を流していた凍結していたかもしれない。
鼻腔の奥の水分が、凍るほどの寒風が粘膜の温度を下げ、血管を締め付ける。
塵や埃が舞い上がるような北風ではなく、それさえも全てが白銀に覆われ、凍結し、ただ1人真っ白な大地を見つめるかのようだった。
心を奪われるほど統一された色彩の大地。
息を詰まらせ、寒さに身体中を軋ませ、悴む四肢の痛みさえ忘れるほどの美しい光景。
その中に1輪の花が咲くような、そんな救いや慈悲はない。
何か暖かみや、優しさのようなものは一切感じなかった。
だから、こんなにも息苦しく感じるのかもしれない。
演奏の終焉が近づき、徐々に指の動きが遅くなる。
耳の奥から、白い息を切らせながら静寂が走ってくる。
息苦しさをなんとかしようと、強制的に繰り返していた荒い呼吸が、途端に場内に聞こえるんじゃないかと思うほど音が弱々しくなっていく。
けれど、大地に積もっていた積雪が溶けるような安心感では決してない。
物語の主人公が犬死にして結末を迎え、考察しなければ腑に落ちないような、そんな気持ちを抱えさせられる。
指がしっかりと和音を捉え、もう少しで、静寂が訪れるギリギリの緊張感。
途端に、別の何か、焦燥感に似た感情がこみ上げる。
終わって欲しくないと無意識に感じているのかもしれない。
もっと、彼の演奏の中に、答えを見出したいと探究心が叫ぶのかもしれない。
いよいよ静寂が緊張を纏いながら場内に着地する。
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