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鏡映しの空
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もう二度と足を踏み入れないと決めた羽維邸に僕は自分の意思とは表面上関係なく、また顔を出すこととなった。手も足も出ないと決めつけていた場所に面の皮厚く再訪する際の主人公の気持ちを答えよとテストで聞かれた時に受験生は困るだろうから書いておく。非常に――気が重い。それもその筈、面会謝絶の翌日だ。一日経た所で僕の心の整理さえついていないのに、どんな顔をして会いに行けばいいんだ。皮をいくら厚くしたからと言っても僕は僕である。その上、探りをいれるなんて無理難題だったかもしれない。僕は一般的な勉強嫌いの高校生であって、探偵ではない。巷には僕と同い年で殺人犯をびしばし当てていく名探偵も居るらしいが、僕はそもそも警察官とのコネクションさえ持ち合わせてはいないのだから、行く先々で死体に迎えられても困り果てる。不向きな点を挙げ続けるとすれば、警察官と検察官の違いもわからないので、聞き分けられもしない。
――と、独りごちりながらも、通い慣れた羽維邸の呼び鈴を鳴らすと、春風さんが迎え入れてくれた。この人の話によればその雪の降る日以外は僕の知りうる羽維さんなのだそうだ。その言葉を信じてこうして再び敷居を跨がせていただいたのだ。例のモスグリーンの壁紙が鮮やかな客室に通されるが、どうも落ち着かない。
「俺はもう少ししたら消えるから、後は頼むよ」
無責任な事を言い放って、春風さんは部屋を後にした。その直後、入れ替わりに羽維さんがやってきて隣のソファに腰を下ろした。
「いらっしゃい。よく来てくれたね」
やんわりとした笑顔で迎え入れられ、一先ずは安心した。きっと僕一人だったらこの表情を想像することもできずに、昨日の心の痛みを引き摺りまわして、自分を責めて、いつまでも現実から逃げていたことだろう。人の出会いは合縁奇縁とは言い得て妙だ。愛縁はきっと多くの人が探し求めているのだろうが、探さなくても向こうからやってくるのかもしれない。家宝は寝て待てかな。しかし、春風さんのあの飄々とした性格だけは奇怪な縁の方に属して欲しい、と念のためにフラグを折っておく。苦手意識は拭いきれない。
「また来てくれて嬉しいよ。もう、来ないかと思った」
あの余裕のある羽維さんの方こそが緊張状態を避け得たことに安堵しているかのような雰囲気であった。
「春風と会ったようだね」
どきりとした。その春風さんは今の僕にとって依頼主なのである。薄く存在を感じてはいたのだが、行きずりでしかなかった筈の僕は、ついその依頼内容の中に強く惹かれる宝石の欠片があるように感じてあろうことか請け負ってしまったのだ。報酬として、案件に携わっている間は羽維邸へ入れるよう手配をとって貰え、もし万が一失敗したとしても、その助力がなくなるだけで、後は僕の好きにしたら良いという後腐れがなく、それでいて極めてリスクの少ない提示であった。
それにしても一体どうしたら良いのだろうか。僕はその報酬にうつつを抜かしたのではなく、ただ羽維さんが僕の贈り物を大切にしてくれていたという事を心の糧に、あの冷たい態度の背景について知ることで状況を呑み込めるのではないだろうかという算段があったのだった。とは言え、策を弄すればする程に深みにはまるもので、初手から行き詰まっていたのだった。
「ここに客人が通い始めたのは久しぶりでね、手厚く歓待する品ももう揃っていないので、何度も同じもので飽きてしまうかもしれないが珈琲でも飲まないかい」
「ええ、いただきます」
羽維さんお手製のあの珈琲を再び口にすることが奇跡のように感じるなんて数日前は考えもしなかった。ふつふつとコーヒーカップの淵に泡が浮き、豆の香りが立ち上る。この珈琲は他のどんなものよりも美味しかった。
「君の珈琲豆も甘美でね、全て無くなってしまうのが惜しくて、大切に飲ませていただいているよ」
「お口に合ったようで嬉しいです」
春風さんの話と照合してもきっと本心なのだろう。
――初めて羽維さんを見かけた時、美しさに目が奪われた。自分の目の機能が異常になってしまったのではないかと疑った。この世の者とは思えない程に洗練され、俗世離れした、繊細な美しさだったのだ。最初はそれだけだった。その容姿に魅了された、華の蜜にむらがる蜂同然だった僕は、幸運にも蜜を吸う事を許された。その優しさに触れる度に僕の中が満たされ、次第に離れがたくなってきた。だが、世界の中心が僕だけであれば、それで事は丸く済むのであるが、先方にも都合や感情があるもので、それらの言葉にさえし難く見えにくい、不透明な事柄のせいで僕は、羽維さんを醜くも疑っていたりするのである。近くに寄れば寄るほど霧が濃くなるように、道が見えなくなる。そしてそれは、冷却剤のように、少しずつ熱していた心持ちをなだめすかしていく。もしかしたら僕は時代にそぐわない身分の違う恋というものにうなされていただけかもしれない。春風さんからの依頼に陰りが出てきたことをきっかけにどんどん弱気になっていく。身の程を知らねば自身の首を締めかねる。我ながら程よい語呂と含蓄じゃないだろうか、今度ノートの端に書いておこう。
刺繍の入った厚手の生地の遮光カーテンと、レース編みされたレースカーテンに囲われた窓から空を見上げる。今日は快晴だった。雨雲さえ見当たらない。どうして雪が降るのだろう。どうしてその日だけ羽維さんは気を落としているのだろう。そしてあの写真の女性は。どの問いも軽々と口にできるようなものではなかった。と僕は思っているのだが――本当にそうだろうか。
「ここは、秋空のようですね。なんだか人間みたいで」
「……厭かい?」
「いえ、まさか。むしろ心地良いくらいですよ。いくら表面を整えたからと言っても、人間の心というのは良くも悪くもあって、それでいて雲のように流れていくものですからね。それに、ここに来て羽維さんとお話していくと心が洗われるようで、ついこう何度も足を運んでしまいまして……」
「私は孤独な人間だから、こうして君が来てくれるのを楽しみにしているんだ。年甲斐もなくはしゃいでいるようだが、まだ日の昇らない暗い朝に目が覚めて、今日は君が来るかどうかと、世の中が停止したまっさらな時間の中で思うんだ。笑ってくれて構わないさ。初恋をこじらせた年寄りみたいだと自分でも呆れている」
だったら、どうして、昨日は。と尋ねたい所ではあるが、それでは新婚当初に勢いが空回りして家族のルールなんてものを明確にさせ、愛と己の平和の基盤としようとする女々しい者のようだ。迂回路を探さねば。
「ふふ。君、また何か考えているだろう」
「え」
「そう黙られてしまえば誰だって気が付くさ」
自分の中の、手前勝手な感情で真っ黒に汚れた思考を羽維さんの前だけには出したく無かった。僕と対照的にこの人は真っ白である。有彩色を忌避し、無彩色の世界でもカラースライダーの移動は許さずに、ただただ白を、精神の潔白を突き詰めたが故に、脇目をふらずに道を絞り、他の色になれずに、白に交わり白くなったような人だ。いとも簡単に折れてしまいそうな、そして折ってしまっては二度と扉は開かれないような意思の強さもまた持ち合わせている。しかし、彼のプライドとは一体どこから来るものなのかが僕には見えなく、策を練ろうにも練られない。練っている内に寝てしまう。僕は戦闘のプロではない。僕の目的は――羽維さんの事が知りたい。僕が初めて自らの意思で選んだ人だった。それまでは学校という集団に属した際に相手側からもたらされる人間関係であって、それは時と共に消え失せるものであった。だから初めから深くは肩入れしなかった。いつかは無くなってしまうのであればこの人がいたら僕は幸せだなんていう錯覚に捕らわれ、離れがたくなるのだ。それはきっと辛く、苦しい。だから身を守っていた。どこかでそんな運命を喉から手が出るほど、自らの足で運命を変える程に求めていたにも関わらずにだ。
「羽維さん、僕、もっと知りたいです。貴方のことを、この家のことを、あの蔵書も、そして写真の女性のことも……」
「そうか、やはりあの時、見られてしまっていたか。嫉妬、したのではないかな。君は昔の私に似ている所があるからね、君の感情はなんとなくだが想像できる。だがとりあえずは落ち着いてくれ。彼女はもう居ないんだ。関係が無いのではなく、存在がない。――亡くなったんだ。もう遙か昔に」
「……尋ねては、いけないことでしたね」
「いやいや、そう早合点するものじゃない。話をしてあげようか。これは春風にも言ったことがないのでね、そういう背景だけを踏まえてくれればそれでいい」
そして羽維さんは珈琲を一口ゆっくりと飲み、ソーサーにカップを戻し、話を始めた。
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