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よくある犬猿の仲【1】
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昼下がりの日射しを受けた波がきらきらと輝く。
堤防の内側には数隻の船が留まり、荷運び用の小舟に積み荷を降ろしていた。
初夏には早い時期の海風はやや冷たく、日差しにほてった体を心地よく撫でていく。
停泊場から少し離れた広場にはいくつもの露店が出ており、船乗りや旅人、親子連れが食事を楽しんでいた。
屋台の店員が愛想よく客をさばく。
「戦士さん、注文は?」
「ベーグルサンド。と、鶏の串焼きとツナハムクレープ」
「1580Rだ。飲み物は?」
「連れが買ってる」
ソルは右手で釣りを受けとり、手首を返して紙袋をつまんだ。
左手の人差し指と中指に串焼きを挟み、親指でクレープを持つ。
と、細い指がひょいと串焼きを抜き取った。
「ウィザ」
ローブを着た魔導師が串焼きをくわえ、逆の手で紙コップを3つ突き出す。
「ルイボスとストレートティーとカフェオレ」
「中身入れて持てるか?」
「ーーーーぐぉっはあ!!」
ソルとウィザは振り向いた。
停泊場の脇には乗船手続き用の小屋がある。そこの扉がはじけるように開き、妙齢の女の団体が二人の前を横切って行った。尖った口調で頷きあいながら、広場の向こうへ去っていく。
「……ひ…ひどいよ、マダムたち……」
開いたままのドアのそばで、神官が一人、ひき潰されたカエルのように倒れていた。
平和だった世界に魔王が現れ、魔物が闊歩するようになって、しばし。
『魔王を倒したものには望みの褒美を与える』―――そんな王家からの通達によって、多くの者が旅に出た。
そんな、よくある世界のよくある話。
政治経済の中心である王都へは、陸海さまざまなルートが敷かれている。古くは交易路と呼ばれる陸路を使うのが一般的だったが、造船・航行技術の発展に伴い、現在は海路を行く者の方が多い。
特に各港からの定期船は観光や出稼ぎの足としても馴染んでおり、手続きをすれば誰でも簡単にチケットを買うことができる。
はずなのだが。
「イスト、メシ」
「あ、ありがとう……でもちょっと待って」
服の土を払い、イストがよろよろと起き上がる。
「時期が悪かったかな……この港から王都に向かう定期船は満席だってさ」
「あ゛ぁ? 秋のバザールには早いんじゃねえか?」
ウィザがストレートティー片手に怪訝な顔をする。
ソルはベーグルサンドをかじってそちらを見た。
「バザール?」
「王都でやってる定期市だよ。氷の結晶から砂漠のバラまで、世界中の品が集まるって聞いてるぜ」
「へー」
イストが肩を落としてため息をつく。
「ちょっと遠いけど北の港から乗るしかないかな。ソル、寄ってくれるかい?」
「行くのはいーけど」
ソルは物入れから地図を広げた。
いびつなΩ形の大陸の左下方が現在地。そして、湾を挟んだ右側奧にあるのが王都・リモーニアだ。
「ここから北っていうと……カンツァーノより向こうだぜ」
「かの有名な武闘都市だね」
「前に行きてえっつってた街か」
ソルは頷いた。
「夏が終わるまでに着きてーから、港までは送ってけないかもしんねーぜ」
「十分だよ。言ったろ? キミたちの旅に付き合うって」
緩んだ空気を見計らったかのように、果物のカゴを背負った少女が顔を出す。
「食後のデザートいかがですか? 50Rで飾り切りもできますよ」
「あはは、じゃあお願いしようかな」
イストが銅貨を渡して目を細める。
「北か。これからの季節は過ごしやすくなるね」
そんな話をしたのは、ほんの数時間前のことだ。
『――――ッギギャァ!』
ソルは飛び込んできた魔物を打ち払った。体重の乗ったかかとが砂に埋まる。
突き刺すような太陽の光を背負い、イグアナに似た魔物が威嚇の声を上げた。
硬化した背びれはナタのようなエッジが効いており、木の枝程度なら苦も無く叩き折れるだろう。
尾をくわえて体を丸め、魔物が車輪のようにソルへと突っ込んでくる。
ソルは長剣を握り直し、低い位置から逆袈裟に一閃した。
『ピッ……!』
眉間を裂かれた魔物の口から尾が外れる。
伸びた腹を返す刃で撫で斬って、ソルは背後からの気配に視線を転じた。
牧草用のフォークのように変化したアゴをもたげ、小熊ほどあるクモの魔物が足を狙ってくる。
「火炎よ!」
ソルは垂直に跳び上がった。
足元を横薙ぎの火柱が行き過ぎ、ひるんだ魔物が足を止める。
ソルは落下ついでにその背を真上から突き刺した。
六本の脚を痙攣させ、魔物の体が塵となって消える。
「サンキュ」
「おう」
ウィザが額を拭い、ソルと同じ方向を見る。
揺らめくかげろうに溶け込むように、二十を超える魔物の群れが彼らを囲んでいた。
「ウィザ、派手にヨロシク」
「言ったな」
ウィザが挑発的に歯を見せて笑った。
めいめいに雄叫びをあげ、魔物の群れが一斉に地面を蹴る。
「はじけろ!!」
沸き起こった爆発があたりの空気を熱風で塗り替えた。
黒焦げになった魔物たちの遺骸は砂となって砕け散り、街道に静寂が戻る。
「………ふー」
ソルは長剣を納めた。物入れから水筒を取り出し、喉を濡らす程度に一口飲む。
コップから跳ねた水滴が地面に落ち、染み込む間もなく蒸発した。
脳天を貫く日差しと照り返しが容赦なく全身を炙る。
それらを遮る日陰はなく、ただただ地平まで続く砂の海があるだけだ。
「過ごしやすい気候か……」
「イスト、お前すげーな」
「おかしいよ!! 異常だろこんなの!!」
木の枝を杖代わりにして、はるか後方からイストが叫ぶ。
先程の港町を出て二、三時間といったところか。地図では右手に林、左手に貯水湖からの川が流れているはずだが、見える景色は先ほど述べたとおりである。
「おかしい……絶対おかしいよ…あの港からこの距離でこんなに気候が変わるワケない……」
「あんまりしゃべんなよ、喉乾くぜ」
ソルは地図の裏を見た。
作成日は今年の頭。右下に『傭兵派遣所連合謹製』の刻印がある。王都発行のものに比べれば若干の縮尺ミスがあるものの、手頃な値段が特徴だ。
「(そろそろ買い替えるか)」
ソルは地図を巻いた。
「一応、この辺に町があるはずだけど……なきゃ野宿な」
「…………いいね、こんな大きなベッド初めてだよ」
どこか虚ろな決意をしたらしいイストを横目に見つつ、ソルは内心で手持ちの防寒具を数えた。
砂漠の夜は冷えると聞く。
荷物には防風用のアルミブランケットがあるし、ウィザも大判のストールを持っていたはずだ。一晩灯しておく程度の固形燃料もある。二人で野宿をするぶんには問題ないだろう。
ソルはちらりとイストを見た。
「(……こいつは何か持ってんのかな。神官服ったってフツーの布じゃねえ?)」
と、ウィザが目元に手をかざした。
「おい、あれじゃねえか?」
かげろうの向こうに円筒状の木の塀が見えた。魔物の襲撃を防ぐため、町や砦の周囲にはよく設置されているものだ。
「アレルヤ! 行ってみよう!」
「そーだな、野宿もキツそーだし」
「屋根がありゃ上等だろ」
思い思いに口にしながら足を進め、塀の切れ目にある入り口をくぐる。
と。
「――――ッッこの! 盗んだモンを出しやがれこのアバズレぇ!!」
イストが一歩を踏み出したポーズのまま硬直し、ウィザがぎょっとして騒ぎの方を見た。
見るからに人相の悪い筋肉質な男が、華奢な女の髪を掴んで振り回している。
ソルは半眼で町の景色を眺めた。
砂漠のど真ん中ということを差し引いても埃っぽい。下手をすると町の外のほうが快適に息ができるだろう。
朽ちた看板の道具屋の店先には何の商品も置かれていない。
足もとには何かのカケラが散乱し、風が吹く度に砂に埋もれてはまた顔を出す。
通行人のほとんどがストールやターバンで頭を覆い、騒ぎを避けるように通り過ぎていった。
「風呂はムリかもしんねーな」
「言ってる場合かい!?」
放心から抜け出したイストが男女の間に割って入る。
「お、落ち着いて! 乱暴はいけません、どうしました!?」
男が怒り泣きのような表情で叫んだ。
「この女がうちの品を盗りやがったんだ! 十日かかってやっと仕入れてきた薬草を……!」
「わ、わかりました、ではオレが買い取ります。おいくらですか?」
「は」
「おい!!」
ウィザの制止は間に合わず、跳ね起きた女がイストの手元を掠め取った。そのまま、白革の長財布を抱き込むようにして人波に飛びこむ。
「ソル!」
「しょーがねーなっ」
ソルは地面を蹴って女を追った。
遅れてイストの悲鳴が上がる。
「ええええ!?」
「バカ! こんなところで財布出すな!」
後ろの騒ぎを聞き流しつつ、ソルは腰の長剣を鞘から引き抜いた。
「ーーーーあっ!!」
投げつけた鞘に足をとられ、女が大きくつんのめった。巻き添えを食らった通行人ともつれあって転びながら、慌てて起き上がろうとする。
ーーーーざずっ!
ソルはスカートの裾へ切っ先を突き立てた。
地面に縫い止められた布地を何度か引き、女が青ざめた顔でソルを見上げる。
「服の文句は神官サマに言ってくんねえ?」
「っ……!」
「ママ!」
小さな影がふらふらと駆けてきた。
10才にもならないような少女である。目に見えて頬が赤く、熱に浮かされているように瞳の焦点が怪しい。
「来ちゃダメ、逃げなさい!」
「ソル!」
ソルは目の端に女を捉えたまま振り向いた。
足早に駆けてくるイストの後ろで、ウィザが牽制するように周りに視線をやる。
大多数の通行人が目を伏せて通りすぎる一方、やじ馬根性にかられた者たちが遠巻きにソルたちを囲んでいた。
女がぐっと息を詰める。
「わ……わかったわよ、気の済むようにすれば!? でも娘には手を出さないで!」
「娘さん……」
「子持ちはやめとけ」
「まだなにも言ってないだろ!?」
イストがウィザの手を振り払った。
こほん、と咳払いする。
「ええと……熱があるのかな、小さいレディ? 脈を見ても?」
「診れんのか?」
「少しはね」
イストが膝をついて少女の首筋に触れた。
「熱中症だね。気付けに少し塩を摂った方が……」
と、荷物を開けかけて手を止める。
「いいぜ、開けな。妙な野郎はぶっ飛ばしてやんよ」
ウィザが肩越しにやじ馬を見渡した。
目のあった何人かがこそこそと後ずさる。
「俺もいい加減手が疲れてんだけど」
「……抜けばいいじゃない」
ソルは女に向かって手を出した。女がしぶしぶ財布を出す。
ソルは財布を受け取り、後ろへと放り投げた。
ウィザがそれを片手で受け止める。
「イスト、中は見とけ」
「ありがとう、ちょっと待って。……そう、ゆっくり噛んでね」
イストが少女の手のひらに塩を出し、薬草をかじらせている。
ソルは長剣を鞘に納めた。
「一晩泊まりてーんだけど、宿は?」
「あると思ってんの?……半年前から雨は降らないし、魔物に貯水湖は壊されるし。あたしだって好きで残ってるんじゃないわよ。こんな呪われた土地」
「どういうことですか?」
女はやけくそのように肩をすくめた。
「ここじゃしおれたキャベツ一つが何万Rもするのよ。よそから仕入れる手間賃に、毒バチの血清代まで上乗せされてね」
「血清?」
ソルとウィザは首をかしげた。
イストが苦笑する。
「一種の解毒剤だよ。たくさん精製できるものじゃないから、価格を上げて使う量を調整するしかないんだ。最近は教会での治療呪文が主流だけど……」
「そんなもん、とっくに患者で満員よ!! 近くの神父さまは魔物に殺されるし、次から次へ、ろくでもないことばっかり……! 財布くらいなによ! 子供抱えて生きてるあたしの身にもなりなさいよ!」
ウィザがむっと眉を吊り上げた。
「おい、聞いてりゃ言い過ぎーーーー」
ごぅっ、と。
熱風があたりの音をかき消した。
砂漠にはつきものの砂嵐ーーーーではない。
ごうっ、ごうっ、と一呼吸程度の間を保って、頭上からの風が吹き付け続けている。
つくりの甘い屋根板が引き剥がされ、立ち込める砂ぼこりの中でちらちらと光るものが舞う。
「熱ちっ!? な、なんだこれ……!」
「火だ! 燃えてるぞ、早く消せ消せ!」
通りのあちこちで悲鳴が上がった。
砂塵に混じって街に降り注いだ火の粉が乾いた布や材木に落ち、次々と細長い煙を上げている。
ソルは長剣に手をかけた。
道の前後に怪しい気配はない。熱風の発生源は屋根の上、いや、さらに上ーーーー
「奥さん、娘さんと安全なところに!」
「てめえもだイスト、下がってろ」
ウィザがローブの袖で口元を覆い、逆の手を空へ向ける。
「はじけろ!」
上空で起こった爆発が砂塵を吹き飛ばした。
台風の目のように拓けた空の中で、翼のようなシルエットが翻る。
「火炎よ!」
一直線に伸びた火柱が影を直撃した。
炎に包まれた影の主はバランスを崩し、吸い寄せられるように地面へ落下する。
かに、思われたが。
「ぃよっ、と」
骨ばった猛禽の足がソルたちの前に着地した。体の表面を撫でるように炎が切れ、燃えるような赤毛の青年が姿を現す。
金の目が撫でるようにソルたちを眺め、ウィザで止まる。
「よォ。今の呪文はお前ぃかえ?」
隈取りのある目元が妙に機嫌よく細められた。
顔だけ見れば二十を過ぎた若者のようだが、袖から伸びる手は足と同じく、鳥のような三本指だ。
唐風の衣服の背には細いスリットが入っており、鶏を思わせる翼が伸びている。その艶のある羽毛のひとつひとつが火の粉を落としながら燃えていた。
「魔物……!」
「魔物だ!」
やじ馬たちが緊張した面持ちで囁きあう。
「貯水湖を壊した奴らの仲間か?」
「神父さまを殺した奴かも……」
「なんのこったぇ?」
青年がぐるりと周囲を見渡した。
ひっ、と短い悲鳴が洩れたが、それでも体格のいい数人が進み出る。
「な、なんだお前は! この町を襲いに来たのか!?」
「ふゥン……? そう言やァ、どこぞの誰ぞがそんな計画を吠えてやがったかの。この年ンなると|大概《てぇげぇ》のこたぁ右から左でよ」
と、小指で耳を掻く。
「ナニ、気まぐれ起こして降りただけよ。わしァこの辺りが気に入りでの。見映えのいい庭ンなるように、散歩ついでに弄ってンのさァ」
「庭……?」
「おうサ。風情のある枯れ庭ンなったろう?」
くかかっ、と青年が笑う。趣味を披露する老人のように、密やかな得意げを隠さずに。
「水だ緑だを除くにゃあチョイとかかったが、そこは道楽のうち。手をかけただけの見栄えにゃあなったの」
「なっ……ん、だとぉ!?」
一際背の高い住民が声を荒げた。
「お。お前が! やっぱりお前がやったんじゃないか! この日照りで何人が死んだと思ってる!? お前らが貯水湖を壊したせいで、俺たちの暮らしは……!」
「知るかェ。庭の具合を見ンのに、足元の羽虫の生き死になんざ気にもしねえよ」
「ふっーーーーざけるなぁ!!」
「いけない、落ち着いて!」
イストの制止を聞くそぶりもなく、いきりたった数人が青年に襲いかかった。
「フン」
と鼻で笑って、青年が翼を広げた。
火の粉を落とす程度だった羽毛の火が膨らみ、翼全体に燃え広がるようにして巨大な炎となる。
「くかかかっ!!」
打ち出された炎の塊に直撃され、先頭の一人が悲鳴もなく炭と化した。
他の者が怯む間もなく、荒れ狂う炎の波がやじ馬たちへ伸びる。
「加護を!」
半透明の障壁が炎を受け止めた。
神官の扱う結界呪文ーーーーだが、次の瞬間に障壁は大きくきしみ、ふちから無数の亀裂が走る。
「オレの魔力じゃ防ぎきれない……! 早く避難を!」
「はじけろ!」
ウィザの放った爆発呪文が炎を散らした。
瞬きほどの差で、結界の障壁が音もなく砕け消える。
ソルは腰の長剣に手をかけた。
火の粉と砂塵を目くらましに、青年とソルがそれぞれ互いを捉える。
ひゅ、と、煙から飛び出してきた猛禽の足が目の高さを薙いだ。
その蹴りをくぐるように膝を折り、下から跳ね上げるように鞘を払う!
「ぬぁっ!?」
浅い手応えが刃に伝わった。
さらに踏み込んだ一閃で砂煙を裂き、青年の姿を確実に捉えーーーーソルは目を見開いた。
数分前まで二十才半ば程度に見えた『青年』の顔には、深いしわが刻まれていた。
まっすぐに伸びていた背は骨張った弧を描いており、頭髪にも、毛羽立った翼にも白い毛が混じっている。
絶句したのは1秒未満、動きを止めたのはそれ以下の時間だっただろう。
『青年』が皮膚の余った口元を吊り上げた。
「どうしたぇ、若僧」
下段からの膝蹴りがソルのみぞおちにめり込んだ。
胃から突き上げる衝撃と吐き気をこらえ、返す刃で『青年』の腿を斬りつける。
「ぐっ……」
「かふっ……!」
それぞれの反動で間合いが開く。
そのタイミングを逃さず、ウィザが『青年』に狙いを絞る!
「貫け!」
圧縮した衝撃波が放たれる刹那、『青年』の翼が下向きに炎を噴いた。
と同時に、『青年』が地面を蹴る。
上空へ飛び上がるには至らない出力だったが、『青年』は宙で体をひねるようにして衝撃波をかわした。
着地の間際に火の残る翼を広げ、ソルと向けて空打ちする!
「ゴホッ……!」
ソルは手の甲で鼻と口をかばった。
吹き付ける熱風と火の粉で、耐刃生地のジャケットがちりつくような熱を持つ。それを意識した途端にじわりと汗がにじんだ。
気温と運動によって体温が上がれば、呼吸は早くなるーーーーが、火の粉を含んだ熱気で肺を焼く気はない。
ソルは最低限の息を吐き、再び『青年』へ斬りつけた。
「ッぐぅ!」
振り抜いた刃で『青年』の胴を裂き、側頭部を狙ってきた回し蹴りを打ち払う。
『青年』が悪態と共に後ろへ退がった。
最初にやじ馬を焼いた火の玉、そして先程の火の粉。威力の差を比べるまでもなく、『青年』の動きは秒単位で鈍くなっている。
演技や疲労の類ではない。ソルには思い当たるフシがあった。
筋力の衰え、動体視力の処理の遅れーーーー隠しきれない『老い』の滲んだ動きだ。
「ぐ……っ!」
一閃が『青年』の腕を切り裂いた。
艶の失せた羽毛がこぼれおちるように抜けていく。にも関わらず、『青年』の翼が再点火するように燃え上がった。
「規律を!」
虚空に現れた光の輪が『青年』の翼をひとまとめに捕らえた。
帯電するような光が走り、翼の炎が弾け消える。
「イスト!」
「魔力封じかぇ……! 神官の割に芸達者な……!」
『青年』が強引に翼を広げ、光の輪を引きちぎる。
ものの数瞬ではあったが、『青年』の注意がそちらへ逸れた。
機を逃さず、踏み込みの体重を乗せた斬り上げが『青年』の胴の傷へ交差する!
「……っく……!!」
翼をばたつかせて後退し、『青年』が辛うじて深手を避ける。それを追い、ソルは更に一歩を踏み込んだ。
ぐにゃり。
地面を踏んだはずの足が妙な感触を捉えた。
「(え……?)」
ソルの動きが一瞬止まる。
と同時に『青年』が大きく翼を羽ばたかせた。
立て続けの熱波と暴風で限界が来ていた家々が崩れ、頭上からソルを飲み込む!
「しまっ……」
「加護を!」
イストの唱えた結界はソルの背丈ぎりぎりで発動した。
降り注ぐがれきが次々と障壁の上に積み重なって小山を作る。
『青年』が目をすがめてイストを見た。
毛羽の乱れた翼に炎が灯る。猛禽の指先が、す、と伸びる。
「はじけろ!」
横からの爆発が『青年』の炎を吹き散らした。
余波に巻き込まれたイストが地面に背を打ち、降り注ぐ火の粉から教典をかばう。
ウィザは苦い顔でイストにかけよった。
「立てるな!? 文句はあとだ、退がってろ!」
「っ……すまない、……無理、みたいだ……」
「あ"ぁ!?」
ウィザはイストを引き起こした。
目立つ外傷はない。
今できたばかりの擦り傷とやけどを加えても、起きて走るには支障のない傷だ。
にも関わらずひどく呼吸が浅い。高熱の最中のように瞳の焦点が怪しく、手の甲を押し当てた頬が熱い。
「おい! しっかり――――っぐぅっ!」
横からの一撃がウィザのこめかみを蹴倒した。
焼けた砂で頬を擦り、起き上がろうと仰向いた胴に、どすん、と衝撃が落ちる。
「…………ッ!!」
みぢッ、と肺の軋む音がした。
『青年』が枝に留まるようにウィザのみぞおちに乗り、その場でひょいと膝を折る。
「羊の毛かえ? それにしちゃ燃えねえの」
『青年』が見せつけるように翼を広げた。はらはらと火の粉が落ちるが、ウィザのローブには焦げ跡すら残らない。
ヤクーのローブ。
はるか東の草原地帯にのみ生息する、ヤギの毛で織られたローブである。
燃えにくい繊維の質と複雑に組まれた織り目によって、炎が広がりにくく、刃物で裂くことも容易ではなない。
元々はその大陸に住む遊牧民たちの普段着だったが、商人たちを通じて機能性の高さが広まり、都市部では高級品として扱われている。
布としてはかなり丈夫だが、当然、鎧ほどの防御力はない。
「なァ、オイ――――最初の種火ァ良かったのぉ」
「あ"ぁ……!?」
ウィザは『青年』の足首を掴んだ。
ぶぁっーーと、かまどから洩れ出したような熱風が吹きつけ、一瞬意識が遠のきかける。
翼で宙を扇ぎ、『青年』がくつくつと笑った。
「見ての通り厄介な性分での。派手に炎を出すのァいいが、それ相応の老いぼれ姿になっちまう」
「ッ……たら、すっこんで茶でも飲んでろ……!」
「ほ、言うのぉ」
猛禽の脚が角度をつけて押し込まれた。
「がッ……!」
「ナニ、よそから火をくべりゃあ足し火になんのサ。そうサの、街ひとつ燃《も》しゃあ釣りが来る」
ひぃ、と、遠巻きにしていたやじ馬たちがおののく。
『青年』がウィザに視線を戻した。
「来るが、それよりお前ぃを持ち歩いた方が手間がねェと思ってよ」
「人をマッチみてえに……! っ、ぐ」
『青年』がウィザの口に指をねじ込んだ。
「使い捨てにされるかはお前ぃ次第サ。次の一声でわしに足し火をすりゃあ良し。無駄口叩こうってンなら――――」
押し込まれた爪先がウィザの喉を掠った。
「はらわたを焼く」
「ッ……!」
ウィザは相手の指ごと歯を食いしばった。
視界の端で、イストの抱えた教典が仄かに光っている。
辛うじて結界を維持しているようだが、術者が気絶すればがれきの中のソルは良くて生き埋め、悪くて蒸し焼きだろう。
何よりもソルを守ったままでは、イストが自分自身を守る呪文を使うことができない。
つ、とにじんだ汗が首筋を伝った。
噛まれた指から血が滴っているにも関わらず、『青年』は涼しい顔でウィザを眺めている。
ウィザは深く息を吸った。
「…………は」
「うん?」
『青年』が目を細める。
ウィザはその背後、積み上がったがれきの小山に狙いをつけた。
「はじけろ!!」
「ハッ!」
哄笑と共に『青年』の翼が燃え上がった。渦を巻いた炎が腕を伝い、ウィザの喉へ向かう。
と同時に、爆発ががれきの小山を吹き飛ばした。
「ウィザ!!」
宙に漂うがれきの残骸を斬り払い、ソルが地面を蹴る。と同時に、イストの結界が綻びるように解けた。
ソルの位置から『青年』に至るまで、直線で五歩。
「(――――いや、四歩半!)」
と、判断するまでに一歩。
二歩目の加速を殺さないまま、三歩目で上体をひねり、腰だめに構えた長剣をきつく握る。
「なっ!?」
―――――ばざぁぁああっ!!
慌てて羽ばたいた『青年』の翼から大量の羽根がソルへ吹き付けた。
燃え盛る羽根と火の粉をもろともに射抜き、四歩目の勢いを乗せた切っ先が『青年』の背を貫く!
「が……………っ!」
『青年』がのけぞるように体勢を崩した。ウィザの唇に届きかけた炎がかき消える。
ソルは五歩目の着地と共に、剣先を鍔元まで押し込んだ。
「…………ッ!」
『青年』の体が強ばり、一瞬の間を置いて弛緩する。
ウィザが浮いた足の下から転がり出し、咳き込みながら体勢を立て直した。
ゆっくりと前に倒れた『青年』の体は魔物の摂理に漏れず、そのまま砂になる。
はずだった。
「ーーーーくっ!?」
不意に『青年』の体が火柱を上げた。
伸び上がった炎に顔を炙られ、ソルが反射的に長剣を引く。
火柱は何も燃やさないままかき消え、一抱えほどの火の玉が地面に落ちた。
「くかかっ! ひとまずぁ痛み分けだのぉ!」
「あ!?」
内側から伸びた翼が火の玉を割り、赤毛の子供がぴょこんと飛び出す。
姿こそ子供だが、唐風の衣装と猛禽の手足、何より幼い顔に不釣り合いな老獪さは『青年』の面影を濃く残している。
ソルはとっさに長剣を横へ薙いだ。
それを跳びずさってかわし、『青年』がひよこのような羽根を広げる。
「こいつ……今の野郎か!?」
「明察。仕切り直し、といきてぇところだが……」
不敵な笑みを浮かべた『青年』の眼差しが横へ滑った。
イストが熱の残る地面に手をつき、這うように立ち上がろうとしていた。
「続きぁ次にさせてもらうぜ!」
「逃がすか!」
「吹き飛べ!」
長剣の軌道と衝撃波が交差する。が、『青年』は一足早く上空へと飛び上がっていた。
つむじ風のような熱風を残し、『青年』の姿が彼方に消える。
「追うか?」
「……火球なら届くだろうよ」
ウィザが苦々しく呻いた。
焼けて擦りきれた上着を押さえ、イストがよろよろと二人に近づく。
「ソル……! ……ウィザ!」
「よ」
「あの魔物は?」
ソルは首を横に振った。
「……いや、無事で何よりだよ。早く傷の手当をしなきゃ」
「お前の?」
イストがきょとんと目を瞬かせる。
「オレの治療じゃ不安かい?」
「そうじゃねえよ」
ウィザが拳の背をイストの腕に当てた。
誰のものともつかない苦笑が空気にとける。
「……悪り。ミスった」
「あ゛ぁ?」
「心臓いったと思ったけど、外したみてーだな」
ソルは長剣を納めた。刃にほのかな熱が残ってはいるが、なまくらになるような温度ではない。
ウィザが眉を寄せる。
「今のはしくじったってより、」
ごとん、と、こぶし大の石が足元に跳ねた。
元は崩れたがれきの一部だろう。
その出どころを不思議に思う間もなく、同じような石がソルたちの付近に飛んできては転がる。
「でーー出ていけ!!」
「ええっ!?」
イストが裏返った声を上げた。
やじ馬、いや、おそらくはこの辺りに住む住民たちが、ひとかたまりになってソルたちを睨んでいた。
「み、見てたぞ! そこの魔導師が最初に呪文を撃ったんだ! そのせいであいつは降りてきたんだ!」
「奴がまた来たらどうする!? 自分たちはもう街を出ていくから知ったこっちゃないってか!?」
「死人が出たのよ!」
布を被せられているのは最初の男の遺体だろう。後ろに固まる数名が囁きあう。
「魔物相手とはいえ、後ろから刺すなんて……」
「所詮旅人なんざ素性の知れない流れ者だからな」
「そんな……! 待ってください、彼らだって今、危なく命を落としかけて……!」
「黙れ!」
バウンドした石がイストのすねを掠めた。
「行こーぜ」
「おう」
「あ、ま、待ってよ!」
ソルは住民たちに背を向けた。半歩後ろにウィザが続き、イストが小走りであとを追う。
「ウィザ、薬草いくつ持ってる?」
「10枚もねえな」
追い立てるように足元に小石が落ちる。
住民たちはまだ何かを叫んでいたが、追いかけてまで石をぶつけようという気概はないらしい。
「っと」
ソルは角を曲がって足を止めた。
先ほどイストが手当てした少女が拳を握って仁王立ちしている。
「もー出てくぜ」
ソルは少女の横を通り過ぎようとした。
少女が勢いよく両腕を広げ、ゆっくりと曲がり角の奥を指す。
見れば、5、6人の住民が路地にひしめくようにしてソルたちをうかがっている。
見覚えのあるスリ騒動の女ーーーー少女の母親がきまり悪そうに手招きをした。
「手狭ですまないね」
「とんでもない! お心遣い感謝します」
イストが水の入ったボウルに指先を浸け、安堵の息を吐く。
この街に住んで長いという住民の家である。申告通り広くはないワンルームだが、どうにか十人近くが詰めて座るほどのスペースはある。
住民の一人がカーテンの外をのぞいてため息をついた。
「しばらく落ち着きそうにないな」
「早いところこの街を出たほうがいいだろう。……戦士さん、これを」
三人分の旅装マントが差し出された。
頭から腰までを覆うつくりになっており、首の部分は深めのフードになっている。
「この街の者ならみんな持ってる日除けだ。フードを被れば一目では顔が見えづらいだろう」
「どーも」
ソルはマントを受け取り、ひとまず横へ置いた。熱波の中で動き回った体はまだ熱を持っている。
ウィザもよほど堪えたのか、横になったまま、息止め競争のように洗面器に頭を浸けていた。
「(ま、実際やばかったな)」
ソルは手桶を受け取り、自分のタオルを浸して頬に当てた。
熱した卵が固まるように、人の体を作るたんぱく質もまた、熱によって凝固する。真っ先にダメージを受けるのは細い血管や神経の集中する脳だ。
そのため脳は異常な暑さを感知すると『体を動かすな』という指令を出し、運動による体温の上昇を抑えようとする。
だが、目の前に敵がいる状況では足かせ以外の何物でもない。
そして安静にしたとしても、体温を安全な値まで下げることができなければ、先にあるのは死だ。
イストが冷えた手で額を押さえる。
「とんでもない魔物だったね……羽ばたくだけであんな熱風が起こるなら、雨雲なんて簡単に吹き散らされるよ」
「ああ、半年降ってねーんだっけ」
「では、ここ最近の異常は全てあの魔物のせいだったと……?」
住民たちが顔を見合わせる。
「……あたしは初めて見たわよ」
「おう、半年前に見かけてればすぐに退治を依頼してたさ。街の金が尽きる前ならなあ……!」
「かなり広い範囲を飛び回ってるのかな。以前に壊された貯水湖はどのあたりですか?」
イストがペンを片手に自分の地図に印を付ける。
ソルはそれを眺めつつ、タオルの冷たさに意識をやった。
疲労のせいだろう、耳の奥で空耳が蘇る。
ーーーー『なんのこったぇ?』
「あのぅ……」
「ん?」
住民の一人がおずおずとソルの隣を指差した。全員がそちらを見る。
ウィザが数分前と変わらない姿勢のまま、水の入った洗面器に突っ伏し続けている。
「ちょっ、ウィザ!?」
イストがウィザの襟首を掴み、勢いよく顔を上げさせた。
前髪から水を滴らせ、ウィザが面食らった顔で瞬きする。
「なんだよ」
「ううん………………立派な肺活量だね」
イストがウィザの顔にタオルを押し付けた。
■□■□
さて、場所は少々移動する。
ソルたちが体力を回復している頃、『青年』もまた自身の巣に戻っていた。
先ほどの町から山をいくつか越えた先ーーーー本来は氷として蓄えられるはずの雪解け水が完全に溶け出し、巨大な空洞だけが残った洞窟。
そういった場所の一つである。
短い翼で着地した『青年』に数名の魔物が駆け寄った。
簡素な鎧をつけたデーモンやインプなど、いずれも下等の魔物である。
「お帰りなさいませ、フェルニクス様!」
「ナニサ、構いなさんな。てめえの大将でもねぇ相手に丁重なこった」
「そのようなことは……!」
「おや、またその可愛らしい姿ですか、フェルニクス」
『青年』は険のある顔で洞窟の奥を見た。
何十本もの帯状の光が天井近くに集まり、巨大な渦を作っている。
その真下でひどく猫背の人影が立ち上がった。
細身の体を包み込むような銀髪は床まで伸びてなお余る。血管が透けるほど白い肌に対し、目元のくまは描いたように濃い。
「だから言ったでしょう。気まぐれに表を出歩くなんて時間と魔力の浪費だって。脳無しのスライムでさえ二度やれば覚えますよ?」
「はぁン?」
ひっ、と周囲の魔物がざわついた。
しかし銀髪は怯まない。いずこからか漂ってきた光の帯を細い指で巻きとり、頭上の帯の塊に放る。
「今朝伝えましたよね。『同胞たちが東を攻めるから、煙の上がったときに合流を』と。あなたのために火を起こしてあげたのにどこをほっつき歩いて」
「大概にしねェな、日陰育ちのメドローム」
『青年』ーーフェルニクスが歯を見せた。
「魔王様は『この地を落とせ』と命じられただけで、お前ぃと組めたぁ一言も言ってねえ。顎で使われる覚えぁねえぜ」
「はっきり言って目障りなんですよ。次からはあなたを数には入れませんから、せめて不確定要素を加えないでもらえますか」
メドロームの頭上の光の帯が大きく軋んだ。フェルニクスが威嚇するように両の羽根を広げる。
たまらず何体かの魔物が割って入った。
「おやめください、メドローム様!」
「フェルニクス様も……! どうか、ここは我々にお慈悲を!」
「フン! 仲裁まで部下頼みかえ」
「なんですって!?」
「メドローム様! なにとぞ……!」
ーーーーごぅっ!
一陣の熱風を残し、フェルニクスが洞窟の外へ飛び去る。
メドロームがきつく眉を寄せて息を吐いた。
壁際に控えていた小隊が姿勢を正す。
「……失礼。報告中でしたね」
「はっ! ご命令通り、北の山道一帯を荒らして参りました! ……しかし、本当に村には手を出さなくてよろしいのですか?」
メドロームが愉悦を滲ませて微笑む。
「ええ。それで良いのですよ」
■□■□
「ーーーーで、その物資用トンネル? を使や隣村に着くんだな?」
「多分な。北に向かう街道は山崩れで封鎖してるから、急ぐならこっちがいいだろうってさ」
「確かにこの辺りで野宿は落ち着かないよね……っと」
横倒しに倒れた枯れ木を越え、イストがふうと息をつく。
砂漠地帯を抜け、山沿いの街道に入ってそろそろ1時間といったところか。
ソルは先ほどの町で描いてもらった地図を眺めた。
季節によってはハイキングを楽しめるほど歩きやすい山らしいが、あたりには無数の落石や木の根が転がっている。
「そうだ、まだお礼を言ってなかったよね。財布を取り返してくれてありがとう」
「ん」
「……ふん」
ウィザが目元に垂れてきたフードを直した。
布一枚とはいえ、突き刺すような日射しはかなり軽減される。
「(もーワンサイズ小さけりゃ文句ねえんだけど)」
ソルは肩を震わせてだぶつきを調整した。
「あ」
と、落石で斜めになった立て札が目に入る。
「『この先物資トンネル、至ル北西ピオーニ村』……これだな」
携帯用のランプを灯し、一列になってトンネルへ入る。
曰く、街道が整備されるより昔に、行商人の行き来のために掘られたものらしい。最低限の手入れはされているようだが、人通りのない通路特有の湿っぽさがある。
「狭ぇな……この幅じゃすれ違うのもやっとじゃねえか」
ウィザがクモの巣を払って呻く。
「狭いところ苦手かい?」
「……まあな」
「大聖堂も裏は狭くてさ。小さい頃はよく妹とかくれんぼしてたよ」
「へえ」
ソルは背後の会話を聞きながら長剣に触れた。どう抜こうとしても壁に肘がぶつかる。
幸いにもそう長い通路ではないらしく、前方には丸い光が見えた。おそらくあと数メートルで外だろう。
と、目の前の光がふ、と陰る。
――――ふわわわわわんっ!!
鼓膜がかゆくなるような羽音の群れが正面からソルたちにぶつかった。
「なんだなんだなんだぁぁぁっ!?」
イストの悲鳴が反響し、跳ねたランプの灯りに霧のような影が映し出される。
ばちばちばちっ、と、無数の何かがフード越しに体にぶつかる。
「ッ、この……!!」
「え」
背後で呪文の気配が膨れ上がる。
ソルは即座に地面を蹴り、羽音の群れを突っ切ってトンネルの外へ飛び出した。
そのすぐあとを追うようにウィザの呪文が炸裂する!
「火炎よ!!」
「ぎゃぁぁああ!」
通路の中から炎が吹き出し、イストが悲鳴と共に転がり出た。
それでもとっさに結界呪文を唱えていたらしい。どさ、と尻餅をついた瞬間、イストの体を包んでいた障壁が消える。
「あっつつ……! 今の、なんだい!?」
「ウワサの毒バチみてーだな」
ソルは足元に散らばる死骸の群れを見た。
一体の大きさは1センチ半ほどか。小指の爪程の針を持つ魔物が2、30匹、黒焦げになって息絶えている。1匹や2匹ならともかく、手間取れば確実に刺されていただろう。
その見本のように、数歩先で大柄な男が気絶している。
ソルは今飛び出したトンネルを振り返った。
出口すぐの天井付近に、スイカほどのハチの巣がぶら下がっている。もしこちら側から来ていれば入る前にきびすを返しただろう。
今の炎が当たったのか、燃えたまま巣に戻った毒バチがいたのか、巣はパチパチと音を立てて火だるまになっている。
遅れてトンネルから出ようとしたウィザの前に、自重を支えきれなくなったそれが落下した。
「うおっ!?」
ウィザが数歩後ろへ飛び退いた。
十数匹のハチが巣から飛び出し、空中で真っ二つになって落ちる。
ソルは長剣を鞘へ戻した。
「うぇぇ……こんなもん放っておくなよ」
「マジで最低の手入れだな」
「こっちも気にかけてよ!」
イストが倒れている男を抱き起こした。
丸太ほどある二の腕の脈を計り、苦心の末、あお向けにひっくり返す。
「祝福を」
かざした手のひらから柔らかな光が広がり、男の顔色に少し血の気が戻った。
「毒は消したけど刺されてる箇所が多いね。よいっ……しょ」
イストが男の肩を担ぎ、ふらつきながら立ち上がる。
ソルは下草の生い茂る山道に足を向けた。見た目は獣道だが、よく見ると整備されていた道の跡がある。
「……ちょ、ちょっと待ってソル、置いてかないで……」
「ん?」
「…………手を貸してほしいな」
ソルは道を戻り、イストの逆側に回って男の背を掴んだ。
幸い目指す村は遠くない。
それでも気絶した人間を抱えての移動はゆっくりとしたものになり、村に着いた時には日が沈みかけていた。
畑沿いに家が並んでいるが、明かりのついている家はその半分ほどだ。観光地とは程遠い農村である。
と、農具を担いだ中年の男がソルたちに駆け寄ってきた。
「グレッグ!? グレッグじゃないのか!!」
「わわっ」
担いだ男の腕を掴まれ、イストがバランスを崩しかける。
「たまに来る行商人だよ。魔物にやられたのかい!?」
「……おそらくは」
男が両手で頭を抱える。
「ああ……! なんてこった、神父さまに続いてこの人まで……!」
「落ち着け、まだ死んでねえよ」
ウィザがため息をついた。
「毒は治療しました。どこか休めるところはありませんか?」
「ううん……!? 参ったな、この村に宿はないし……俺のベッドじゃこの人には小さすぎる……」
「あそこは?」
ソルは村のすみに見える教会を指した。
男がもごもごと口ごもる。
「あそこは……その、駄目ってことはないが、しばらく前に神父さまが亡くなって、みんな気味悪がっちまって……」
「つまり無人なんだな?」
「すみません、一晩お借りします」
ソルたちは足早に教会に向かった。
町の食堂より少し大きいか、という程度の礼拝堂である。
入口の扉は押すだけであっさりと開いた。
「不用心だな」
「そういう慣例だからね」
イストが苦笑する。
中はいわゆる『教会』のレイアウトに漏れず、正面に祭壇、十数個の長椅子が2列に並んでいる。
「くそ、こっちは施錠してるか」
ウィザが奥へ続くドアをひねって苦い顔をした。
「イスト、とりあえず下ろせ。いい加減もたねえだろ」
「そうだね。ソル、机の裏を見てみて」
「裏?」
ソルは祭壇の前にある机をのぞきこんだ。内側に打たれた釘にカギが引っかけてある。
「おおっ」
「そういう慣例だからねえ」
イストが遠い目で聖印を切った。
ドアを開けた左手には物置ほどの小部屋があった。家具はテーブルと椅子のみで、壁の一面がカーテンで仕切られている。恐らく懺悔室の神父側だろう。
廊下を挟んで右側に家具一式の揃った部屋がある。どうやらここが神父用の私室らしい。
一つしかないベッドに大柄な男を寝かせ、イストが深く息を吐いた。
「んじゃ、寝る仕度しようぜ」
「えっ?」
ソルとウィザは礼拝堂へ戻り、長椅子を端に寄せた。
そう時間はかからず、三人が足を伸ばして座れる程度のスペースができる。
「全部どけるか?」
「扉側の列は壁代わりでいいんじゃねえ?」
イストが感嘆と脱力の混じったため息をついた。
「あとで戻すんだよ」
「わかってるわかってる」
手の届く位置に荷物を置き、簡単な夕食を済ませる。
野宿というわけではないが、一人は起きていた方がいたほうがいいだろう。
くじ引きで見張りの順番を決めて数時間、あるいは数十分が経ったころ。
「ーーーー……」
ソルは何かが動く気配を感じて片目を開けた。
携帯ランプの淡い灯りが目に眩しい。
はす向かいに座るイストが床に落ちた便せんに手を伸ばしたところだった。
「ごめん、起こしたかい?」
「……や」
ソルは長剣を掴んだ指を緩めた。
イストが苦笑する。
「そんな格好で眠れる?」
「外ならこんなもんだよ」
ソルは椅子の足にもたれたまま肩をすくめた。あぐらに近い姿勢で片膝を立て、長剣を抱えるように肩に立て掛ける。
時刻は日付の変わる少し前といったところか。
傍らではウィザがショールを目元までかけて横になっている。
揺れる灯りが三人を照らし、壁にいびつな影を映していた。
「……彼、起きてこないね」
「基本朝まで寝てるからな」
「行商人の彼だよ」
イストが苦笑した。
「できるだけの手当てはしたから、早めにお医者にかかれればいいんだけと」
イストが手元の便せんを折り畳んだ。1通は教会の紋章つきの封筒に、もう1通は淡い花柄の封筒に入れて封をする。
膝の上に残った便せんには奇妙な計算式が描かれていた。
「何語だ……?」
「……ああ、術式を組み直してたんだ。結界呪文の強度は落とせないから、範囲を変えて長持ちさせようと思って」
イストが手元の紙をソルに向けた。
数式に似た計算式に、現代語ではない文字が代入されている。
「悪り、全然わかんねー」
イストがペンの尻で式をなぞる。
「結界呪文はね、強度と範囲次第で必要な魔力の量が変わるんだ。カバーする面積を小さくすれば、強度を変えずに長い時間維持していられるようになる」
「どれくらい?」
「削った面積の展開にかかる時間と同程度かな」
「ふー……んぇ?」
「術者のコンディションにもよるけどね。展開中に消費される魔力を節約すれば維持時間は増えるけど、途中で衝撃を受けると構成が切れるデメリットが」
「ちょ、悪り、マジでわかんねー」
と、扉をノックする音がした。
「誰だろう?」
「見てくる」
ソルは立ち上がった。
他にも家はあるはずだが、窓の外は墨を塗りつけたように暗い。
片手で長剣を握り、細く扉を開ける。
「よかった、無事だね」
夕方、村に入ってすぐ話した男が立っていた。もう農具は持っていない代わりに、タオルにくるんだポットを抱えている。
「うちのかみさんからだよ」
「どーも」
「ソル? 誰だった?」
ソルは半歩体を引いた。男がイストを見て会釈する。
「さっきは慌てちまって悪かったね」
「いいけど。フツー代わりの神父が来るもんじゃねえ?」
室内の灯りが揺れて男の胴を照らした。イストがランプを持ち上げたのだろう。
「いや……その」
「?」
「実は、前の神父さまは魔物に殺されちまって……だからかな、聖都からも連絡が来ないんだ」
「そー言やふもとでそんな話聞いたな」
聖都に連絡がつかないのは別の理由だろうが、ここで説明しても長くなるだろう。
男が妙に熱をこめて頷く。
「あんたらには見慣れた事件かもしれないが、どうにも気味が悪くてなぁ……! だってよ、教会って言や神様のお膝元だろ?」
――――ぬらりっ、と。
男の背後で巨大なものが光った。
見上げたソルの視線を誘導するように、長身の影が片手に握ったものを振り上げる。
「なのに神父さまが襲われたのは、この教会の中なんだよ」
振り下ろされた刃が男の背を裂いた。
引き潰されたような悲鳴が洩れ、血しぶきが床に飛ぶ。
「ソル!?」
「来るな!」
ソルは長剣をかち上げ、影に鋼鉄の鞘先を叩き込んだ。
深く考えているヒマはなかった。退がれば踏み込むスキを与える。
影が僅かに後ろへよろめいた刹那、ソルの背後で二人分の声が重なる!
「はじけろ!」
「英知を!」
爆発が正面玄関ごと影を飲み込み、イストの手のひらに光の球が生まれる。
天井付近に飛び上がった光球は輝きを増し、昼間のように辺りを照らした。
土煙の向こうで人型の魔物が起き上がる。
身長はソルの2倍はあるだろうか。紫色の体躯は全体的にひょろ長く、所々にこぶのような筋肉がついている。
顔の位置には刃物で線を引いたようないびつな目鼻がついており、珠の足りない数珠か、ひどく雑に作られた人形のようだった。
「ぅ……」
ソルはか細い呻き声を聞いてそちらを見た。
背中を斬られた男が這いずるように教会の奥へ逃げ込もうとしている。
「(生きてる?)」
「ーーーーソル、よそ見してんな!」
ウィザの一喝が響いた。
怒号のような雄叫びを上げて、魔物が再び突進してくる。
ソルは突き込まれた剣先を絡め取るように逸らし、相手の刃を受け流すように長剣の鞘を払った。
しかし、魔物もそれを予想していたのか、下半身のバネを使って刃を翻す。
―――――ぎっ! ぎぃん! ぎぎぎぎっ!!
刃物同士がぶつかる耳障りな音が響く。
よく見れば魔物の持っている武器はひどいものだった。柄の形から辛うじて剣だとは分かるものの、刀身は色がわからないほど錆びており、とどめに中央から折れている。
まともに食らえば骨の数本は折れるかもしれないが、切れ味は無いに等しいだろう。
交差した刃を押し付けるように、魔物が一気に間合いを詰める。
ソルはあえてその勢いに逆らわず、床を蹴って後方へと跳んだ。
再び床をとらえた、はずのかかとが何かにつまづく。
「っ!?」
うずくまる男の背に足を取られ、ソルの体がのけ反るように傾く。床から両足が離れた状態では、しのぐにも斬りつけるにも踏み込みが効かない。
そのスキを見過ごすわけもなく、魔物が剣を振り下ろす!
「加護を!」
空中に現れた障壁が上段からの一撃を受け止めた。
床に背を打ったソルが跳ね起きるよりも早く、魔物が鋭くイストを睨む。
「貫け!」
圧縮した衝撃波が魔物のすねを打ち抜いた。
魔物が大きく前方へつんのめり、地響きを立てて片膝をつく。
――――っるぐぉおおおおおお!!
空気を震わせるような咆哮を上げ、魔物が体ごと両腕を振り回した。
とっさに構えた長剣の表面を削り取るように剣が行き過ぎ、這いつくばる男のすぐ上を空振りしてイストへ向かう。
しかし、明らかに目測を誤ったそれは、イストが身をかわしたこともあり、上着の肩口を少し掠めて長椅子を叩き割った。
「――――っ、かはッ!?」
直後、イストの胴体に袈裟がけの傷が走り、噴き出した鮮血が床を染める。
「な!?」
ウィザが横合いからイストの襟を掴み、引き倒すようにかっさらった。返す刃がローブを掠めるが、血が吹き出すようなことはない。
ウィザが床のショールを掴んで傷を押さえる。
「イスト! おい、イスト!!」
返事はない。辛うじて意識はあるようだが、上向いた喉からはか細い呼吸が洩れるだけだ。
床を踏み鳴らして距離を詰める魔物に、ウィザが舌打ちとともに手のひらをかざす。
「吹き飛べ!」
魔物が両腕を交差させて衝撃波をこらえる。
ソルは砕けた長椅子を踏み台に魔物の背に跳び、無防備な肩口に長剣を突き立てた。
――――しゅぽっ、と、スポンジでも切ったような手応えを残し、魔物の腕があっさりと胴から離れる。
「あ……!?」
切り離された腕は煙のように消え、握っていた剣だけが空中に残る。
それを逆の腕で掴み取り、魔物が振り向きざまに背後を一閃する!
「――――っ!」
腕を痺れさせるような衝撃が長剣を通り抜けた。
受け止めるには威力が強すぎる。しかしヘタに刃を交えれば、折れるのはこちらの武器だろう。
「え……!?」
ソルは魔物の手元を見てぎょっとした。
折れた刀身の輪郭を縁取るように、一回り大きな光の刃が伸びている。
飛びのいたソルの鼻先を剣が行き過ぎるが、光の刃は前髪どころか、砂ぼこりを揺らすこともない。
「(生き物……? や、魔力を斬る剣か?)」
錆びた切っ先が数秒の差で目の前に迫る。
ソルは思考を中断してさらに後方へ跳んだ。抜き身の長剣を鞘に納め、着地と同時に抜き打ちを放てるように構える。
しかし魔物はソルに背を向け、再びウィザの方へ走った。
「しまっ……!」
慌てて放った一閃は僅かに届かない。
止血に気を取られているウィザをめがけ、魔物が剣を振りかぶる。
「………ち、びきを…!」
――――こうっ!
立ち上った光の柱が魔物を飲み込んだ。
自身の魔力全てを使ってアンデッドやゾンビを土に還す、神官の切り札・浄化呪文である。
イストが何度か咳き込み、薄い胸を上下させた。
「イスト!」
「ッのバカ、回復呪文が先だろうが!」
「……はは…。怒鳴ら、ないでよ……怖いなぁ…」
ソルはイストとウィザに駆け寄った。
その背後で光の柱が真っ二つに割れる。
「は……?」
――――ッるぐォおおおおおお!!
ソルとウィザは左右に飛び退いた。
その中央を割るように、折れた刀身が床にめり込む。
と同時に、ウィザが抱えているイストの腕に、切っ先で引っ掻いたような裂傷が走った。
「あ……っ!」
うずくまったイストの手から教典が滑り落ちる。
おそらくは反射的にだろう、手を伸ばしかけたイストを、ウィザが悪態と共に引き戻した。
空振りした光の刃が教典を裂く。
ソルは目をみはった。
厚紙で幾重にも補強した表紙が破け、何枚かのページが外れて床を滑る。
「ウィザ。イスト連れて外出てろ」
「あ゛ぁ?」
ソルは二人を背に長剣を構えた。
「わかんねーけどヤバいんだよ」
祝福を受けた水は魔物よけの効果を持ち、聖職者は日々の修行によって主の加護を得る。
だが 『聖なるもの』が魔物に力を発揮するように、『聖なるものを斬る何か』がこの光の刃だとすれば、イストにとっては最悪の相手である。
ソルは細く息を吐いた。
浄化呪文に飲み込まれたにもかかわらず、魔物に消耗した様子はない。
それどころか斬り落としたはずの腕で剣を構え、まっすぐにソルへと突進してくる!
「(もしこいつがイストを叩くつもりなら――――)」
ソルは靴底を床につけたまま、すり足のように体重を移動させた。
「(途中で軌道をずらして、邪魔なヤツは体当たりで弾く!)」
その思考を読んだかのように、光の刃がソルの横を行き過ぎた。
と同時にソルは同じ方向へ跳び、魔物の親指を斬り飛ばした。
無論これが痛手になるかは分からない。だが確実に武器を持てなくすることはできる。
勢いよく振った剣が魔物の手からすっぽ抜け、天井に突き刺さる。
「火炎よ!」
カウンターの形で放たれた火柱が魔物の体を呑み込んだ。
ウィザが息をつく。
「あとは医者だな。交代で担ぎゃ下山できるか?」
「………………。無理はしないでね……」
「どういう意味だてめえ!」
ふつっ…………と、蜃気楼のように魔物の体が消えた。
ぎし。
ぎし。
ぎし。
と、微かな音が続く。
ソルとウィザは音の方向を見上げた。
虚空に現れた手が剣の柄を掴み、前後に揺らしながら天井から引き抜く。
ソルはウィザを突き飛ばして飛び退いた。
落下の勢いが乗った一撃が床を抉る。
「ーーーーっく!」
みたび現れた魔物は先程と同じく、傷一つない姿をしている。
対して、イストの出血は未だにショールを染めており、素人目にもこれ以上動かすのは危険だ。
突き込まれた切っ先をかわし、次ぐ横薙ぎを長椅子を盾にしのぐ。
破片と粉塵が視界に立ち込めた。
死角から振り上げられた一撃に、一瞬、ソルの判断が遅れる。
「火炎よ!!」
火柱がソルの頭ごしに魔物の腕を飲み込んだ。
おそらくは先程のソルと同じく、剣を握る手を攻撃して時間を稼ぐつもりだったのだろう。
――――ゥ……ォォオ……!
魔物の顔が苦悶に歪み、目に見えて動きが鈍くなる。
「!」
ソルは床を蹴り、魔物の手首を横薙ぎに斬り飛ばした。
体から離れた手は例のごとくかき消え、赤く焼けた剣が落下する。
ソルはすぐさま鋼鉄の鞘へ持ちかえ、錆びた刀身を打ちすえた!
「ウィザ!」
「吹き飛べ!」
もともと折れていた刀身が鞘の一撃でく字型に曲がり、衝撃波によって柄からねじ切れる。
ピントがぼやけるように魔物の姿が薄れーーーーそれきり、ソルたちの前に現れることはなかった。
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