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序
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イグナシオ・サンチェス・メヒアスはマンサナレスの闘牛場で、午後のきっかり5時に雄牛の角へ掛かった。
一方、ジャック・ハンス・グレスラーがエンシエロ(牛追い)で同じくトロに撥ね飛ばされたのはコンセプシオン通りでのこと。時間は朝の9時40分か45分だったか、はっきりとした記憶がスヴェンにはない。
8月最後の日曜日、5日間続くロザリオの聖母の祝祭が幕を開けた日の事だった。町外れから牧童達に追い立てられた15頭ほどの牛達と言えば、街へ到着する頃にはもう取り返しのつかないほど興奮していた。一団が遠く放つ嘶きと荒い鼻息は、通りへずらりと居並ぶ見物客の興奮も否応なしに煽る。
最初ジャックはスヴェンと共に、フランチェスコ修道院前の仮設ガードレールから身を乗り出すようにして待ちかまえていた。群衆の最前列、しかもここは道幅が狭くなっているから、駆け抜ける牛達の迫力をどこよりも間近で味わうことができる。
なのに、あの青年は柵の向こうへ出て行った。路上で待ちかまえるお調子者達に感化されたわけでもあるまい。既に彼は、通りの入り口で情け容赦なく突き転がされ、逃げようとしては無様に足をもつれさせ地面に倒れる参加者の姿を認めていたのだ。
興奮と期待でめっきり口数の少なくなったジャックは、黒目がちの瞳を無邪気な乙女のように丸く見開き、魅入られていた。実体を持つ漆黒の疾風と化した、汗ばむうねりに。どよめきと楽しげな悲鳴を軽々凌駕していく、アスファルトを割り砕く勢いで叩きつけられる蹄の轟きに。
今すぐ躍動しそうな確かな弾力と、発展途上の青いしなやかさを兼ね秘めた20歳の肩を抱き、スヴェンは安全な場所で物見を決め込むつもりだった。危険と刺激を求めてやってきたにも関わらず、既に酷く満ち足りながら。40を過ぎたばかりで、彼はこの世の誰もが望む、ありとあらゆる物を掴んでいる。仕事での成功、それに付随する富、名声。どれも一度握りしめたが最後、決して手放すつもりはなかったし、取りこぼさないだけの力を持っていると常々思っていた。
そんなスヴェンにジャックが微笑みかけたのは、ひらりと軽い身のこなしでアルミの柵を飛び越え、暴走する群を目と鼻の先に迎えた時のことだった。ココア色の肌が燦然と輝く夏の朝日に照りつけられ、産毛の一本一本を艶めかせる。薄く開かれた唇の合わせ目が、余りにも美しい珊瑚色だったから、スヴェンは喪失感を忘れ、じっと食い入ってしまった。手を伸ばそうとしなかったのは、予兆だろうか。
運動など得意ではないと言っていた癖に、ジャックは逃げ惑う挑戦者達も、全力で突っ込んでくる牛達も、紙一重の距離で避けることに成功し続けた。まるで優雅な足運びを要求される、古のダンスを踊っているかのように。
もちろん、運の良さは長く続かない。群の塊から離れ、低く下げた頭を左右に振れながら蛇行に疾駆する牛は、ちゃんと角を削ってあった。けれど思い切り体当たりされたら、人間など一たまりもない。引っかけられた身体は、まるでクラッシュ・ダミー人形を使ったテストの如く、軽々と宙を飛ぶ。
それだけならば重度の打撲か肋骨の骨折程度で済んだのだろうが、地面に叩きつけられた時に頭をぶつけた歩道の段差、これが問題だった。意気揚々と太い首を振りながら小走りで去る黒い獣の向こうで、コンクリートに叩きつけられた青年の頭がゴムボールのように弾むのを、スヴェンは目にした。
咄嗟に柵を乗り越え駆けつけたのは、彼を救い出すためだと、神かけて誓うことができる。だが道路に横たわるジャックの姿態を目にした瞬間、スヴェンは全身の血の気が引いたような感覚に襲われた。
余りに自らの理想へ適った存在を前にすると、普通の人間ならば畏れの余りその場へ立ち竦んでしまうのだろう。
だがスヴェンは写真家だった。恐ろしいほど理想的な。それは彼の生きる世界以外では、冒涜的と言う言葉で表現される気質だった。
見物にプラウベル・マキナ67を携えていたのは癖のようなものだ。祭典の賑わいや、ましてやポートレートを撮るつもりなど更々なかった。
死んだ胎児を思わせる姿勢で身体を微かに丸める青年へ、カメラを向けたのは、普段撮影所で築く計算尽くの感情からではない。
それは呼吸のようなものだった。絞りとシャッタースピードの調整もそこそこに覗いたファインダーは、まるでこの瞬間を待ちかまえていたのように、一分のぶれもなく被写体を捉えている。軽く握り込むような形で投げ出される手のひら、右目から流れる血──眼球が破裂していることは一目瞭然だったが、その青ざめた顔に浮かぶ表情は、苦痛ではなく煩わしさだった。この世から免責された存在が、世俗の騒がしい声を耳にしたとき浮かべるものだ。
冷静に撮影へ取り組むスヴェンを、周囲は無神経な野次馬か報道記者だと思ったのだろう。12回のシャッター音が響き、フィルムが使い切られた頃、ようやく憤慨した救護人達が彼を押し退け、歩道へと運び出した。この祭りの為に待機していた救急車へ乗り込もうとすれば、怒りに口元を強張らせる救急隊員が手を突き出して追いやり、後部ドアを閉めようとする。「彼はこの青年の保護者だ」とその場の誰かの取りなしが信じられたのは奇跡に近かった。
もっともその親切な人間ですら、事実を知ってはいても、理解など出来ていなかったに違いない。スヴェンが彼らの想像以上に冷たく、確固たる意志で運命に向き合っていたと知るものなど、恐らくは誰一人として。
そもそも、理解出来ようはずもないのだ。写真家と被写体の関係を。二人の間に結ばれる太く強固なものを。運命の糸なんて繊細で優しげなものではない。被写体は、相手の身体に爪を立て、肉へ食い込ませながら引き寄せる。そして写真家は血を流してでも、相手を自らの手のひらへ収める。そうしてこそ初めて、被写体の全てを、命ですら意のままに扱う、暴君としての権利を得るのだ。
今や詩的霊感は、二人を奴隷として迎え入れた。それを畏れはしない。少なくとも自らは。悪路を揺られている間、スヴェンは手にしたカメラを、まるで神に捧げる贄を掲げ持つ神官の如く、抱え込んでいた。
自らの運命を変える局面に立ち会っていることを、まざまざと感じながら。
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