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「車なら俺のを使えよ。返すときにガソリン入れといてくれればそれでいい」とマノロが電話口で提案するまで、レンタカーを借りる予定だった。普段スヴェンが生活するニューヨークやロンドンと違い、スペインは観光客すら車での移動を前提とされる。
マドリードから2時間の距離を、ドライブとして楽しむことは想定していなかった。が、バラハス空港の駐車場に停めてあったルノーの青いセダンならば、平坦な道行も少しは慰められるかもしれないと希望も持てるし、恐らくはアーニーも臍を曲げたりはしないだろう。
アーノルド・ハンターとの付き合いそのものは長い。けれど人々の言う彼の『甘やかされた愛人気質』に、スヴェンが真っ向対峙する羽目へ陥っているのは、ここ数年のことだった。
ファッション・モデルは馬鹿だと言うのが定石だが、アーニーほど利口な男をスヴェンは知らなかった。彼の口数の少なさを、無知故だと思いこんでいる痴れ者も世には存在するらしい。全くのナンセンス。沈黙の効果と、それに伴うを言葉の希少価値を十二分に心得ている者こそが、会話の達人と言うものだ。
頭のおかしいパーティーで無数に繰り広げられる歓談の中で、彼が自発的に話題を提供することは滅多にない。姦しく下衆な噂話に打たれるのは穏やかな相槌のみ。そのことに気付いた者だけが、甘い果実を味わえる。ウイスキーへ浸した氷砂糖を思わせる瞳にじっと見つめられて。身体の血管を流れるハイチの神秘、輝くような黒い肌をつと寄せられて。そして一番音域の低い弦楽器じみた、重く甘やかな声が、誰か一人にのみ放たれていると理解が及んだ途端、その輪の中には嫉妬がさざ波の如く広がるのだ。
アーニーは自らが作るポーズを完璧に理解していた。だからこそ表現者として成功できた。
そして表現者は自らを理解するよう、向き合う相手に強く要求するものだ。
この欲求を我が儘と言うのは安直だと、今の仕事に就いてそれなりになるスヴェンは知っていた。レフ板に囲まれカメラの前に立つとき、自らの意見を口にすることを、アーニーは恐れなかった。己の主張を、同じくらい強い意見を持つ撮影者とぶつけ合うことで生まれる緊張に、喜びすら感じていた。彼は撮影所を真っ当な恐怖で支配した。結果として、伝説になった。
44歳の今も伝説は刷新され続ける。その時は自らを巻き込む形であって欲しい。スヴェンが旅に誘ったのは、近頃特にひりついているらしいあの男の神経を慮っただけではなかった。11月に公表されるドルチェ&ガッバーナのキャンペーンまで、時間は余りない。フラグシップ役にアーニーの起用を提案したとき、広報担当者は俄然興奮していた。17年ぶりの再タッグ。この年月はリバイバル・ムーブメントを作る頃合いとして申し分ない。伝説よ今一度という訳だ。
パパラッチもやたらと鎮静剤を処方する医者もいない、のどかな田舎町は、アイデアを練る場所としてうってつけだ。スヴェンは敢えて機材を持ち込まず、意見交換へ徹することに決めていた。退屈する暇もないだろう。何せアーニーは魅力的な話し相手だし、アーニーも自らのことをそう位置づけていると、スヴェンは知っていた。
取りあえず、会ったら一番に投げかける言葉は「これから一週間、しっかりサラダを食べることだね。抗不安薬由来のむくみを取るのに、新鮮な野菜に含まれるミネラルとビタミンほど良いものはないから」
他の人間が叩けば沈黙が満ちる軽口も、スヴェンが口にすれば受け入れられる。それどころか笑って、肩に軽いパンチの一発でも食らわしてくるかもしれない。それとも、欠伸混じりにぼやくだろうか。「君が来るまでに、もう散々腹へ詰め込んだよ」
ミラノにてモデル・スカウト、業界で云うところの『転売屋』として名を馳せたマノロが構えるのは、邸宅と云うほど大袈裟なものではない。クエリャルの中心から数キロほど離れた小高い丘にそびえる、こじんまりした家だった。コルドバかどこかの建築家が自らの隠居先として設計した比較的最近の――つまり、少なくとも前世紀後半の――建造で、マノロが買い取って修繕した際には一財産かかったのだとか。
家主は数日前から、きついカスティーリャの陽光に辟易し、ノルマンディの農園へと逃げ去っている。今頃は陽気なゲストとして周囲を楽しませながら、カルバドスをがぶ飲みしているだろう。
夏期休暇に、彼がスヴェンへ自らの家を貸し出したのは、既に何度目かのこと。人から歓迎されるには、金をばらまくか、行儀良く振る舞うかだ。マノロは賃料を受け取らないが、後者へは徹底的にこだわる。スヴェンは幸い、理想的な客人と言えた。
月面と見まがう白い砂道を走り抜け、丘を登る。緩やかな坂道を登り切った頃には、漆喰と、麦色の煉瓦が組み合わされた建物と邂逅することが出来た。裏のガレージへ車を回すため、ぐるりと周囲を半巡しても、それは小洒落たネオ・クラシカル式建築以上の印象を抱かせない。おざなりに植えられたニオイヒバが、味気ない砂地で今にも瀕死の体に枝を揺すっていた。
グローブボックスへ放り込んであった電子キーで、インナーガレージのシャッターを開いたとき、そこへ先客がいなかったことへ落胆してはいけないのだ。仕事には決して遅れて来ないことで有名なアーニーは、私生活だとそれなりにずぼらな面を見せる。予定では昨日に到着しているはずだが、そう、それはあくまでも予定に過ぎないのだから。
まだ正午を過ぎたばかりで、通いの女中も到着していないらしい。ガレージと同じく、家の中もしんと静まりかえっていた。
この静寂はすぐさま破られるだろう。ならば今は、心行くまで味わうべきだ。取りあえずスーツケースを居間に放り込み、スヴェンは庭へと向かうガラス扉を開いた。
この建物の真骨頂はパティオにある。長方形をした敷地の上半分を占める小宇宙。そこは2つの開廊に挟まれ、居住区と、庭を鑑賞しくつろげる吹き抜け部の中間地帯と化していた。
淡い色の玉石が敷かれた楽園は、乾ききった大地の広がるこの土地で、完全なる異空間として存在していた。庭の中心で一本の銀糸じみた清水を噴き出す八角形の水盤。熱砂が吹き荒れる地において、その何よりも贅沢な品を中心に、敷地の四隅へ青々と繁る4本のオリーブはすらりと天へ伸びる。その様はさながら王の為に控える、忠義に厚い騎士のよう。
テラコッタや黒い陶器の鉢植えが幾つあるのか以前マノロに尋ねたが、彼は肩を竦めて言うのみだった。「100は行かないだろうな。これは前の持ち主から引き継いだものだよ」ゼラニウム、ジャスミン、君子蘭、羊歯、テンジクアオイ、チューベローズにバジル、そしてレモンやオレンジの木。夏は峠を越そうとしているにも関わらず、庭は花盛りだった。
差し込む太陽の色ですら、ここと外界は違う。矢のように降り注ぎ、痛みを覚えさせるマンダリン色ではない。人の道しるべとなるべく灯される、油を入れるランプが放つのと同じ仄かな黄色が、高い壁や石畳を舐めていた。一歩踏み入れただけで、身体の表面をさっと涼が撫でる。この国へ降りたって以来、スヴェンは初めてまともに呼吸をする事が出来たように思えた。
孤独であることの喜びを感じつつも、彼が思い浮かべたのは、自らと同じくらいこの庭を愛していた男のことだった。
ここにいるとき、アーニーは二日酔いに苦しまず、処方薬物で意識を朦朧ともさせず、ありのままの姿を晒け出していた。それこそが、スヴェンの愛する彼だった。そう何度囁いても、彼は笑って一切信じようとしなかった。「お世辞なんか言わなくていいんだよ、こんな素敵な場所で」なんて強く、哀れな男。細く捻れる蔓じみた幹のハイビスカスに歩み寄り、燃えるように赤い花へ触れる彼の指の動き、反らした喉元を震わせながら柔らかく細められる眦。
あの黒い鉢は今も健在で、植えられた木も益々枝を広げているようだった。咲きこぼれる花に手を伸ばそうとしたら、どう言うわけだろうか。瑞々しい花弁は、指先が当たるかどうかというところで地面に転がり落ちた。
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