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「父さん?」
はっとなったのは、かけられた言葉の抑揚が、記憶の中のものと瓜二つだったからだ。ゆったり落ち着き払い、その癖隅々にまで気を配っている柔らかな声。音色はもう少し高い。その瑞々しさから、花弁を拾い上げ見回したスヴェンは一瞬、植物に呼びかけられたのだと錯覚した。
中東風のアーチを並び連ねて仕切代わりにする吹き抜けの奥で、影が動く。声の主は、サンラウンジャーに横たわっていたらしい。緩慢な身じろぎは衣擦れの音が聞こえてきそうなほど無防備だった。
じっと眼を凝らしたスヴェンの頭の中を貫いたのは、まるで氷のように冷たい現実だった。負の感情はない。なにせ彼は、目の前の青年を愛していた。我が子のようにという意味でだが。
「ジャック。いつ来たんだい」
「昨日。あなたは、父さんと一緒じゃないの?」
最後に会ったのは半年ほど前だろうか。日を追うごとに、ジャック・グレスラーは青春の粋というものを吸収し、血肉としているようだった。細長い四肢はまだ伸び足りないと言わんばかりにぎこちない。こちらへ近付いてくる時ぶらぶら揺すられる動きは、育ちに反して街の不良を思わせすらした。
「僕は、父さんが来いって言うから。寮から直行してきたんだ」
「ああ、そうだったね。アーニーから聞いてるよ」
覚えてはいなかったが嘘とも言い難い話題。とにかくこんな時の常、動揺を握り潰して笑顔を返しておけば、青年の顔を覆っていた不安が幾らか軽減されるのだから、結構なことだ。Tシャツの中でいかっていた肩から、すとんと力が抜ける。
「てっきりあなたと来るんだと……」
「それはこっちの台詞だよ。おかしいな、本当ならば昨日には到着しているはずなんだが」
自らで口にすればするほど、疑惑は胸中で膨らむ。ポケットのスマートフォンを取り出せば、着信は3件。最後の1件は自らが雇うスタッフからだが。
掛け直せば、留守番電話に繋がる。「アーニー? いるんだろう……いないなら、また連絡してくれ」アーニーがこの緩衝材を挟まず電話を取ることはまずない。駆け出しの頃、固定電話へ掛けられるいたずら電話に散々悩まされた名残と、矯めきれなかった内気の片鱗。普段ならばそんな一面は微笑ましいものでしかないのだが、今は「メッセージをお預かりしました」という機械的な女性の声に、不穏しか覚えない。
案の定、折り返しの連絡はすぐに来る。スヴェンが呼びかければ、ひび割れたノイズに掻き消えそうな力ない声が、スピーカーから溢れ出る。
「え? ハニー?」
「今マノロのところに着いたよ。ジャックもプリンストンから無事にこっちへ」
「僕は」
囁きは、彼自身の意志で声を潜めているのか、心から意気消沈しているのか、ケミカルが作る強制的な鎮静に侵されているのだろうか。覚束ない呂律から、2番目と3番目の中間だと判断する。
「僕は、西海岸に。ベティ・フォードにいる」
馬鹿高い治療費を取る療養所の名前が彼の口から飛び出すこと自体は、別に珍しいことでもない。乾き始めた汗が、シャツの中で背筋をぞくぞく震わせるのを感じながら、スヴェンは「そりゃ急だね」と呟いた。
「いつからいるの?」
「二日前かな。いきなりの、思いつきだって言うのは、謝る。今はちょっと、会える状態じゃないんだ……ジャックには、とてもじゃないが」
ぶつぶつと途切れるような物言いで作られるのは、申し分がない釈明だった。まだ同性婚が許されなかった時代、当時の恋人だった大富豪と二人で、ケーキを切る代わりに行った共同作業。体外受精で作った一人息子を、アーニーは心から慈しみ、彼の前では立派な父親として振る舞おうと努めていた。ミスは許されない。醜態を晒すなら、いっそ姿を消した方がましだと思い詰めるほどには。
曇るスヴェンの表情に、全てを悟ったのだろう。様子を見守っていたジャックの瞳から、明るさが失われていく。
「代わって」
差し出された手にスマートフォンを渡したのは、耐えられなくなったからだ。悲しみを押し殺した末のぶっきらぼうな物言いと、気怠く悪びれない口調に挟まれることへ。
「父さん? どうしたの?」
くるりとこちらへ向けられた背の肉付きは薄く、ちょっとした悪意で容易く貫かれてしまうだろう。うん、うん、と相槌を打つ声は落ち込みも甚だしいが、いたわりの色を失ってはいない。やがてその配分は、逆転する。小さな子供へ話しかける為に屈み込むよう、一層身を丸めて、ジャックは必死に語りかけ続けた。
「大丈夫だよ、父さん。そんな風に言わないで。レイバーズ・デイだってもうすぐなんだし。その時には一緒に旅行しよう。それまでに体調を戻して、行くところを考えておいてよ」
再び向き直ったとき、もう青年は落胆をその身から振り払っていた。
「彼、来ないって」
何とも決まり悪げな上目遣いと共にスマートフォンを差し出しながら、口ごもる。
「それで……僕は帰った方がいいよね」
「遠慮しなくていいよ」
熱を持つ機械を受け取るとき掠めた指先が、信じられないくらい冷たいと知る。握り込んでやりたい衝動を行動へ移す代わりに、スヴェンは低い位置にある、柔らかい榛色の瞳をひたと見据えた。
「こんな荒野に一人じゃ退屈だ。君が良ければだけど、話し相手になってくれるなら嬉しいな」
「それなら、ロザリオの聖母の祭りまでは、ここにいてもいい?」
呟かれたジャックの声は、引かれた顎のせいでひどくか細く響く。
「牛追いを見てみたくて。凄く楽しみにしてたんだ」
「よし、決まりだね」
にっこりと笑ったところで、その父親ならば「一体何を企んでるんだい」と眉をつり上げるだろう。だがジャックは素直に安心し、くるりと身を翻す。
「荷物、まだ運んでないんでしょ。僕は奥の客室を使ってる。あなたはいつも主寝室って聞いてるけど」
「ああ、頼むよ」
父親よりも薄いココア色の肌は、日溜まりの中を潜り抜けるとき酷く輝く。それは若さだった。スタジオでは彼より年少の子供を相手にすることも山とあるが、その魅力は、大抵熱いライトと喧噪に消し飛ばされてカメラには残らない。思わずスヴェンは、眩しいものを見るかの如く、その後ろ姿を眼で追っていた。
「あら、ブラーエさんがお越しね」
幾分忙しない巻き舌が混ざるものの、ネルーダ夫人の英語はほぼ完璧と言っていい。この国では全く希有なことに。彼女に二言三言、言葉を交わした後、軽やかな足音は階段を駆け上がっていく。
ネルーダ夫人は庭へ足を踏み入れようとせず、開け放たれたガラスドアの向こうで腕をさっと振り回す。彼女は都会的な性格だから、室内で面倒を見られる以上の植物を愛さない。均整の取れた、けれど無理に年齢へ逆らわない伸び伸びした肢体や、短く切った髪がまた、この田舎町では目を瞠るほど垢抜けている。嬉しくなって歩み寄るのはいつもスヴェンからだった。
「また日焼けなさったようですね、ブラーエさん。しかも随分と良い肌色に」
彼女はジーンズを履いていても、長い裾を翻す踊り子のように、自信に溢れた足取りで歩く。夕飯の材料を詰めているらしい、派手な水玉模様の四角いエコバッグは、さながら彼女にうっとりエスコートされているかのようだった。
「二週間前、ハンターさんから来られなくなったと連絡があったので、もしかしたら貴方もかと」
「そのことは、ジャックに話したかい」
一瞬言葉を途切らせたスヴェンに、優雅で黒っぽい瞳をひたと据え、ネルーダ夫人は請け合った。
「いいえ、決して」
「そう。その方がいいかもしれないな」
知らずとにじり潰していたらしい。指先で生臭さを放つハイビスカスを暖炉に投げ込む。
「大人には一人の時間が必要だって事実を彼に知らせるのは、まだ酷かもしれない」
理想的な女中の常。夫人はその言い訳じみた物言いへ、是とも否とも返さなかった。
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