アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
1-3
-
リッツのベルボーイよりは丁寧に二階の寝室へ荷物を放り込んだきり、ジャックは自室に引っ込んだらしい。
既に夫人の手で替えられている、ぱりっと糊の利いたシーツの上へ身を投げ、スヴェンは息をついた。
初手で躓いたからと言って、延々その調子を引きずり続けるのは、フォトグラファーとして最も職業意識に欠ける行為だった。アクシデントには慣れている。モデルが時間通りに来ない、着せるはずの服が見つからない、雑誌の編集者とギャラについて諍いを起こした業突く張りのエージェントがモデルを引き上げようとする、エトセトラ、エトセトラ。
スヴェンが驚いたのは、自らがあの男の不在へ、思ったよりも衝撃を受けているという事実だった。彼はここのところ、自らと随分近い位置にいる。お互いがニューヨークにいる時は殆どの場合、どちらかの住まいで夜を過ごしていた。
度を越したプロ意識の反動か、一度気を抜けば最後、たちまち己を制御できなくなる男だ。自由にして良いんだよと彼へ請け合うのがスヴェンの喜びだった。真に受けて、自らの前でならアーニーはいつでも正直者。スヴェンのベッドでなら子供のように安心しきって眠りこけることが出来る。起き抜けに寝ぼけ眼でコーヒーを飲んでは新聞記事の内容を片っ端からこき下ろす彼の姿は、ただただ可愛くて仕方なかった。
我儘はこの家に投宿するときも発揮される。アーニーはいつでも荷物を解く前に必ず、壁に掛かっているポール・アイズピリのリトグラフを外して、クローゼットへ放り込むのが常だった。「あんなインク漏れを起こしたペンで、ノートの片隅に落書きしたような」と冷たく切り捨てながら。
家主お気に入りの一枚は今、目の前でゆらゆら不安定な水色と、今にも転覆しそうな幾艘もの船を見せつけている。まあ、そこまで癇癪を起こすほど悪い絵でもないなと言うのが、腕枕をして眺めるスヴェンの感想だった。これまで覚えたことのない、新しい考えだ。
「君は今でも何かを追いかけているつもりなんだね、オーフスのカメラ小僧」
アーニーは唇を尖らせる。主人が憩っていると胸に飛び乗ってくる大型犬のように、仰向けへなったスヴェンの体へ跨がりながら。いや、彼は犬と言うより猫だった。鋭い爪と牙を持つ、危険極まりない肉食獣。
「自分の撮った5枚の写真と引き替えに、モデルの卵へ声を掛けまくっていた、野心に満ちた子供だと思っているんだろう」
「まだまだ未熟者なもので」
心地よい手のひらの重みに、ふざけた謙遜で肩を竦めれば、彼はより一層顔を近付けた。真正面から相対する、真面目な表情。後ろへ撫でつけた髪が一筋、はらりと落ちた。黒く艶めく彼の肉体に覆い被さられると、影に食われているかのような気分に陥る。
それでも怯えず、真正面から見つめ合っている褒美だろうか。ほんの少し乾いた、けれど柔らかい感触が、頬に触れる。
「立派になったね、可愛い人」
それからそっと、唇に。自分の思うがままにする事へ何一つ疑問を抱かず、彼が好きなタイミングで舌先を差し入れるのを、スヴェンは受け入れた。
経験の賜という言葉をアーニーは侮辱に感じないだろう。濡れて柔らかい舌の動きは巧みだった。じゃれつくようにスヴェンの舌へ軽く触れたかと思えば、するりと逃げて歯肉の境界線をなぞる。その癖、スヴェンが心底楽しげに反撃すれば、ひくりと身を強張らせるのだ。
深いカーブを描いて反らされた背中。身体の柔らかい彼がベッドで見せる媚態に、スヴェンがいつも思い出すのは、リチャード・アヴェドンが60年代にヴェルーシュカを起用してカメラの前で飛んだり跳ねたりさせた、一連の躍動的なスナップだった。
数え切れない有名デザイナーに請われ、袖を通した星の数程の服を、いつだってアーノルド・ハンターは息を飲むほど見事に着こなしてみせる。シャッターが一度切られるたび、その借り物の服ごと自らを薄切りにされて、無数の群衆へ消費されるために。
まるで誰かのような、誰かの為の君。みんなの君。こっちにおいでよ、裸の君を、君だけを愛してあげるよ。とっときの甘やかな声でそう誘いかけたのに、何故か自らの声は聞こえない。アーニーは哀れみのこもった視線でスヴェンを見下ろした。台詞はきりのない一人芝居でもしているかのように、つらつらと口にされる。
「君はもう、先頭を走ってる。追われる側さ……これ以上、何を追いかけるって言うんだ?」
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
4 / 18