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ジャックが帰宅したのは日付が変わるかという頃のことだった。WhatsApp(チャットアプリ)でのメッセージで連絡してきたとおり。ずっと以前に社交辞令で交換したスマートフォンの電話番号を、電話帳から消去していなかったということだ、お互いに。増えたツリーを眺めながら、スヴェンは覚えた新鮮さに浸っていた。ここへ来て以来、今まで目をつけてこなかったことばかりが視界に入る――驚きですら、近頃の多忙さの中では、落ち着いて味わう暇もなかった。
玄関を施錠し、鼻歌交じりに階段を駆け上がってくる足音のリズム、そして私室のドアが閉められる。一連の気配が夜に溶け、再び静寂が満ちるまで、スヴェンは知らずと耳を澄ましていた。感じる安堵は、夜遊びに伴う不健全な行為を危惧していたせいではない。自らが普段相手にしている、17歳でもう立派なコカイン中毒の若い子達と違い、ジャックは至って健全な普通の青年だ。
自らが「普通」を気に掛けるなんて。また一つ、新鮮さがあぶくのように胸へ湧き上がる。幸か不幸か、その感情は考え込んでいる暇もなくぱちんと割れ消えてしまったし、幾らもしないうちに眠りはやってきた。
チョート・ローズマリーかどこかのプレップ・スクールへ放り込まれ、そのままアイビー・リーグから、恐らくビジネス・スクールへ。白人支配層側の父親が導くまま純粋培養されてきたジャックが、これまでスヴェンと接する機会は決して多くなかった。せいぜい長期休暇の最中にアーニーから引き合わされた程度。両方の父親から愛されているのに、とてつもなく人恋しい笑顔を浮かべる少年は今や青年になり、けれどその面立ちはやはり孤独の色を見え隠れさせる。
コーラ入りのグラス片手に庭を横切り、開廊のサンラウンジャーに寝そべるスヴェンの元へ回り込む時も、寂しい気分だったのだろう。そうっとそうっと、小鳥へ飛びかかろうとしている猫ほどにも慎重に歩み寄る。
並べられたサンラウンジャーへ身が乗り上がった時、細く高い音を立てて消し炭色の籐が軋んでも、スヴェンは素知らぬ顔でスマートフォンをスワイプしていた。うっかり親指を滑らせ過ぎ、途中まで読んでいた記事は行方不明。ブラウザバックのボタンをタップしたところで、ようやく「ここは涼しいね」と、随分遠慮がちな会話の糸口が届けられる。
そんなに怖がらなくても、煩わしい顔なんかしないのに。くっと喉を鳴らし、スヴェンはスマートフォンを、二人の間を区切るローテーブルへ乗せた。
「私は来たことがないが、冬は雪が相当深くなるそうだ」
「だろうね。こんな日陰だと、夏でも曇りの日なんか肌寒そうだよ」
「長袖は持ってきてる? 無いなら買いに行った方がいいかもしれない」
正面へ向き直ると、自らの言葉はどっと現実味を帯びる。
「霜でも降りようものなら、あの鉢植えも手入れが大変だろうな」
持ち主のマノロも、こうして素晴らしいパティオを眺めては悦に入ること頻りに違いない。ワイングラスを片手に、ネルーダ夫人の拵えた絶品のタパスを口に放り込みながらの怠惰な生活。とにかく騒がしいことが好きなあの男の楽しみ方とは俄に信じ難いが、籐製のテーブルはよく使い込まれ、ところどころ黒く変色している。
スヴェンが取り上げたグラスの下に残る水滴が、最も新しい跡になるのだろう。興味が隠されず張り付けられるジャックの視線に、スヴェンは傍らのボトルを顎で示した。
「飲んでみる?」
「うん」
中身が半分ほど減った彼のグラスに、首の長い注ぎ口から輝く金色をした液体を注ぎ込む。仕上げに自らのグラスへ突っ込んでいたマドラーを放り込んでやれば完成だ。ジャックは適当に混ぜるや否や、すぐさま口を近づけた。アーニーの時に酷薄さすら漂わせる薄さと違って、厚みのある柔らかそうな唇が、グラスの縁をそっと覆う。
一口飲み下した彼が噎せかけたのは、アルコール度数のきつさではなく、甘さによるものだろう。何とかやり過ごした後、投げかけられる恨みがましさ。再会してから、初めて見る表情だった。
「何これ!」
「リコール43っていう、この国のリキュールさ。実際、よくコーラに混ぜて飲むんだ」
「確かに、不味くはないよ」
長く吐き出される呼気はきっと、嗅げばとてつもなく甘いに違いない。
「バニラ、甘草? ……よく分からないけど、複雑な味」
「甘いもの好きのお口には召さなかったかな」
ここへ来てから彼がよく飲んでいるのはコーラなどの清涼飲料水、ネルーダ夫人がスーパーで買ってきたチョコレートやポルボロンを次々口に放り込んでは、彼女に「そんなに食べて、吹き出物の一つも出来ないのだから羨ましい限りね」などと呆れられている。
「スヴェンはさ、僕のことを今でも、小さな子供だと思ってるわけ?」
「子供に酒は勧めないよ。君、21歳だっけ」
「20歳だよ。ここがアメリカじゃなくて良かったね」
ちびちびと啜っているところから鑑みるに、カクテルはお気に召したらしい。言葉は継がれれば継がれるほど、緊張が解けていく。
「この国の飲酒年齢は、もっと下だけど。場所によってやることを許される年齢が違うなんて、おかしな話だね。ここでは大人、あそこでは子供、一体どっちになったらいいのか」
「郷に入れば郷に従え。君自身がどう在りたいかだな」
「僕は……」
その次を紡ぐまでに、ジャックはグラスからまた数口を運んだ。濡れるのは唇ばかりではない。強い日差しは屋根の下にまで及ばず、足下のタイルを舐めるのみだ。なのに青年の瞳を見つめたとき、スヴェンはそこに太陽が飛び火して、眼球を柔らかく融かしているのだと錯覚した。
「僕は、大人になりたいよ、でも、父さん達も、周りも、みんな子供扱いだ」
大人が真面目に相手をしてくれることが嬉しいのだろう。眦と口元が緩められる。
「あのさ、この前エマが、あなたのことを知りたがってた。正確には、僕とどういう関係の人なんだって。ちょっと困っちゃったよ」
「正直に答えておけばいいじゃないか、父親の仕事仲間だって……いざ口にしてみれば、おかしな関係だな」
思わず苦笑を浮かべて流そうとしたのに、ジャックは食いつく。
「何に見えたんだろう。兄弟? 親子?」
まさかそんなことは、と言おうとして、ライオネル・グレスラーが自らと同じく金色の髪と青い目を持っていたことを思い出す。
「そりゃあ親子じゃないか、私達の年齢的にも」
「カメラマンとモデルか……それとも、恋人とか」
最後まで言い切る前に、長い睫が恥入るように震え、そして伏せられた。固く編み上げられようとも、幾らか弾力を感じさせる軽い籐の上で、デニムに包まれた膝が僅かに滑る。
彼が一瞬、自らとの性交を想像したのだと、スヴェンは確信した。
繊細で、敏感で、子供とも大人とも断じづらい妖しげな不気味さを持ち、恐らくは無垢なのだろう青年と違い、スヴェンはただ刺激を感受するのみだった。
この電流を思わせる感覚ならよく知っている。撮影所で美しい男女とファインダーを挟んで向き合ったとき、しばしば覚えるものだ。お互いの心臓に磁石が埋め込まれ、強烈に惹かれ合うような心持ち。
スヴェンも若い頃は衝動に身を任せ、仕事相手と片っ端から関係を持っていた。だが何度も繰り返されるうち、人は嫌でも学ぶ。自らはモデルとの性的な関係に拘らずとも写真を撮ることが出来る。そう気付くまでに掛かったのが20年以下だとしたら、業界では利口な方だとみなしても良いのではないだろうか。
ミケランジェロ・アントニオーニが『欲望』のモデルにしたデヴィッド・ベイリーとジーン・シュリンプトンのように、ピグマリオンごっこへのめり込むのが理想だと世間では言う。だが情熱は失われたのではなく、探しても見つけることが出来ないのだ。
この冷静さをスヴェン自身は長所とみなしていたが、同時に欠点であるかもしれないとの疑いは、未だ消えることがない。いつかは遭遇することが出来るのだろうか――せめて渇望することが。
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