アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
3-3
-
程良く醒めたコーヒーは、残念ながらアルコールを飛ばしてなどくれないだろう。ぐいぐいとグラスを傾けるジャックはご満悦。締めて4杯目のお代わりしようと伸ばした手指が空を切ったので、スヴェンはリキュールのボトルを遠ざけた。
「飲み過ぎたな。そろそろピンクの象が見えるんじゃないか」
「ぜんっぜん、平気、これくらい……これ、コーラ割りよりよっぽどおいしい」
まだ呂律が回らないと言うよりは、舌足らずの範疇に収まる滑舌で、ジャックは訴えた。それでも返して貰えないと知るや、デッキシューズ履きの足が地面に降りる。
そのまま酒を奪いにくるのかと思えば、そこが酔っぱらいの分からないところ。千鳥足はふらふら庭へと向かう。めい一杯の背伸びで天へと突き上げられる、ひょろ長い腕。何かあれば3分で全財産を引っ掴み逃げ出してしまいそうな力みは消え、若い肉体は程良くくつろいでいる。黄金の雨と化した陽光の下、軽く爪先立つようにして歩くその後ろ姿は、惚れ惚れするほど気ままだった。
「うわ、ねえスヴェン、このハイビスカス、虫だらけだよ!」
植木鉢の前で立ち止まり、自らより少し背の高い木を見上げていたジャックは、唐突に叫んだ。操られるような動きで振りかざした手は、今を盛りに弾ける花弁を二度、三度はたき落とそうとする始末。さすがに観察欲よりも、ここにはいない家主の大仰な騒ぎ立てが意識を支配する。スヴェンは重い腰を上げた。
「虫なんかいないよ」
「いるってば。ほら、葉っぱの影に」
さし示す人差し指は、虫食いだらけの葉を示しているのだろうか。近付く人の気配に安堵したのか、ジャックは片腕をスヴェンの肩に凭せかけた。
「ハイビスカスって、趣味悪い。何だか庭の中で、これだけ浮いてない?」
とうとう指先は花に到達し、ぶちりと一つちぎり取ってしまう。いい加減潮時だ。スヴェンは笑顔のまま、傍らの細い腰へ腕を回し、哀れな木から身体を引き離した。抵抗されるかと思ったが、寧ろジャックの腕は首へと回され、こめかみは喉元へと押し当てられる。
「ほら、飲み助め。いい子はお昼寝の時間だ」
「いい子じゃないよ……」
確かに悪い子か、或いは馬鹿な大人かもしれない。自らの限度も知らず羽目を外し、大人にベッドへ追い立てられる役割と言うのは。
これが仕事相手のモデルだったら、エージェントか恋人を呼んで宥めさせるところだ。けれど今、スヴェンはこの節制ない状況をとても楽しんでいた。
まるでハイビスカスから伝染した見えない虫に、体中を這い回られているとでも言わんばかり。身を揺すりながら、ジャックは止まないくすくす笑いに捕らわれ続けていた。母屋でネルーダ夫人が掛ける掃除機の音をいとも容易く蹴り除け、ジャックは笑う。
「大人だから、昼間から好きなだけお酒も飲むし、堂々と悪口だって言うんだ」
「二日酔いで泣く羽目になっても知らないぞ」
アルコールと太陽で温められた身体は、甘酸っぱい汗の匂いと、耳の後ろに付けられたアーモンドを思わせるトワレを急速に揮発させる。動けば動くほど酔いは回るのだろう。とうとうジャックはほぼ引きずられるような扱い、スヴェンの首っ玉にかじりつき、ぐったりと身を預ける。掛けられる体重に、スヴェンも回す腕へ力を込めた。
庭の真ん中で歩みを止めたとき、ジャックはふと顔を持ち上げる。今や正面から抱き合うような格好に、違和感を覚えてもいないらしかった。仰け反る顔の中、うっすら開いた瞼の下で、榛色の瞳は焦点を結ばない。自分で抑制できない悪徳の萌芽を孕み、陶酔に沈んでいた。
例え綺麗な色の肌を持っていても、夏の日差しは痛みを覚えさせるに違いない。その稚い、すべすべした面立ちの中、煮溶けたような動きを作る舌が、熱く充血した唇の間から覗く。
「お酒……さっきの、コーヒーの奴。名前は、確か」
「カラヒージョ。一説には、corajeから来たとか」
「なんて……?」
「coraje、勇気って意味」
「コラーヘ、コラーッヘ……」
訥々と、囁くような抑揚で繰り返される単語は、スヴェンの腕を支点として微かに反る胸をぎこちなく通り、夏の空気に消える。僅かに後ずさることでぶつかった水盤は、衝撃なんか知らんぷり。苔むした盆の色を映し、冷え冷えと青緑に染まる水面は、だらりと垂れた青年の右手を指の付け根まで飲み込む。
「スペイン語は難しいね」
「喉の奥から押し出して吐き捨てるみたいに、Kの発音を作るんだよ」
自由な右手を、眼前へ無防備に晒け出されるジャックの喉元へ伸ばすことに、スヴェンは一切躊躇を覚えなかった。
急所を掴んで押さえつけられ、ジャックは緩やかな膨らみを持つ喉仏をこくりと上下させた。手のひらを圧搾する力が強まってもお構いなし。指を僅かに滑らせ、突き上げる動きで促すと、従順に顎を仰けるほどなのだ。
細く長い息を通す気管を、この瞬間握り潰されても、この子は悲鳴の一つも上げないだろう。手の中へ入れた雀を陥れ、弄ぶかの如く、やわやわと締め上げながら、スヴェンは真上から青年の顔を覗き込んだ。
「ほら。言ってごらん」
ジャックは笑い、唇を動かした。掠れた声を覆い隠す吐息は、予想通りくらくらする香木と、柑橘の芳しさを纏っている。軽く頭が振られたのは、額にかかる髪が煩わしいからだろう。はらりと垂れ落ちた漆黒の一房が、影そのものように光の中で揺れる。
左腕の中で、腰が固いゴムの動きでぶるりと跳ね震えた。スヴェンが喉を解放しても、ジャックは逃げない。倒れ込むようにして正面の身体にしがみつく。
「くらくらする……やっぱり昼寝(シエスタ)しようかな」
よろよろと手を引かれるまま導かれ、寝かしつけられる様は、どれだけ威張っても大人の姿とはほど遠い。サンラウンジャーの上に横たわるや否や瞼を落とした面立ちが、ちょっと小難しいような色を浮かべているところなんか、逆にむずかる子供そのものなのだ。
うっすら開いた唇が滞りなく息を吐き出しているのを、翳した指で確かめる。温かい湿り気は、じわじわと心に浸食するかのようだった。座面に手を突き、スヴェンは青年の顔に屈み込んだ。
「ジャック……ジャック。いつかきっと、君の写真を撮らせてくれるね」
「あとにして……」
「今じゃない。まだ十分練り上がっていない」
ひそひそと声を抑える必要などありはしないのに、スヴェンはこちらを見ている何かの気配を、振り切ることが出来なかった。
「君は輝きの種子だ。花が開けば、アーニーのような存在になれる」
息が弾んだのは、自らのアイデアにすっかり興奮していたからだ。なのにジャックは冗談だと思ったのか、一層眉間に皺を寄せ、呻きと共に寝返りを打つ。背けられた身体が最後にスヴェンへ捧げたのは、弛緩した手からこぼれ落ちる、萎れた赤い花弁だけだった。
いつの間にか掃除機はスイッチを落とされていた。居間に足を踏み入れたスヴェンを目にしたネルーダ夫人は、最初から彼が来ることを知っていたようだった。
「調子に乗ってたら酔い潰してしまった。アーニーはあれだけの酒豪だから、うっかりしてたな」
「全く、一体何を飲ませたんです」
と、手にしていた掃除機を引っ張りながら尋ねる彼女の顔は笑っていたが、声は酷く抑揚に欠ける。
「そろそろ陽が落ちて冷えてきますから、家の中に連れ戻すか、ブランケットでも持って行かないと」
「二階から取ってくるよ」
「分かっておられますか、ブラーエさん」
スヴェンが振り返ってから、ネルーダ夫人はしれっと言葉を付け足した。
「ブランケットの場所を」
彼女は脅しつけるが、窓の外は弾けるような黄色、まだまだ日は高い。
涼しい部屋に入り汗が引けば引くほど、心で燃える炎を感じ取れる。ご機嫌に喉を鳴らし、スヴェンは手の中で揉み潰していたハイビスカスの、甘く生臭い香りを味わった。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
10 / 18