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発信者は分かっていたが、スヴェンは受話口を耳に当てたきり、口を開かなかった。電話を起点に、お互いへ向けてノイズと緊張が走り抜ける。
先に屈したのはアーニーの方だった。溜息をつきながら、「元気にしてる?」の一言を放つだけで、すっかりくたびれてしまったらしい。それっきり口を噤んで、続きを強要する。だからスヴェンは、ことさら穏やかな笑いを聞かせてやるのだ。
「お陰様で快適に過ごしてるよ」
「なら良かった。ジャックは? ……まだそっちにいるのか」
「ああ。牛追いを見てからニューヨークへ戻るそうだ」
ふっと顔を上げたジャックがこちらを振り向く前に、スヴェンは踵を返していた。彼が二階へ向かう階段を上りきり、部屋の前へたどり着くまで、アーニーは次の一手を指しあぐねている。ためらいは普段ならば、奮い付きたくなるような庇護をスヴェンに催させるものだった。
「ライオネルが、あの子はこっちに戻ってこないのかって」
「帰した方がいいなら、そう伝えるよ」
「いや、駄目だ。好きなようにさせてやれ」
後ろ手に扉を閉めた音が聞こえたのか、アーニーの声量は幾らか上がり、きつさを増す。
「20歳を相手に、あれこれ口を挟むのは許されない。僕が彼位の時は、自分の金で買ったカマロを乗り回してた」
「大人だから、自分のルーツについて学ぶよう促した?」
もう陽はかなり高いところまで昇っているのに、部屋の中は壁のポール・アイズピリから色が溢れ出したかのような水色へ沈んだままだった。リトグラフを見つめながら、スヴェンは中途半端に開いていたカーテンを強く引き開けた。
「代理母の組織から手紙が届いてたよ」
沈黙は短いが、底無しの深さを持っている。やがてアーニーは「あの子はもう読んだのか」と尋ねた。こんな口調が作られるシチュエーションなら、熟知している。良い感情であれ、悪い感情であれ、とにかく興奮している時、いつでも彼はとてつもなく静かな物言いで、相手を問い詰めるのだ。
「ああ、動揺してるようだ」
「そうか、動揺か」
ふふっと、上機嫌を隠す事なく含み笑い、それから電話の外の誰かに向かって早口に囁く。恐らくイタリア語で、辛うじて拾い上げた単語は『波』『後で』。砂漠のど真ん中にある療養所で使うには、何もかも違和感が勝る。
「悪い、ここの看護士は本当に口うるさいな……とにかく、僕は促してない。彼が勝手に情報開示を請求したんだろう」
「君がいてくれたらとつくづく思ってるところだよ」
「そんなこと言ったって、これは一人で乗り越えるべき試練だ」
「前から思ってたんだが」
少なくとも声音だけは冷静なものを作ったつもりだ。だがスヴェンは、言い募りを止めることが出来なかった。
「君は時々、あの子についてかなり突き放したような物言いをするときがあるね」
「血が繋がってないからかもな」
理解するのに必要な一瞬の間の後、波が音を立てて引くような啓示が、脳内に広がる。
「別に今更、隠す事じゃない。精子を提供したのはライオネルだけだ」
スヴェンの沈黙を好き勝手に解釈し、アーニーはいとも気軽な言葉遣いをする。それがスヴェンにショックを与え、操ろうとする為の意図的なものなら間違っている、全く間違っているのだ。
「あの子、自分の肌の色を見て、僕が父親だと思ってたみたいだな……彼の母親は、教養のある、立派な黒人女性だよ」
「君はこれまで教えなかったのかい、その事実を」
「だってそりゃ」
今度はアーニーが黙り込む番だった。動揺によるものではない。それは冷徹で傲慢に振る舞う事を当然だと思う一方、善良への憧れを捨てきれない男が、良心を握り潰すのに要した時間だった。
「痛快じゃないか。学のない黒人のモデル風情が、あの大金持ちのテキサスっ子をやりこめられる機会なんて、そうそうない」
心地よい声の余韻が消えた後、並べ立てられた言葉を噛み砕いた結果、残るのは哀しみだった。
「何にせよ、僕はあの子を愛してるし、親子ごっこをすることでお互い幸せだった。それは嘘じゃない」
「そうだね」
「だから、僕は嬉しいんだよ。この事を知ったとき、あの子が傷ついてくれて」
少しの躊躇の後、アーニーはぽつりと付け足した。
「こんな事を言うなんて、酷い男だと思うだろうね」
「いいや」
スヴェンはそう答えた。今この瞬間ほど、アーニーの精神へ肉薄し、共鳴したことはなかった。彼がとてつもなく愛しかった。
だが同時に彼は悟ったのだ。この感情を抱いたが最後、自らはこの素晴らしい男へ、燃え盛る情熱を抱くことは永遠に無いだろうと
「なあスヴェン……君は僕が知ってる中で、最もやさしい人間の一人だな。そのことを理解してるか」
もう一度深く息をつくと、アーニーはまた電話の向こうの誰かに語りかけた。そこに含まれる単語は、スヴェンもミラノで撮影しているとき、よく使うものだ。「分かってるよ、分かってる。Ti amo」
「うん、とにかく彼が、君に迷惑を掛けてないなら良いんだが」
「大丈夫だよ、彼はとてもいい子だ」
「正直に言ってくれよ。馬鹿に育てたつもりはないが、まだまだ何も知らないからな」
溜息の連発。少し咳き込みが混じる。近頃禁煙を破ったのは知っていたが、また日に数箱消費する域まで到達したのだろう。短い言葉を吐くとき、彼の声は擦り切れて、ひやりとするような尖りを帯びる。
「それで、あの子の味見はしたのか」
喉元へ突きつけられた切っ先の鋭さを知りながらも、スヴェンは首を振った。優しさというのは、往々にして痛みに対する鈍感と背中合わせなのだ。
「何だって」
平然と言い返せば、アーニーはすぐに剣を引っ込めた。
「何でもない……仕事の話は、休暇が終わってからでも間に合うかな」
「ああ。ニューヨークに帰ったらね。いつかみたいに、旋風を巻き起こそう」
「17年ぶりに。それと、キャリーケースの中での出来事みたいに」
「キャリーケースの中みたいに」
「でも、あの写真は失敗だった」
「そうだろう?」との問いかけにスヴェンが「ああ、そうだ」と相槌を打てば、アーニーは掠れた声で笑った。
「愛してるよ、可愛い人」
「私もだ」
通話を終えて、今までぼんやりとしていた焦点を絞る。佇む窓ガラスに触れれば生ぬるいのも当然で、太陽は煌々と熱を放ち続けている。庭は見えなかった。眼下に広がるのは、何もない。草木などとうに朽ち果てた、ただただ真っ白い大地ばかりだった。
ここから街へ向かうのは、どちらの道を進めば良いのだろう。ふとスヴェンは、自身の居場所がすっぽり頭の中から抜け落ちていることに気が付いた。
恐慌寸前の動揺を沈めてくれたのは、窓枠を額縁代わりにした景観を横切る青いルノーの存在だった。タイヤが乾いた地面を噛むじゃりじゃりとした響きは、普段よりも重苦しく、執拗なように思える。
階下に降りたとき、ネルーダ夫人は帰り支度を済ませようとしていた。
「彼は出かけた?」
「ええ」
荷物を抱えると、彼女は首を振った。感傷など一切こもっていないにも関わらず、口調は温かい。その響きは、目の前で繰り広げられたことをとてつもなく残念がっているかのようだった。
「何も聞いていませんけど……とにかく、彼は行ってしまいました」
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