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終
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「人生は祭りだ」と言ったのはヴィスコンティではなくフェリーニだ。
滅びゆく貴族階級出身の映画監督は、生粋の耽美主義者の癖に、美をフィルムと言う永遠の中へ閉じ込める野暮な真似をした。片やサーカスが好きな男は、マルチェロ・マストロヤンニへ自らの願望を仮託し、晴れやかに続けさせる。「共に生きよう」。口に押し込まれたピストルの放つ銃声を、台詞は飛び越える。物語の中でのみ起こり得る奇跡。死は約束された再生の前段階だった。
だが現実は祭りではなく、一度起こってしまったことは決して巻き戻せない。
お祭りなんか馬鹿らしい。行くのを止めて、ずっとベッドの中でセックスしていれば良いじゃないか。ネルーダ夫人は一週間近く来ない、家の中で二人きり、どろどろに溶けるまで交わって。エンシエロは来年見に行けばいい、牛は逃げはしない、寧ろ奴らが追いかけてくる。
そう誘いを掛けていればと、千々に乱れる思考の中で何度考えたことだろう。けれどスヴェンは、例えどのような経過を辿ろうとも、ジャックが牛の前に飛び出すことは避けられなかったと、強く確信するのだ。
ネルーダ夫人が病院に駆けつけたのは明け方になってからだった。彼女に急き立てられるまで、スヴェンは青年の両親に連絡する必要があることに、全く思い至らなかった。
「ブラーエさん、とんでもないことに」
「幸い、脳には損傷がないようだ」
それは求められた返事ではないと、スヴェンは時間差で自覚した。ネルーダ夫人は、きいちごのように赤い唇を噤む。普段の颯爽としたパンツ姿ではなく、素敵な青い麻のドレスの裾が、近付く足捌きで翻る。憤っている彼女はうっとりするほど魅力的だった。若い頃、マドリードのテアトロでフアン・ラモン・ヒメネスを朗読していた時からずっと、この美しさを保ち続けているのは、驚嘆すべきことだと言える。
「ハンターさんと、もう一人の親御さんに一体どう説明すれば」
「ありのままを説明するしかない。彼はもう、子供じゃないんだ」
「でも、お二人の家族です。貴方だって、もしもご家族がこんな目に遭ったら、平静でいられないでしょう」
そう言われてスヴェンが一番に思い浮かべたのは、あのナタリー・ドロン並みに由緒怪しい元妻の連れ子の姿だった。想像の連結は、当然ながら上手く行くことがない。連れ合っている時は自らに懐いていた少年も、元気でいれば10歳かそこらか。
一刻も早く病室に駆けつけたくて仕方がない。緘黙の下に押し込められた逸りを、ネルーダ夫人は勿論見逃さなかった。足早に返された踵は、追いかける言葉を完全に拒絶している。
「あの子の荷物をまとめてきます。急いで、あの子を帰してあげなければなりません」
雄牛に大腿部を貫かれたイグナシオ・サンチェス・メヒアスは2日間苦しんだ挙げ句息絶えた。ジャックの場合は4時間の大手術、眼球一つと引き替えに命は取り留める。
麻酔が切れてぼんやり横たわるジャックを、看護士は大事に扱ってくれなかった。愚か者に掛ける慈悲はないというわけだ。脈を計り、点滴をチェックし、鈍重な顔の中年男は肥満した体を揺すって出て行く。仕切るカーテンの揺れが収まった頃、スヴェンはパイプ椅子から立ち上がった。
固いマットレスの軋みに、ジャックはようやく茫洋とした目を相手に向ける。この薄汚れた照明のもとに晒されている半面こそ、傷が露わなのだ。そのことに誰も気付かないなんて。顔半分を覆う包帯の純白に、スヴェンは目を眇めた。
「やあ、ジャック」
自らを認めた途端、けぶっていた瞳に理性と、涙を溢れさせる。見る見るうちに眦へ盛り上がり、頬を伝うしずくは、全てを洗い流した。
「僕、とんでもないことを」
枕へ浮かぶ黒い染みへ重ね塗るよう、熱く震える息がこぼれ落ちる。
「ごめん、許して……でも、でも、こうすれば完璧だと思ったんだ」
「もういい。もう大丈夫だよ」
伸ばされた腕は一度身を捩り、拒絶される。が、彼が逆らえないとスヴェンは知っていた。
「グレスラー氏は今夜の飛行機で到着する」
「いや、いやだ、スヴェン、やめてよ」
「こんな慈善病院一歩手前の場所よりも、ニューヨークの病院で」
「駄目だったら」
すっかり混乱しきったジャックは、為すすべもない。肩口を熱く濡らしながら、最後の抵抗とばかりに、男の背中へ必死に爪を立てる。
「こんなこと、僕がやっちゃえるなんて……駄目なんだよ、僕はあなたのことなんか愛してない。放して、お願いだから」
「さあ、往生際の悪い真似はせずに」
滂沱を残さず含み取りながら、スヴェンは涙が溜まってふやけた包帯の縁を、指先で何度も撫でた。
「大人なら、むやみやたらと怖がったり、駄々をこねたりせずに、現実を受け入れるんだ。君は私のことを愛してるんだよ」
痛みは生きている証だ。この程度のこと、青年が負った傷に比べていかほどのものだろう。息が出来なくなるほど腕の力を強め、水色をした病院着の襟元に鼻を埋める。
「君を愛してるんだ、ジャック。傷を得た君は、こんなにも美しい」
「なら、ねえ、スヴェン、お願いだよ」
天を仰ぎ、ジャックは嗚咽を漏らした。
「僕を父さんのところに戻さないで。キャリーケースに入れて連れて行ってよ」
「まずは傷を治療しないと」
吐き気と目眩がするような誘いに、首を振るのは辛いことだ。暗がりで一際浮かび上がって見える鎖骨を軽く噛むことで、スヴェンは深淵部から近い順に、欲望を押さえ込んでいった。
「怪我が良くなったら、眼帯を作ろう。でもアラン・ドロンがしていたような、上品ぶったものじゃ駄目だ」
「かっこいいのにして……」
今度はいとも自然に、ジャックの両手は相手のベルトを外し、スラックスの中へ滑り込む。まさぐる動きに合わせて繋がる管は激しく振れ、抗生物質のパックまでも揺さぶるほどだった。
「サミュエル・L・ジャクソンがしてるみたいなのがいい」
「いいね。本革を使いたいな。イルビソンテの知り合いに、デザインを頼める」
無尽蔵に湧き出るアイデアはどれも魅力的だと自信を持って答えることができる。証拠に、時を追うごと、ジャックの一つだけになった目は輝きを増すのだ。
「写真、撮るの」
「ああ」
氷ほども冷たい指先が作る快感は、本来身を凍らせて然るべきものだ。だがスヴェンは、燃えるような感嘆の息で、罪悪を溶かした。
「けれど、広告には使わない。誰にも見せない、見せるものか」
愛撫が深まるにつれ、むせび泣きは益々激しくなる。音色に酔い痴れながら、スヴェンは悪寒を思わせる歓喜に身を震わせた。
もう恥じることはない。彼はとうとう、自らの情熱を手に入れたのだ。
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