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教室に静かに響く低音の声。それは大きく弧を描くメトロノームのように耳に刻まれていく。
矢野有希也(やのゆきや)が座る窓側の席には午後の日差しが射し込み、ダークブラウンの髪を透かしていた。
やがて背の高い矢野には手狭な木製の机はベッドに、開かれたままの教科書は捲られることなく枕に変わる。
高校三年の秋という受験を控えた大事な時期、授業中に居眠りをしているのは教室中を探しても矢野くらいだ。だからといって矢野は授業がつまらない訳でも、教師に反抗心を持っている訳でもない。ただ、この優しく透き通る声を聞くとどうしても瞼が重くなってしまう。
静まり返った教室で短編小説の一節を音読するのは、国語教師の葉崎誠(はざきまこと)。葉崎は眠り続ける矢野を横目に咎めることもせず、穏やかに授業を進めている。
それでも決まって矢野が心地よい睡眠から引き剥がされるのは、子守唄のような声の主から指名されるときだった。
「――矢野くん」
深い眠りに入った矢野の耳には、羽で撫でるような葉崎の声は届かない。後ろの席の男子生徒にシャープペンシルのノック部分で背中を突かれてやっと、ピクリと体を震わせて目を覚ました。
ゆっくりと体を起こした矢野が目にかかりそうな前髪の隙間から見上げると、困ったような笑顔の葉崎と目が合う。もう何度も目にしてきた、眼鏡の奥の穏やかな瞳。
「おはようございます。問題集の四十五ページの問六ですが、わかりますか?」
「……わかりません」
矢野はバツの悪そうに頭を掻きながらぼそぼそと答える。
「はい。では後ろの多田君」
「矢野てめぇ……」
矢野の代わりに指名された生徒が小声で悪態をつく。矢野は「悪い」と呟き、問題集をパラパラと捲った。
ことさら国語の授業中に起こるこのようなやりとりは、葉崎にとってもクラスメイトにとっても見慣れた光景となっている。
さすがの葉崎も初めはやんわりと注意をしていたが、矢野の居眠りが改善することはなかった。
寝ているだけで周りに迷惑をかける訳でもないし、卒業後は家業に入るため大学受験をしないので成績が悪くてもさして問題はないと判断されたようだ。それに矢野の成績は特に悪いという訳でもなく中の下というところだった。
やがてチャイムの音が静かな教室に響き渡る。さすがに二度寝はしなかった矢野だが、夢心地のまま授業が終わった。
ざわめき立つ教室で矢野は重たい瞼を開けてぼんやりと一点を見つめながら頬杖をつく。聞こうとしなくても勝手に聞こえてくる賑やかな女子たちの会話が、もう一眠りできそうな心地に水を差す。
「聞いたぁー? 高センと小川先生付き合ってるって!」
「うそっ、知らない知らない」
高センというのは三年の授業を受け持つ数学教師で本名は高瀬光輝(たかせこうき)。小川先生は女性の音楽教師だ。
矢野が一年のときに担任だった高瀬だが、そんな噂は矢野も知らなかった。特に興味のある話題ではないが、矢野は女子生徒たちとそれに便乗して騒ぐ男子生徒たちの声をなんとなく聞いていた。
「三組の子が週末二人で歩いているところ見たって」
「うわっ、マジかよ! 俺の小川先生が……」
「お前のじゃねぇから」
騒ぎ立つ教室の扉が音を立てて開かれる。生徒たちは、ドアの前に立っている人物を一斉に注目し、シンと静まり返った。
そういえば次は数学だったな、と矢野は教壇に上がった高瀬を見上げると何故か目が合ってしまう。
「矢野、また葉崎先生の授業で寝てたのか?」
高瀬は自分が注目されている原因をわかっているようで、矢野に矛先を向けることで居心地の悪さをごまかしているようだった。
「……寝てないっす」
面倒くさそうに矢野が答えると、高瀬の一挙一動を注視していたクラスメイトたちからどっと笑いが起きて、いつも通りのクラスの雰囲気へと戻っていく。
だしに使われたようで矢野はムッとするも、元々感情の起伏が少ないため授業が始まる頃にはどうでもよくなっていた。
高瀬は熱血教師ともいえる明朗快活な数学教師。彼の授業で安眠などできる訳もなく、矢野は怠そうに黒板に書かれる筆圧の強い文字を目で追っていく。
高瀬の口から葉崎の名前がよく出るのは、二人が大学時代からの友人であるからだ。学園内の人間関係に疎い矢野でも一年の頃から何度も耳にしているから知っている。
明け透けな性格の高瀬が何気なく話した学生時代のエピソードをネタに、葉崎が生徒たちから囃し立てられ困惑する姿は幾度となく見られた。その度に葉崎が普段とは違った幼さげな表情を見せるのが印象的で、矢野はよく覚えている。
ぼんやりとそんなことを思い出しながら、矢野は黒板に書かれた計算式を解いていく。数学は苦手ではないが得意でもない。
「問三、矢野、解けたか?」
呼ばれた矢野が見上げると、高瀬の見開かれた大きな瞳と目が合う。
「2√5です」
「はい正解。矢野は俺の授業はちゃんと聞いてるもんな。じゃあ次の問題は……」
矢野の無機質な低い声に被さるようにいつも以上に大きな高瀬の声が教室に響く。
高瀬のどこか浮き足立つ様子は先ほどの噂話が原因だろうかと矢野は邪推する。中高年の教師が多い職場で独身の若い男女が恋愛沙汰になることは想像に容易いが想像はしたくない。いずれにせよ自分の知ったことではないが――
散りかけた思考は六限目を終えるチャイムの音とともに完全に頭から離れ、矢野は騒がしくなる周囲に紛れて大きく伸びをした。
「それでは次回は八十五ページからやるので予習してくるように」
高瀬がそう言葉少なに教室を去るやいなや、さっそくゴシップ好きの会話が飛び交う。
「高セン案外普通だったね」
「来週の小川先生の授業も楽しみだわー」
受験勉強も佳境に入った今、二人の噂は生徒たちの息抜きには丁度いいネタになったようだ。これからしばらくはこの話題で持ち切りになり嫌でも続報が耳に入ってくるのだろう。矢野はうんざりしながら頬杖をついた。
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