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「南雲…」
「あ〜、まぁとりあえず、場所を移そう」
あぁ、そうだな。廊下で立ち話をするのもなんだしな。
悠牙のひと声で、ぞろぞろと移動を始めた私たちに、戸惑った桧央の声がかかった。
「あ、えっと、おれは…」
おろおろとしている桧央には悠牙が振り返り、夕食の支度を手伝って来いと命じている。
「はいっ。では、し、失礼します」
弥景の目があると相当緊張するらしい。
しゃちほこばった桧央の声が聞こえて、私たちは悠牙先導のもと、近くの1室に向かった。
「え…?ここは」
その部屋に1歩入った瞬間、そこが何のために存在する部屋かを知った。
「でも誰の…」
王の執務室なら他にあるだろうし、そもそもここは元々はせんせいの資料室という名の荷物部屋だったはずだ。
「悠牙?」
それが綺麗に片付けられ、部屋の正面奥には立派な執務机、壁際には書棚とキャビネットが設えられ、ちょっとした休憩エリアなのか、ティーテーブルまで置かれていた。
「ふっ、気に入らないか?おまえの新執務室だ」
「え…私の?」
ここが。
「隣はあの男の執務室だろう?あちらを、とも考えたが、やはりあそこは、あの男が使っていたまま、残した方がいいと思ってな」
そうだ。この部屋と、内扉1つで繋がった部屋となっている隣は、せんせいが使っていた、せんせいの執務室だ。
「生きていてくれたなら、宰相に、あれほど相応しい男はいなかっただろうに」
ふっ、とそちらの扉に目を向ける、悠牙は本当にせんせいの死を惜しんでくれているようで。
「来てみろ」
悠牙が私を誘い、部屋の奥の1箇所の、隣に続く扉に向かった。
「っ…」
パタン、と扉を開けて、隣の…かつてせんせいの執務室だった部屋に足を踏み入れる。
2度目だな…。
あの惨劇の日以前の状態から変わらぬままの部屋を見て、私はゆっくりと悠牙に視線を向けた。
「悠牙…」
「何故死んでしまったんだろうなぁ?」
ふと、せんせいの机の引き出しから、分厚い書類の束を持ち出した悠牙が、ペラリ、パラリとそれを捲りながら薄く微笑んだ。
「これほどまでに賢政を行おうとしていた男なのに」
知っていたか?と差し出された書類を見下ろして、私は小さく目を伏せた。
「前王がめちゃくちゃな税の使い方をしている中で、必死にやりくりして、民のために使える金を捻り出していたことが窺える帳簿。王の決裁が必要な提案書は、ギリギリのところで王の不興に触れず、民たちに添う気持ちが溢れる上手い案」
「っ、せんせいは…」
「必死で、必死で闘っていたあの男は…けれど」
バサッと床に投げ捨てられた書類が散らばり、ハッとした私のわきから、南雲がパッと走り出した。
「悠牙様!何をっ」
師の懸命な仕事の結晶を、雑に扱うのはいくら悠牙でも許さないと、床に落ちた書類を拾おうと跪いた南雲の目が持ち上がる。
「それでも前王に、付き従っていたのだろうな?」
「悠牙様…?」
「だって、あの男が本当に成したかったことは、こちらだろう?」
悠牙が再びせんせいの机に手を伸ばし、その最下段、私にすら鍵の在処を教えてくれなかった、厳重に管理されていた引き出しを開けた。
「っ…」
それは、民の暮らしを良くするための、王や大臣たちの横行を正すための、新しい政治の計画書だった。
税の正しい使い方、国民の労働力や土地、財産をきっちりと精査し公平に計算し、無理のない税を納めてもらうための提案書。
影でそれでも、どうしても税を払えないものたちからは、秘密裏に徴収を緩め、王に知られない範囲で取り立てを減らしていた、裏の帳簿。
「それはっ…」
「南雲は知っていたな」
く、と笑う悠牙の視線に、私はハッと南雲を見下ろした。
「あとは託したと…」
それは確か、せんせいの南雲に向けた遺言。
「こちらを…」
「っ、南雲、それ…」
スッと南雲がポケットから取り出した鍵を、そっと手のひらに乗せて私に見せた。
「握らされました。すぐに何の鍵か分かりました。ですからそれ以上お止めすることは…っ」
出来なかった、そう涙を流す南雲に、私はくしゃりと顔を歪めた。
「何故、斬りかからなかったのだろう」
前王に、と言う悠牙に、南雲が悔しげに拳を握り締めた。
「しなかったのではない。出来なかったのです」
「南雲?」
「師には…。師には情があったのです」
「情?」
「幼少の頃より、前王を存じておいでなのです。どこで間違えたのか、まだ正せるのではないか、初めから悪だったわけではないと…」
「ほぉ」
「どうにか、と思う師には、斬りかかるほど非情になることはできなかったのです」
ガツッと床を殴りつける南雲の悔しさが、ひしひしと伝わってきた。
「それでもっ、それでも、して欲しかった」
その命をかけてしまうくらいなら、と南雲は叫ぶ。
「しなかったのは、死を恐れたからか?」
くっ、と喉で笑った悠牙の言葉に、南雲の視線がキッと向けられた。
「そんなはずはありません!師は、命を惜しんでなどいなかった!確かにそんな真似をすれば、たとえ王の信頼厚い、最側近の師であろうと、王の横行を指摘するも同然。不興を買い、反逆の罪人として斬首されたでしょう。それでもっ、そんなことを怖れる師ではありませんでした!」
だからこそ、あの人は今、ここにいない。
「では何故」
「師が憂いたのは、ご自分の死後のことですよ…」
「なるほど」
「もしも王への進言により、自らの命が絶えてしまったら?1度師がそのような進言をし、不発に終わってしまった後は…師がそのように持っていた思想を他に伝えていないか、一斉に謀反人探しが始まったでしょう。反乱分子の炙り出しが始まったらどうなりますか?せっかくの、賢政に向かわせるための必要な駒となる新政権での要人になるべき者たちがみな、囚われたり殺されてしまったりするのです」
あの王なら…残念ながらあの父ならばやっただろう。
「師は、だからこそ直接進言は出来なかった。師が望んでいたのは、諍いや争いではない。そのために王子様にどうにか平和的にご譲位を考え願おうと、奔走していました」
「うむ」
「秘密裏に、王子様には真っ当な教育を。政治の何たるかを教え込み、国とは何か、国民とは何なのか、王とは何か、どうあるべきか、公正な目を持つためには、どうしたらいいか…王に知られぬように、一生懸命お伝えしていました」
チラリと向けられる南雲の視線に、私は深く頷いた。
「多くの同志を募り、集め…。そして王子様を支えられるようにと。もし師に何かあっても、その跡を継ぎ、その意志を継げる者を育て、王子様をお支え出来る者たちが熟すまでと…。我々が、師の意を、その知識をすべて引き継ぐことができる日までと…待っていた」
あぁ、けれど。
「けれど間に合いませんでした」
「そうか」
「そうしている間に、民の不満は高まり、先に爆発してしまった。あなたが…悠牙様たちが攻め入ってきたとき、師はただ静かに、凪のように目を閉じました」
あの日、その瞬間(とき)。せんせいは何を思っただろう。
「我らがあまりに無力で、未熟だった…」
「南雲…」
「王子様へのご譲位、そしてご即位に備え、我々は必死で師から知識を、その方法を、正しさを、叩き込み教えてもらっていました。けれど熟していなかった。まだ、足りなかった」
「南雲」
「だから師を…っ」
死なせてしまった、と嘆く南雲の悲痛な思いはよく理解できた。
「惜しかったな、本当に」
心底から、紡ぎ出される悠牙の声だった。
「これほど宰相に相応しい男はいなかったのに」
「だからこそです」
静かに答える南雲の目からは、静かな涙が伝っていた。
そしてぎゅぅっと鍵を握り締め、南雲は絞り出すように言った。
「あなた方がもう少しだけ攻め入るのを待ってくださっていれば…。けれど、攻め入ってきた悠牙様だったからこそ、師は未来に希望を見出した」
「………」
「師の、迷いのない背中が言っていました。師が1度も振り返らず行った意味は…。私にその後を託すと言われた意味は…。あの方の主は、あのような王でも、前王ただ1人だったのです。世界を変えるであろう悠牙様が、新しい、賢王になると悟っていながら…いえ、悟ったからこそ、師は前王と共に逝った。王をお1人で死なせはせぬと…。師は、最期まで、前王の宰相でした」
ポタリ、と床に落ちた涙が染みて、そして静かに乾いていった。
「っ、せんせいはっ…」
生きていたら、悠牙の右腕として、きっときっとよい政治が出来ただろう。私にこうだと教えてくれた、せんせいの望む豊かな国への正しい政治が。
だけどなれなかった。せんせいは、悠牙の宰相には、なれなかった。
なることが出来なかった。
だってせんせいがしたかったのは…血で正義を奪った男の宰相になることではなかった。
その男がどんなに正しい男でも…っ、せんせいがしたかったのは、前王の、正しい政治だ。だからっ、それをさせてやれなかったせんせいが、他の誰かの宰相になどっ、なれなかった…。
「悠牙っ…」
「あぁ。あの男はおまえによく似ているな」
さすが、おまえの教師だ、と悠牙は笑う。
「南雲、おまえはあの男の遺志を継げるか?」
「っ、今ならば」
くぅっと悔しげに顔を歪めながらも、悠牙の前に片膝をつき、恭しく頭を下げる南雲がはっきりと口にした。
「宰相弥景の補佐として、新政治に力を貸せ」
「はいっ」
「彩貴の教育係も兼ね、彩貴を政務の中枢で使えるようにしろ」
「はいっ」
「ゆくゆくは、おまえを彩貴の最側近とし、その右腕となってもらう」
「はいっ」
深く頷く南雲の顔は迷わず、力強かった。
「この部屋は…このまま残そうなぁ」
「悠牙…」
「あの男の、すべてだ」
「っ…」
「あの男が生き、遺したすべてが詰まっている」
「悠牙」
「見てみろ。これなんか、農地や穀の取れ高、商業収入…すべての必要なことを、漏れなく調査してくれてある。そこから民の暮らしを脅かさない、国政への協力の負担まで計算してある、素晴らしい徴税案だ。他にも、制定するべき必要な法、国を、豊かに、幸福にするために…。使わない手はないだろう?この部屋には、新たな政治に必要なことが、たくさん詰まっている」
「っ、ん、ん」
「ここは、新政治の益となる、知恵袋そのものだ。だから、大事にする」
彩貴、あの男の名は?と問う悠牙に、そっとせんせいの名前を告げれば、恭しく目を伏せた悠牙が、胸に片手を当て、最敬礼で頭を下げた。
「っ〜〜!」
それを見た瞬間、南雲の堪えることのない大きな嗚咽が上がり、私の目からも、涙がボロボロ、ボロボロと溢れていた。
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