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2.契約Ⅳ
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空から月がいなくなり、星々が囁く夜空の下。雲嵐は住処の草原で独り杯を携えながら、ぼんやりと天を見上げていた。
「今度こそ、逃げちゃったなぁ」
始めから当たりをきつくして、嫌みも皮肉もたっぷり盛って、そうなるように差し向けたのだから、これはある意味当然の結果だ。遅かれ早かれこうなっていただろうし、それが自分にとっても憂炎にとっても一番良い。
「擬似的に魄をつくるって言って、まさかあの術を持ってくるとはね。あいつ、ほんっとに何を考えてるかわかんない」
この龍黎国を統一した鴻帝の子孫。意外と大胆なところは鴻帝そっくりで、それから随分短気な性格。本人は我慢しているつもりのようだったが、表情を見ればこちらを殴りたいと思っている事くらい丸わかりだ。
杯の酒を一気に呑み干して、瓢箪から再び酒を注ぐ。そしてまた一気に呑んでを繰り返し、雲嵐の頬はほんのり赤く染まっていった。
霊獣であっても酒は飲むし、酔った時のふわふわとした感覚は一等好きだ。たとえ現実がどうであれ、その時だけはすべてを忘れることができるのだから。
「魄がいないせいで宮廷の中で肩身が狭い思いをしてるんだってのは分かるけど。でもあの術を使えるなら、どうせそのうち複数の精霊と契約したがるようになるに決まってる。それに……」
あの皇子も自分のことをしれば、きっと気味悪がるだろう。混乱を防ぐ為、彼を遠ざける手段としてそれを話すことはできなかったが、その予想は間違っていないと思う。だって、この世の理からすればあり得ない話なのだから。
雲嵐は酒をあおり、空に輝く北極星を見つめた。柔らかな風が頬を撫で、火照りを冷ましていく。
「でももう、全部終わった。あいつは逃げて、僕はまたここに閉じこもる。十日と少し前までと同じ生活に戻るだけだ」
名残惜しいと思ってはいけない。自分にとっての唯一は、〝彼〟でなければならないのだから。
たとえ憂炎に魄がいない理由が分かっていても、たとえ自分が彼の望みを真に叶えることができるとしても、自分は彼に何もできない。何もしてはならないのだ。
だって自分には〝彼〟がいる。たとえ〝彼〟にとって自分が多数の中の一つでも、その思いは守り通さなくてはならない気がしていた。
「そう。僕だけを唯一にしてくれる人が欲しいなんて、思っちゃいけない……」
そう呟いてから空になった杯を満たそうと、瓢箪を斜めに傾ける。しかしその入れ物の口からは、一滴の酒も出てこなかった。
「なくなっちゃったのか……。新しいの、取ってこないと……」
雲嵐は瓢箪を持って立ち上がり、ふらふらと家の方へと向かう。畑の脇を通り過ぎ、家の玄関の前にやってきた時、とん、と何かが足先に当たった。
「なに? こんなところに何か置いた……えっ!?」
それは人だった。無機物ではなく、血の通った人間が目の前に倒れている。
その相手に全身の血が凍りついた。結い上げた髪に、絹の衣。間違いなく、今朝瑤草を採りに送り出した憂炎だった。
「憂炎!? どうして!? 逃げたんじゃなかったの!?」
肩を抱きあげ、雲嵐は悲痛な叫び声を上げる。すると憂炎はうっすら目を開き、弱々しく微笑んだ。
「逃げるわけないだろう。お前を魄にしなければならないのだから。……ほら、瑤草、捕ってきたぞ」
憂炎はおもむろに左手を上げる。そこにはしっかりと瑤草が握られていた。
「馬鹿なの!? こんな怪我までして……。あちこち切ってるし、骨も折れてるじゃないか……!」
「ふふ……。いつも悪態ばかりついているお前でも、涙を流すことがあるんだな」
「うるさい。黙ってて」
雲嵐は憂炎の手から瑤草を奪い取り、急いで家の中へと入る。術で明かりを灯し、瑤草の種を鉢に入れて乳棒ですり潰した。そして鉢を持ったまま外に出て、粉になった種を指ですくって憂炎の前に出す。
「ほら、舐めて」
そう告げると彼は大人しく口を開け、雲嵐の指先の薬を舐める。苦かったのか、直後に顔を思い切りしかめた。
「特別だからね。多分、明日の朝になれば治ってると思う」
「ああ。ありがとう、雲嵐。……でもこの薬、別の効果があるだろう?」
「……あるけど」
面白半分で言ったことを、どうやら覚えていたらしい。しかし己が危険な状況でそれを言うとは、頭が良いのか悪いのか。
「けど言ったでしょう。少量じゃそっちの効果は出ないから。たとえ症状が出たとしてもすぐに効果は切れるし。気になるなら明日君が僕に対して何を思おうが、全部薬のせいだと思って」
「……ああ、わかった」
憂炎はふわりと柔らかに微笑んだ。そんな暖かい表情を見るのは一緒に過ごしてきてから初めてで、雲嵐の胸がどきりと跳ねる。一瞬、もしかすると、本当に別の効果が出ているのかもしれないと疑った。
「……とにかく、君はもう休んで。寝所へは僕が運んであげるから」
「その細い腕で俺を運べるのか?」
「何言ってんの。獣の姿になるに決まってるでしょ。あんまりしゃべるようなら、気絶させてから連れてくよ?」
「それは嫌だな。なら、言う通りにするか」
憂炎はそう言って、そのまま瞼を閉じた。そしてきっかり三秒後、すうすうと規則正しい寝息を立て始める。相当に、疲れていたらしい。
「……何で、ここに帰ってくるの……」
雲嵐の目から、するりと涙が滑り落ちる。何度も何度も無理を言って諦めさせようとしても、この皇子は必ず戻ってきた。
こんな傷まで負いながら、雲嵐が欲しいと言って帰ってくるのだ。
そんな彼の姿に、心が絆されそうになる。
「……明日、ちゃんと話をしよう」
そして決めよう。自分がどうするべきなのかを。
獣の姿になった雲嵐は、背中に感じる熱を想い、そう決心するのだった。
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