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3.自覚Ⅳ
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明殷の市場は、明け方から夕刻まで、一日おきに開かれる。宮廷からまっすぐ伸びた道の両端に仮設の店が建ち並び、どの店も店主とその魄が共に大声で客を呼び込んでいた。
「わ、すごい! こんな賑やかなところ、僕初めてだよ!」
雲嵐は目を輝かせ、歩きながら周りをきょろきょろ見回している。
服を着替えるついでに、彼は下ろしたままだった髪の毛を編んで頭の右側で止めていた。
赤い花の飾りの付いた串を刺した雲嵐の姿はいつもと違う雰囲気で、これが自分の相手なのだと思うと、憂炎の胸が妙にざわめく。故に憂炎は宮廷を出てからずっと彼の姿をまともに見ることができないでいるのだ。
そんな憂炎の様子をちらりと横目に見た雲嵐は、意地悪そうににんまり笑う。
「なに? 憂炎。さっきからずっとこっちを見てくれないけど」
「べつに、そんなことはない……」
「もしかして、照れてる? そうだねー。僕ってなかなか綺麗だからねー。憂炎も初心だねぇ」
「そんな事はない!!」
思わず大声を上げて雲嵐を見れば、彼と目と目がばっちりあう。途端に顔が熱くなるのを感じ、慌てて憂炎はそっぽをむいた。
「ふーん。へー。なるほどぉー」
表情を見なくても、雲嵐がどんな顔をしているかが手に取るように分かる。憂炎は眉間にしわを寄せながら火照った顔を覚ましつつ、ずんずんと市場を進んで行った。
今日の市場は特別人が多い。地面に敷かれた敷物の上には、肉や魚、生活用品に至るまで、ありとあらゆるものが並んでおり、客達は道を歩きつつ目当ての品を探して物色していた。
「鴻がいた頃もこんな賑やかな市場があったのかなぁ」
「歴史書にも市場や貨幣文化が大規模に発達したのは二百年前とある。鴻帝がいたのはそれより前の話だ。似たようなものがあったとしても、さすがにここまでの規模じゃなかったんじゃないか?」
「ふーん。そっか。すごいね、人間って」
ふっと一瞬、雲嵐の表情が陰った。悲しみのような、慈しみのような眼差しを目の前の光景に向け、静かに微笑む。
「雲嵐……」
憂炎が声を掛けると、彼の表情はぱっと明るくなり、「早く行こう」と憂炎の袖を引っ張った。
「……」
薬を売る店を探して歩きながら、憂炎は隣の雲嵐を横目に見た。
脳内に紅焔の言葉が蘇る。
雲嵐は、鴻帝を好いていた、と。
先程の言葉と、表情。あのとき彼は、間違いなく鴻帝の事を思っていた。鈍感な自分には彼がなんと思っていたのかは分からない。しかしあんな表情は、自分には作り出すことができないものとわかってしまった。
どうして。どうしてなんだ。
疑問が胸の内を駆け巡る。今、雲嵐の隣にいるのは憂炎だ。なのにどうして、自分の事を見てくれないのか。生きているのは自分なのに、何故死んだ者のことばかり思い出すのか。
言い難い悔しさが渦巻いて、奥歯をぎゅっと噛みしめる。隣を歩く白い姿が、憎らしくて仕方がない。
「ん? どうしたの、憂炎。そんな怖い顔して」
「……なんでもない」
首を傾げる雲嵐から目を逸らし、呟くように問いに答える。今、それ以上彼の顔を見てしまえば、何か余計な事を言ってしまいそうだった。
「ふーん……?」
そんな憂炎の横顔を、雲嵐は推し量るようにじっと見つめた。やがて何かを思いついたように頷いて、どこか楽しそうな顔で店に並ぶ魚を指さした。
「憂炎、魚だよ。懐かしいなぁ。よく、魚を煮付けたものを、鴻がつくってたんだ」
「……」
鴻、と雲嵐が呼ぶ度に、胸のざわめきは次第に大きくなっていく。
「美味しかったなぁ。鴻は、料理が好きだったんだ。皇帝になっても何度か作ってくれてたなぁ」
さざ波が、大波に。やがて嵐のようになった感情をこらえ切ることは難しかった。感情を極力抑えるように両手の拳を握り絞め、口を開けば自分でも驚く程に低い声が出た。
「今、お前といるのは、俺だろう。他の奴の話をするな」
「……!」
雲嵐は目を大きく見開き、それから「そうだね」と頷いた。怒られたというのに満面の笑顔を浮かべている彼が、憂炎には全く分からない。
「そっかー。やっぱりそうなんだ……。鈍感かと思ってたけど、ちゃんとそんな風に思っててくれたんだね……」
照れたような表情を浮かべながら雲嵐がそんな事を口にするので、憂炎は拍子抜けてしまった。拳の力をゆるめ、思わずぽかんと口を開ける。
「なんだ……? そんな風に、とは……」
「えー。もしかして無自覚なの? 君って他人だけじゃなくて自分の感情にも疎いわけ?」
「……どうやら、そうらしい。すまない」
先程の嵐のような感情もずっと胸に蟠っている感情も、それらの正体が分からなかった憂炎は、雲嵐の皮肉に素直に謝罪の言葉を述べる。雲嵐は目を瞬きさせ、そして満足げな顔で首を振る。
「いいよ。今はわかんなくてもいい。けどさ、なんでそんな思いになったのかくらい、考えてくれたら僕が嬉しい」
「俺が、じゃなくて、お前が、なのか?」
「そうそう。僕なの。ってことで、僕は今、ちょっとだけ気分が良いからさっ」
「うわっ……!」
雲嵐が突然、腕に自分の腕を絡めてきたのだ。目を丸くしたまま隣を見ると、彼はにこにこと楽しそうに笑っている。
「いきなりどうしたんだ……?」
「お礼。ほら、早く行こう」
そのまま腕を引っ張られながら、憂炎は市場の奥へと進んでいった。絡めた腕から伝わる暖かさが、胸の中の暗い感情を溶かしていく。前を行く雲嵐の笑顔に目を細めながら、先程の彼の言葉の意味を考える。
どうして雲嵐にあんな事を言ってしまったのか。それはきっと、彼が鴻帝の事を話したからだ。
紅焔の話で、雲嵐が鴻帝に対して特別な感情を抱いている事を知ってしまって、自分が隣にいる今でも尚その思いは変わっていないのかと思うと苦しくなった。
けれど今、その苦しさは、負の感情は消えている。それはこうして、雲嵐と腕を組んで歩いているからだ。彼の笑顔が自分に向けられているからだ。
そこまで考えて、一つの答えが心に浮かぶ。
「まさか……」
「ん? どしたの?」
雲嵐が足を止めてこちらを振り返る。その顔を、憂炎はじっと見つめて思考を巡らせた。
雲嵐が鴻帝の事を話す度に生まれた感情。あれが嫉妬だ。
雲嵐が腕を絡めてきた時に生まれた感情。あれが喜びだ。
そして、雲嵐の笑顔を見る度に生まれた感情。あれが、愛しさだ。
「なるほど、そういうことだったのか……」
不思議そうな雲嵐をよそに、憂炎は悲しげに笑う。
自分は、雲嵐を唯一にできたらそれでよかった。それでよかった筈なのに、いつの間にかそれでは足りなくなっている。
そう。つまり、自分は。
鴻帝さえも差し置いて、雲嵐の真の唯一になる事を望んでいたのだ。
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