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腐れ外道の価値観
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あまりにも外がうるさくて寝られやしない。
気持ち悪い声や荒々しい音が、何度も何度も繰り返されている。
きっと母親も、違う場所で同じことをしているのだろう。
あの両親には愛なんかない。
あるのは本能だけ、獣と同レベル。
……いや、その本能すら利己的な要素以外は捨て去っているのだから、アイツらは爬虫類未満かもしれない。
哺乳類のクセにろくに子育てもできないのだから。
こういうのを世間では虐待といい、児童相談所か何かに訴えるのが世間では正しいことなのだろう。
だが……もしそう定義されて仕舞えば、僕は被害者になる。
可哀想などと憐れまれることになる。
そう思われるくらいなら、こんな現実は黙っていた方がマシだ。
代わりにいつも、自分にこう言い聞かせている。
僕の方からアイツらを捨てたんだと。
僕はアイツらを見下しているんだから、被害者ではないのだと。
そうすれば、惨めにならなくて済む。
「……はぁ」
そしてスマホに目をやって、自分よりも可哀想な分身達を見る。
うん、やっぱり僕は被害者なんかじゃない。
ゼットやミューの受けている仕打ちと比べれば、僕の境遇なんて他の高校生とそう変わらない。
無邪気でかわいい無知なゼット、大人しくてかわいい知りすぎたミュー。
僕の持ちたくない感情は、君たちが背負ってくれればいい。
・
・
・
コメントを読んだり、自分の小説を読み直して愉悦を得ているうちに、いつのまにか外が静かになっていた。
ようやっと「こと」が終わったらしい。
明日も平日だから、きっと相手にも仕事か何かがあるのだろう。
泊まらないのはありがたい、一晩中ぶっ通しであの不快な声を聞かずに済むに越したことはないのだから。
「今度はあの子にも言い聞かせといてよ、せっかくの夜を邪魔することは言うなって」
……が、相手のその一言を聞いた瞬間、日帰りのありがたみも何もかもがどうでもよくなってしまった。
「黙ってたつもりなんだけどな……呟いちゃってたか」
代わりに湧き上がるのは、これから起こるであろう出来事に対する途方もない鬱陶しさ、そして意思とは無関係に始まる震え。
慣れてはいるから、問題はない。
というか、慣れないとやっていけないから。
それから二言、三言の話し声がして、玄関のドアの閉じる音がする。
その間もなく、こっちに足音だけが近づいている。
両親の寝室を通り過ぎて、僕の部屋で足が止まったのが分かった。
「おい」
とてつもなく低くて不機嫌な声がする。
仕方ないから、布団から出て自室のドアを開ける。
その瞬間に飛んできたのは右手のこぶし。
それが来ると分かっていても、避けはしない。
この男は殴りたがっているのだから、早々に殴られてやる方が早く済む。
「あぐっ……!」
だから結局、腹に直に受けるしかない。
体の中が押し潰される不快感と、体が吹っ飛ぶ浮遊感を覚えながら。
痛みはほとんどない、昔から殴られ慣れているから。
最低限の痛みで済む受け方も分かっているから。
というか、分かっていなかったらとっくの昔に死んでいるだろう。
「う、ぐ……っ、はぁっ、はぁっ……」
「おい、分かってんのか?
なんで今殴られてんのか」
目を見てはいけないことは、昔学んだ。
目が合うと無意識のうちに睨んでしまって、「生意気だ」とさらに酷く殴られることになる。
痛みに慣れたからといって呻き声を出さないのも同様に良くない、さもなければ声が出るまで本気でやられるから。
呻き声以外の口答えも、経験則上アウト。
殴られている理由が、うっかり漏らしてしまった「うるさい」とか「醜いよね」などといった呟きのせいだと分かっていても、だ。
「……分から、うぐっ、ないです。
ごめんなさい」
だからできるだけ縮こまって、拳も蹴りも全部受けながら謝るのがいい。
そうすると、あの男はちょっとだけ機嫌が良くなるから。
きっと、僕という弱者の存在が気持ちいいのだろう。
「いいか、お前の声が耳障りなんだよ。
気持ちよくヤってる時にガキの声なんか聞いてみろ、萎えんだろうが」
酒臭い罵倒は下を向いて素直に受け取っておく。
唾が降って来ても、不快な気持ちがバレないように。
ならホテルでヤることができるくらいの金を稼ぐか、相手の家に上がらせてもらえるような交渉ができる人間になればいいのに。
というかそれ以前に、実子の前で堂々とそんな台詞を言えること自体がおかしいと思うのだが、この男にはそういう常識が欠如しているらしい。
「はい……ごめんなさい」
「……ったく、お陰で全っ然ヤり足りねぇ」
寝れなかったのはお前らのせいなのに。
そういう文句は心の中に押し留めて、とりあえず頭を隠して頷いておく。
バタン、とドアを閉める音がして、あの男が部屋から出て行ったと確信したところでそっと顔を上げる。
幸い、ちゃんと自室に帰って行ったようだ。
「ふー……」
ありがたいことに、この暴力でしか躾のできない頭の悪い男も、学習はちゃんとしているらしい。
その証拠に、僕の右目がバグって病院沙汰になって以来、目に見えるところは全く狙わなくなったから。
「大怪我されると面倒」「虐待されているとバレれば厄介」という理由にすぎないのだろうけれど、偶然にも「被害者だと思われたくない」という僕の意志と綺麗に利害が一致しているから、蹴られ方や殴られ方は今でもずっと当時から変わっていない。
それにしても、困った。
痛みのせいで目が冴えてしまって寝られそうにないのだ。
「……小テストの勉強でもするか」
今日は自力じゃ悪夢すらろくに見れやしない。
寝落ちに期待した方が良さそうだ。
頭の悪い男が隣で何かをごそごそと漁っているのを聞きながら、眼鏡を置き机の上の単語帳を開いた。
〜・〜・〜
「………ん?」
朝特有の喉のイガイガを感じながら目が覚めた時には、なぜか床と布団の間あたりで寝転がっていた。
いつのまにか椅子から転げ落ちていたのだろう。
落ちた瞬間に目を覚さなかったのはおかしいと思う人もいるのかもしれないが、痛いのに慣れきってしまっているからか、僕の身体が寝ている間に落ちてそのまま目を覚さない……というのは割とよくある。
現に今、背中やら腰やらお腹がじんじんしているが、あの男に吹っ飛ばされた時の痛みなのか落ちた時の痛みなのか、もう区別がつかない。
なぜか決まって頭は布団の上に落ちていてくれるから、学業に支障がないのはありがたい話だ。
ついでに単語帳も一緒に落ちたようで、数ページ折れ曲がった状態で布団の上に投げ出されていた。
ページを治しつつドアをそっと開けて廊下に出てみたが、家の外にも僕以外の人の気配はなかった。
父親はきっとまた、どこかの地下に闘いに行ったか仲間とつるみに行ったに違いない。
そして母親の方は、昨日千円だけ残したっきり一度も帰ってこなかったようだ。
いつか二度と帰ってこなくなってもおかしくないなとは思っている。
父親は僕に1円もくれないから、その場合は餓死もありえるわけで。
いや、サンドバッグになって出血死とか、衰弱死もありえるな。
その場合は世界が終わってからゾンビとして蘇って、ゼットやミューに会いに行こう。
そしてヘテロセクシャルの旧人類の骨を叩いて壊して遊ぶんだ。
それがいい、小説の世界は自分で作っていて理不尽だと思っていたけれど、世界だけ見ればきっとあっちの方が幸せに違いない。
「……」
そんな妄想に浸りながら、シャワーを浴びる。
喉も痛いので、ついでにうがいもしながら。
鏡の中の気色悪いオッドアイが、少しずつ曇って消えていく。
母親に似た顔立ちも、父親に似た癖っ毛も。
腹や背中に残る、沢山の痣や火傷の跡も。
そのまま、本当に消えてしまえばいいのに。
「もし、僕がこのまま死んだら」
死ぬことそのものには抵抗がない。
生きていることを肯定されたことがないので、この世に未練などカケラもない。
ただ、それを憐れまれることが嫌いなだけだ。
生まれたくて生まれているわけじゃないのに、なぜ死ぬことをそこまで気の毒に思われなければいけないのだ。
自分の人生の価値くらい、自分に決めさせてほしい。
「僕はきっと、被害者になるんだよね」
虐待も育児放棄も何もかも、僕にとってはただの日常だった。
文句も言わず笑いもせず大人しくしておいて、時々痛いことをされるからうまくそれに耐えていく……それだけが僕の生き方だと本気で思っていた。
母親は……少なくとも世間体を気にして母親っぽく振る舞っていた頃のあの女は……簡素なご飯は作ってくれたし家から追い出すための小遣いはくれたし、物置を僕専用の部屋にしてくれた。
だから、そこまで不自由をしているとも思っていなかった。
その母親から「新しいの買うから」と受け継いだおさがりのスマホによって、それがおかしいことなのだと、僕は被害者なのだと知った。
それから一度だけ、父親に抵抗したことがあったが……結果は右目が示す通り。
「……嫌だなぁ、それは」
それ以来、僕は「被害者」という言葉が嫌いになった。
害を被る者、本当に最悪の言葉だ。
それだけでとてつもなく惨めになった気分になる。
何もできなかった無力な存在だと決めつけられているようなものだから。
ただでさえ望んでいなかった人生なのに、それすら全て間違いだったという烙印に近しいものを、どうして受け入れようと思えるだろうか。
悲劇にされてメディアの視聴率上げに活用されるのも本当に腹が立つ。
ネット上で有る事無い事憶測されるのも馬鹿馬鹿しい。
「だからって、どうすればいいかなんて分かんないんだけどさ」
保護されて被害者になるか、死んで被害者になるか。
最悪の2択の選択は、今日もできずじまいで小説に逃げることになるだろう。
〜・〜・〜
学校の準備をして家を出て、駅のコンビニでミニクロワッサンを買う。
安い割にたくさん入っているので、2食分賄える便利な代物だ。
食べながら歩くと喉に詰まりそうなので、学校で食べることにしている。
電車に揺られ30分、痴漢冤罪もスリもなく、とりあえず平和に学校の最寄駅へ到着。
あとは通学路を10分……の、はずだったのだが。
「よぉヒョロガリ、昨日は彼女が世話になったなぁ?」
残念ながら、平和じゃないのは通学路の方だったらしい。
何故か関わった覚えの無い金髪ピアスの上級生に絡まれることになってしまった。
「キモい目ぇしやがって、なんか言ったらどうだよ」
「はぁ……」
ついでのように自分の力ではどうしようもない部分にもケチをつけられるのにはもう慣れている。
今こそもう1年生の間では僕のオッドアイは当たり前のものになっているが、最初は存分にじろじろと見つめられたものだから。
それ以上に厄介なのは、この上級生の言い分の方である。
そもそも彼女とは誰のことだろう。
どうにか糖分不足の頭で昨日の記憶を引っ張り出してみるが、アポカリ関連と父親の不倫事情以外が全く思い出せない。
「ああ?
まさか知らねーってシラ切るつもりじゃねぇだろうなぁ?」
が、このまま黙っていても事態が好転するとは到底思えない。
襟首まで掴まれてしまっては、逃げる方が難しい。
はてさて、どうしたものか。
「えーっと……」
「ねー、やっちゃってよミッチー」
と、必死に頭の中を検索しているところで聞き覚えのある声が聞こえてきた。
上級生の影からニョキッと顔を出したのは、関わったことも関わりたいと思ったこともない、これまた派手な女子生徒。
この上級生が言うところの「彼女」とはこの人のことなのだろう。
一応クラスメートではあるものの、やはり「世話になった」と言われる筋合いはないはずなのだが。
「ミッチーとのプリ見てたのにさー、コイツが机にぶつかってさー。
落として砂ついたの、マジで激おこなんだけど」
……いや、言われてみれば、ダッシュで教室を飛び出した時に何人かの机にぶつかったような。
不幸にも、その中に厄介なお方が混じっていたらしい。
慣れないことはするもんじゃない、まさかこんな形でハプニングに見舞われるとは。
助けを求めようにも、他の学生は厄病神たる僕とこのカップルに巻き込まれまいと早歩きで去っていくからどうしようもない。
目の前にいるミッチーさんとかいう上級生は、彼女にわざとらしくうんうんと頷いてみせて、なんとも意地の悪い顔でこちらに向き直る。
「で、どう落とし前つけてくれるんだよ、なぁ?
俺とマキで永遠の愛を誓ったヤツだぜ、もちろん弁償してくれるんだろ?」
それはもう、思いっきり自分に酔ったヒーロー気取りの声で。
……何かが切れる音が、頭の中で小さく響く。
愛、ねぇ。
「生憎ですが」
そんなの、偽物なのに。
「持ち合わせ、ないんですよね」
ただの本能に、コイツらは何を夢見ているんだ。
「はぁ?
ヒョロガリてめぇ、謝り方も知らねぇのかよ」
「仕方ないって、コイツかわいそーなドーテーくんだからさぁ」
気持ち悪い、理解したくもない。
「じゃあ教えてやるよ、こうやって頭を下げるんだって、なっ!」
ああ、やっぱり彼らはただの野蛮な獣だ。
簡単に激昂して手を上げて。
「うらぁっ! ……ぁ?」
……そして弱い。
「う、そだろ……なんで、俺の」
「遅いんですよ。
こんなこぶし、目を瞑っても避けれます」
あのクズの父親は、こういう時だけは役に立つ。
何度も何度も本気で痛めつけられたおかげで、そこらの不良の攻撃程度なら簡単に受け止められるようになった。
「舐めやがって、コイツ……!」
「まぁ、舐めてたのは認めますよ。
それが嫌なようでしたら、遠慮なくいきますね」
そのままミッチー先輩の手を掴み、思いっきり彼に蹴りをかます。
手加減無しという宣言通り、下半身の急所へ全力で。
「はごぉっ……!?」
明らかに鳴ってはいけない音が聞こえた気がするけれど、知ったこっちゃない。
そのまま彼は僕の襟首から手を離し、股を押さえたまま地面にばたりと倒れた。
「ミッチー……!」
こちらに向かって来ることなく彼氏に駆け寄るクラスメートを見るに、彼女まで黙らせる必要はなさそうだ。
女は面倒くさい、無闇に手を出すとセクハラ扱いされることもあるから。
「て、めぇ……男、の、くせに…………」
安心してそのまま学校に向かおうとすると、先輩としての威厳を完全に失ったミッチーさんが足首を掴んできた。
地味に重いのが鬱陶しい。
「すみませんね、ソコの価値が分からないドーテーなものですから」
そのまま掴まれた足で彼の顔を蹴っ飛ばす。
「ふぐっ……」
そして掴んできた手が離れたところで、蹴るのをやめてやる。
「ま、いいんじゃないですか。
使い物にならなくなったら、不幸な命を作らずに済みますよ」
さて、早く学校に行かないと。
朝食も食べずに授業に出たら、流石に頭がもたない。
……なんて、当然のように登校してしまったが。
「やらかした……」
これまでずっと大人しく振る舞ってきた影の薄いチビ陰キャが不良の上級生をぶっ飛ばしたなんて、他の生徒から見れば珍事以外の何物でもなかったわけで。
せっかくの朝食タイムなのに、クラスメイトと教室の外の知らない生徒から奇怪なものを見るかのような……奇怪なのは事実だが……目線を一身に受けることになってしまった。
昨日ぶっ飛び下校をかましたことも相まってか、特にクラスメイトからの目線が痛い。
なんとか彼らと目を合わさぬようにミニクロワッサンに集中しようとするも、もはや味が分からない。
せめてなにかあるならハッキリと言ってくれ、無言とひそひそ声のダメージはあまりにも重いから。
「お、おいユート……なんか、ヤバい噂立ってんな」
そんな中、ようやく声をかけてくれたのは同じ陰キャ仲間の月音九(つきね あまた)だった。
ユート、ツッキーと呼び合える、僕の数少ない友人である。
「ツッキー……どうしようやっちまったよ…………」
「いややっちまったよって、そもそもやっちまえねーだろフツーは。
あれか、お前実は中坊時代ヤンキーだったとか?」
切れ長の細い瞳をさらに細めて、若干引きつり気味の顔で彼はそう問うてくる。
……それは、ある意味正しい。
「否定は……できません」
「マジかよ……」
「いやちょっと待って、肯定でもないから!
せめて言い訳させてくれって」
なんとか答えたその瞬間、顔どころか体全体を僕から引き始めたので、あわてて立ち上がり手を掴んで引き留める。
僕と違ってツッキーは背が高いから、肩より手を掴んだ方が早いのだ。
「お、おう……でも俺、もうここに居たくねぇよ。
お前といるだけで俺まで目立っちまうし……」
「そりゃこっちだって目立ちたくて目立ったわけじゃないって。
……しゃーない、図書室に逃げよう」
パンの袋を開けっぱなしにしたまま、二人でそそくさと教室から退散する。
「そういやユート、生徒指導の先生からは呼び出し食らってないのか?」
廊下を歩いているうちに、少しずつこちらを見る目は減っていってくれた。
HR教室の校舎から離れ、人目を気にする必要がなくなったところでツッキーが口を開く。
「今の所は。
もし呼ばれたら反省文はちゃんと書くよ」
「お前、文才はあるんだもんなぁ」
文才といっても、相手好みの当たり障りのない文を書ける程度だ。
まさか15禁BL執筆の賜物だとは彼も思うまい。
図書室に着き、机を挟んでことんと座る。
新書や学問書だらけの、休み時間には人が寄り付かないスペースの席が僕らの定位置だ。
「で、その言い訳とやらを聞かせてもらおうか、元ヤンユートさん?」
ありがたいことに、ツッキーの切れ長の目には呆れと若干の疑心こそ浮かんでいるものの、これ以上細くなることはなかった。
さすがにずっとその目で睨まれるのは友人であろうと堪える。
「い、いや……あのな、ちゃんと中学時代も学則は守ってたよ。
ただ、えーと……アレなクセがあって、さ」
「クセ?」
「『愛』とかのたまうバカを見ると、ついシめたくなるクセが……」
「……」
「待て待て待て、頼むからお前まで引くのはやめてくれ!」
もちろん、それが非常識だということは自分でも分かっている。
自分からリア充を爆死させに行く、誰も幸せにならないテロリストになっているということも、理解している。
ただその一方で、その衝動が本心なのは事実だった。
性欲が生み出す錯覚である異性愛を、あたかも素晴らしい感情であるかのように扱うバカップルなんかは特別殺意が湧く。
その声を、姿を知覚するだけで、どうしようもない怒りが溢れ出してくる。
目の前にいなくてもあの爬虫類以下の両親が思い出されて、気づいたら手を出している……そんなことが、中学生時代にはよくあった。
これで手を出しても敵わないのならこっちがボコられて終わりなのだが、幸か不幸か父親を見続けたり対処する方法を考え続けていたおかげで、こっちもまともに相手にすることができてしまっていた。
後は……男でありながら僕が急所を狙うことに一切の躊躇を持っていないのも、やり合えている要因の一つだろう。
アレを男同士の闘いでは禁忌とする発想もあるらしいが、僕は「使い物にならなくなれば僕のような『間違い』で生まれる命も減っていいじゃないか」という持論で闘っているので、バカ男と戦う際はむしろ積極的に狙っている。
ただ……高校では二度とやるまいと、ずっと目立たないように生きていようと努めていたつもりではあった。
実際、これまではちゃんと抑えることができていたのに。
「ミッチー」と甘えた声で彼氏の名前を呼ぶクラスメートの声が、昨晩やってきたあの女性の気色悪い猫撫で声にやけにそっくりで……気づいたら困惑の感情は無くなって、あるのは殺意だけになっていた。
「……ちなみに、今までやった数は」
「えーと……ちょっと待って、今数えるから。
最初は両想いと勘違いして女子生徒に付き纏っていたストーカーで、次は授業中に通話していたうるさいバカップルを2人とも、それからちょっとぶつかったら痴漢だの何だの騒ぎ立ててきた女子高生の彼氏で、後は……」
「あー……なんというか、ユートらしくて安心したわ。
根はいい奴だもんな、お前」
5人目は誰だっけ、と考えていたところで、ようやく彼は疑心の目を向けるのをやめてくれた。
いい奴と彼は言ってくれるが、僕の衝動の理由や腐れ外道である事実を知っていたら、きっとそんなことは言わないだろう。
「まぁセクハラで訴えられることがなかったら、彼女側もボコってたと思うけど」
「これが男女平等ってヤツか……おーこわ」
キシシ、と彼は笑い、そしてふと窓の外に目を向ける。
「せっかくならユッキーも、このこと知ってから別れるべきだったよなぁ」
「いや、知らないままでよかったよ。
アイツ案外口軽いし、転校先で言いふらしそうじゃん」
ユッキー……貝丸幸(かいまる ゆき)。
夏休みのうちに遠くの高校に転校して、いなくなってしまったもう一人の陰キャ仲間だ。
今でも時々、LINEで転校先のことを話してくれている。
「さて、今日のことをユッキーに伝えたらなんて言うかね」
「どうだろ……って、ちょっと待て!
なんで言う前提になってんのさ」
「そりゃそうだろ。
ユッキーだけ知らないとか不公平じゃん」
「だからって……本当だったらお前にだって話したくはなかったんだからな、こんなこと」
そんなことを駄弁っていると、予鈴が鳴った。
「おっと、そろそろ戻らないとやべーな」
「うぅ、もう教室行くの嫌だ……」
「まぁお前の場合、相手が公然とイチャつかない限り何もしねぇわけじゃん。
俺もリア充爆発しろイズムだから気持ちは分かる」
「リア充爆発しろイズム……まんますぎるでしょ、そのネーミング」
ぽんぽんと背中を叩かれつつ、僕は図書室のドアを開けた。
〜・〜・〜
結局、その日は反省文を書くことはなかった。
例のミッチー先輩やその彼女であるクラスメートの女子生徒を含め、先生にチクった者は一人もいなかったらしい。
この二人はむしろ先生に目の敵にされている側なので、恐らくだが先生にチクった方が自分らの立場が面倒なことになると判断したのだろう。
学校の敷地内で起こったわけでも無く、近隣住民への被害もなかったこの事件は、生徒同士の「うわさ」ということで片付いたわけだ。
……が、「うわさ」としては僕のやらかしは残り続けているわけで。
「よぉ、ミチタカに手ェ出した、奇抜な目のチビってのはお前か?」
放課後、さっそく別の上級生に目をつけられるハメになってしまった。
しかも厄介なことに、今度はクラスメイト全員がいるHR教室にわざわざお越しくださっているときたものだ。
派手に事を荒げれば、今度こそ生徒指導は免れないだろう。
「……ええ、まぁ。
ミチタカさんっていうんですね、あの先輩」
ちら、とその上級生を見てみるが、身長こそあれどやっぱり父親と比べるとガタイは貧相だった。
所詮は低偏差値といえども教育委員会の息がかかった公立高校、不良のレベルもたかが知れている。
……が、正直この人には殺意は湧かない。
乱暴で衝動的な人ではあるのだろうが、女の存在に目が眩むようなバカではなさそうだから。
出立ちや雰囲気こそ物騒だけれど、この人は単に友達思いなだけのような気がする。
「で、お前は先輩だと分かった上でアイツに手をあげたわけだ。
いい度胸してんじゃねぇか、なぁ?」
そしてまぁ、間違ったことは言っていない。
この学年にも不良と言えるようなヤツは10人弱くらいはいるが、そんな彼らも先輩不良に余計な波風を立てるようなことはしない。
だが、仲間思いな人だからといって「はいごめんなさい」で許してくれるような人でもないわけで、もう眼前には彼の拳が突き出されている。
「……ぅ」
この世界が不良だらけの男子校モノなら、簡単に窓ガラスが割れて僕の体が吹っ飛ぶ……なんてこともあり得たかもしれない。
……が、残念ながらここはただの公立高校。
放たれた拳の衝撃も、サンドバッグ歴十数年の人間がなんとか受け止め切れるレベルのものでしかない。
ただ、朝よりは少し骨のある拳だった。
思わず、少し呻いてしまうくらいには。
だからきっと……そこそこ「やれる」人なのだろう。
「……マジかよ、本当に受け止めやがった」
個人的にも、クラスメートに対する面目としても、この人の急所は狙いたくない。
だからこの人には、彼にだけ聞こえる声でそっと耳打ちする。
「僕の名前は熊蝉勇人、熊蝉勇牙の息子です」
「やれる」不良にだけ通じる、暗号のような自己紹介。
父親の名前を使うのは癪だが、そもそも僕がこういう乱暴ごとに首を突っ込むクセを身につけてしまったのはこのクズ男のせいなのだ。
名前をハッタリとして利用するくらいしないとやってられない。
そして「熊蝉勇牙」という名前を聞いた途端、先輩の顔は一変した。
みるみるうちに顔から血の気が引いていき、ゆっくりと突き出された拳が戻されていく。
「熊蝉……!?
まさか、あの『禍牙狼(カゲロウ)』の」
「はい、その禍牙狼の人で合ってますよ。
あまり手荒なことはしたくないんです、今までのいざこざは無かったことにしていただけませんか?」
声が聞こえても、きっと一般人には意味を悟られることはないだろう。
「あ、あぁ…………」
僕の提案に、彼は小さく頷く。
完全に威厳を失った相貌で。
そして一、二歩引き下がったところでばっと踵を返し、慌てて廊下を走り去っていった。
「…………」
HR教室が静かになる。
朝と同じだ、無言が痛い。
が、次の瞬間。
「ユート……お、お前……スッゲェよ…………!」
ツッキーが切れ長の目をぱっちりと開き、おずおずといった足取りで駆け寄ってきて僕の両肩をぱし、と掴んできた。
「ツッキー……」
そしてそれに続くように、周りの普通のクラスメイトたちからいろんな声が聞こえてくる。
「すごい」「かっこいい」「意外」「ヤバい」……口々に飛び交う賛辞や畏怖の台詞で、教室がうるさくなってゆく。
そんな評価は、僕には似合わない。
僕は大っ嫌いな父親の威を借りただけの、情けない狐だ。
両親の影を勝手に異性愛者に映して勝手に殺意を覚える、自分勝手で野蛮な狐。
「……もう帰っていい?」
「え?
あ、あぁ……まぁ、いいけど。
えと、俺も着いていって、いいんだよな?」
「ん」
そのまま廊下を出ると、ツッキーは困惑した顔でこちらを追いかけてくれた。
「……へぇ、父親が元ゾッキーの特攻隊長、ねぇ」
「ゾッキーとか古い言葉知ってるんだね、なんか意外」
「ま、陰キャなので。
本の知識だけは勝手に身につくもんよ。
けどよー、正直フィクションの存在だと思ってたぜ、ゾッキー……暴走族とかその子どもとか。
それに、いたとしてもさっき逃げてった上級生みたいなDQNっぽいヤツ連想してたからさ、お前がそうとは思わなんだ」
ゆっくりめの帰りの通学路の15分間は、ありがたいことに平和そのものだった。
会話の内容は平和ではなかったけれど。
禍牙狼……僕の父親がいた暴走族の名前だ。
もう解散しているが、今でもこの辺りの不良界隈では知名度のあるグループらしい。
特に父親である熊蝉勇牙の功績……悪評だと僕は思うが……が「絶対にここまでやってはいけない」という不良にとっての限界の指標になっているのだと、本人がどこかで誇らしげに語っていたのを覚えている。
で、実際に中学時代にその名前を出してみたら、本当に相手がビビってくれたので、それ以来不要な争いを避ける時の都合のいい文句として使っている。
「良くも悪くも、両親は僕には無関心だからね。
いらん教育をされていたら、それこそヤンキーか「ゆた○ん」にでもなってたかもしれないな」
「はーっ、ユートが今のユートでマジでよかった!」
清々しい顔でそう言ってくれる友人に、小さく笑いを返す。
両親ともども不倫している話や、ほぼ毎日鬱憤晴らしに使われている話は、彼にする必要はないだろう。
「しかし、なるほどなぁ……どうりでああいう上級生見てもずっと平静だったわけだ。
俺だったら絶対足ガックガクだぜ、あんな人に睨まれでもしたら」
「いや、それは元々顔とか体に出ないだけだって」
幼少期から笑い声だけでうるさいと蹴られ続ける生活を続けていたのだ、そりゃ表情筋も死ぬだろう。
でもこれについてはきっと、ツッキーが言うことも正しい。
あんな父親とずっと暮らしていたら大抵の人間の睨み顔は怖くもなんともないし、中学時代もそこそこの相手と渡り合ってきて拳やら蹴りやらは見慣れている。
「まぁとにかく、お前がいろいろヤベー過去持ってたとしても、俺はずっとお前と一緒だからな!」
ばし、と勢いよく肩を叩かれ、どきりとしたのは多分僕だけだろう。
腐れ外道の悪いクセだ、何かあると「そういう方向」で捉えてしまう。
元々彼は仲のいい者へのスキンシップが激しいだけなのだと分かっているのに。
まぁ、それを自分の事として捉えることができるほど、相手に飢えてはいないが。
「なんだよ急に、キモいって」
「ひっでーの、俺が離れてボッチになっても知らねーぞ」
「それはお互い様じゃん。
それにユッキーもいるから大丈夫でーす」
駅で別れるまでの残り3分間、僕たちはそんな他愛もない駄弁りを楽しむのだった。
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