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腐れ外道と出会い
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あれから3日後のこと、また面倒な事態が起こった。
駅のコンビニでビタミン補給用のジャムパンを買って、いつも通りの電車に乗って、通学路で誰かに絡まれることもなく学校に到着……そこまでは平和だったのに。
上履きに履き替えようと靴箱に手をかけた時、何か紙のような何かがカサ、と擦れる音がしたのだ。
過去の経験則から、嫌な予感が頭を巡る。
入っているのは恐らくアレではないかという、確信に近い予感が。
自意識過剰とか、そういうのではない。
もしその予感が正しければ、できるだけ早く穏便に断る方法を探さなければならないからだ。
「…………やっぱり」
そして実際に靴箱を開いてみると案の定、そこにはパステルカラーを基調とした便箋が入っていた。
誰かに見られていないかを念入りに確認し、周りの生徒たちの目線が完全にこちらから離れた瞬間を見計らってポケットに便箋を隠す。
そしてさっさと教室に荷物を置いて、図書室に退散。
「……話がしたいので、今日の昼休みに駐輪所の裏で待ってます、と。
で、相手は心田(ここた)さん……意外だな、率先して風紀委員になった人なのに」
本で手紙を隠しつつ読み、嫌な予感はハッキリと確信に変わる。
十中八九、これは告白だという確信に。
誰かがふざけて偽装したとか、罰ゲームとか、そういう可能性もないとは言わないが……一瞬教室に入った時に聞こえたあの女子たちの小さなどよめきから察するに、その可能性は低い。
「さて……いい断り文句を考えないとな」
今回はなかなか面倒なパターンになりそうだ。
余計な角を立てないよう、しっかりと熟慮して挑むとしよう。
「あ、熊蝉くん。
ごめんね、急に呼び出しちゃってさ」
……中学時代、最初に告白された時のことを思い出す。
あれは、ストーカーにあっていた所を偶然助けた、名前も知らない別のクラスの女の子だった。
彼女も確か、今目の前にいる心田さんと似たような謝罪をしてきたっけ。
「いやいや、全然大丈夫。
けど、手紙!? って一瞬ビビっちゃったよ、心田さんからって分かって安心したけどね。
で、その……話、って?」
彼女は確かに顔もスタイルも良くて、いい言い方ではないがストーカーがつくほどの魅力を持っている女子だった。
ただ、客観的に「綺麗」とは思えど、彼女を見てドキッとすることも緊張したりすることもなかったし、ましてや恋愛感情はつゆほども浮かばなかった。
「え……と、ね。
実は、私……」
「異性」という存在自体に、興味も関心もなかったわけではない。
ただ、「不快感」を抱くことの方が多かっただけのことだ。
「好き……なんだ、熊蝉くんのこと。
ご、ごめんねっ!? 全然話したこともないのに、引いちゃうよね……?」
項垂れると共にばさっと左右にばらけそうになる長い髪を手で押さえながら、心田さんは慌てるように捲し立てている。
きっと彼女にとって外見というのは好感度に大きく関係する要素の1つなのだろうが……そういう部分が、やっぱり不快だ。
だって、冷静に考えてみてほしい。
僕のような腐れ外道のどこに好きになる要素があるのか。
僕という人間を知っている人ならば、どう考えても恋人として選ぶ人はいないだろう。
「い、いやいやっ、驚きはしたけど、そんなことないよ。
でも、どうして僕なんか……それこそ、全然話したこともないのに」
……すなわち、そんな腐れ外道たる僕に告白してくる女子というのは。
「実は、ね。
元々、気になってはいたんだ……熊蝉くん、モデルさんみたいに細くて顔キレイだし、真面目だし。
でも元々は、本当に気になるだけで、さ。
で、でも……あの時、ちょっと怖い先輩を静かに追い払ってくれた時、あったでしょ?
あれ、本当にカッコよくて、なんか本当に好きになっちゃったみたいで……」
揃いも揃って、衝動的な本能に目が眩んでいるだけのバカでしかない。
内面を見ようとせず、外ヅラだけで男を判断する……深く考えず父親を選んだ僕の母親のような価値観には、軽蔑の感情しか覚えない。
それどころか服の奥が痣だらけな僕のことを綺麗なんて言ってるわけだから、外ヅラすらろくに知らないくせに。
「そ、か。
ありがとう……でも、ごめんね。
気持ちは嬉しいけれど、今の僕には頷くことができないよ」
だが、そんな本心を伝えるわけにはいかない。
小さく俯いている彼女に、出来るだけ声を落ち着かせて拒否の返事をする。
感情を顔に出さないのは得意だ。
「そ、そうだよね。
あれ、でも……『今の』って……?」
伏せかけた目が、少しぴくっと揺れてこちらを見た。
期待のような、だが同時に疑うような、女子特有の不気味な眼差し。
そんな見透かそうとする瞳に陰キャ特有の虚弱な肝っ玉が一瞬揺らぐが、幸いにもそれは、表情筋を動かすほどではなかった。
教室での女子のどよめきから、この告白には心田さん側の味方が一定数いることは知っている。
だから返事には、とても注意深く言葉を選ばなければならない。
下手をすると、大勢の面倒くさい敵を作る羽目になるから。
「教室に来た不良の先輩を追い払った日の朝、僕が別の先輩をぶっ飛ばしたって噂、覚えてる?
あれ……実は本当でさ。
心田さんは風紀委員だし、立場的にもそんな暴力沙汰起こしている僕とは一緒にいるべきじゃないと思うんだ」
正直、彼女のような真面目で誰にも優しくしている人が、僕を好きになっているとは思いもしなかった。
この人は僕にとってもそこまで嫌な女子ではなかったのに、もっと真剣に異性を選ぶような人だと思っていたのに。
実際、彼女はこれまでも多くの男子の噂になっていながら、今まで誰とも付き合ってはいなかった。
「え……で、でも熊蝉くん、あれって確か反撃で、熊蝉くんから手を出したわけじゃなかったんだよね?
あ、これはマキちゃんの話を盗み聞きして推測したってだけで、実際には見てないんだけどさ」
マキ……あのミッチー先輩の彼女の。
多分彼女のことだ、僕がツッキーと図書室に逃げている間に教室で相当愚痴っていたのだろう。
彼氏をやられた側であるマキの愚痴であれば、僕の評価は散々なものだろうし、それは間違っていない。
異性愛に夢を見ている彼女にとってのプリクラが、僕にとってのBL同人誌と同じものだったと思えば、怒るのも納得はいく。
まさか解決の手段が金か暴力かの2択とは思っていなかったが。
そしてそんな僕の評価を聞いてなお僕のことを良いように解釈できるのは、恋情とかいう歪んだフィルターを通して僕を見ている人だけだ。
「どっちにしろ同じだよ、暴力を振るった事実は変わらないから。
それに、一緒にいたら心田さんまで危なくなるかもしれない。
だから……熱りが冷めるまで、待って欲しいんだ。
時間が経って、それでも僕のことを思ってくれているなら、また呼んでくれないかな」
衝動的な本能は、長続きしない。
自然と消滅するか、別の方向に衝動が向くかのどちらかになるだろう。
そうすれば、僕を歪んだ目で見ることもなくなる。
「……呼んでも、いいの?
期待しちゃうよ?」
これはそういう、間接的な拒絶の台詞。
衝動的な恋愛感情を持った人からの告白は、こうやって拒絶すれば誰も傷つかない。
今こうやって尋ねてきた彼女も、時間が経てば僕のことはどうでも良くなって、未練なく別の男を見つけるだろう。
「…………」
小さく頷く。
肯定する声は、嘘でも出したくなかった。
〜・〜・〜
正直、ケンカに強い男が好きになる女なんて、そうそういないと思っていた。
強い男に惚れる、なんて事象自体が非文明的だし、資本主義の現代であれば頭のいい人とか会話が面白い人とか、世渡りに有利な何かを持っている人の方が付き合うメリットが大きいのは自明の理だから。
だが、そんな僕の予想に反するように、あれから手紙を3通も受け取ってしまい、それぞれにお断りの返事を作る羽目になった。
一方で不良関連はどうだったかというと、父親の名前を伝えた上級生がそのヤバさを吹聴してくれていたようで、あまり絡んでくる人はいなかった。
絡んでくる人が全くいなかったわけではなかったが、基本的に考え無しのイキリ雑魚か彼女あたりに唆されたバカだったので、始末は簡単だった。
むしろバカが校舎内で吹っかけてきたために書く羽目になった、反省文の始末の方が面倒だったかもしれない。
「お、このサークルさん、最新刊出してくれてるんだ。
あー、でもこっちの本も捨てがたい……」
こういう時は「ししのほら」の入荷情報で気を紛らわすに限る。
小遣いは食費の余りだけだから、あまり贅沢はできない。
「よー、モテてる?」
あとは、ツッキーと駄弁るのもよい。
彼自身は腐男子ではないけれど、僕の趣味を理解してくれるし、同じ陰キャだからか一緒にいて落ち着ける。
「不本意ながら」
「それ、かなりの男子敵に回す台詞だぜ?
俺なんかこの目つきのせいで、見るだけで距離取られること多いしよ……」
こいつー、とぐしゃぐしゃと髪の毛を揉んでくる彼だが、
「対してお前は『イケメン』だよなぁ、雰囲気もなんつーか、クールだし。
しかもスタイルもいいしさぁ……低身長でそこまで色気的なモン持ってるやつも珍しいぞ」
急に褒め言葉をぶち込んでくるのだから困る。
「はぁ」
「ほら、そういうとこ。
お前ってさ、驕ったり照れたりするどころか褒め言葉に眉一つ動かさねーじゃん。
ほんっと、クールにも程があるだろ」
「前も言ったけど、顔に出にくいだけだって。
正直、男が男に何言い出すんだって軽く引いてるからね」
「はーっ!?
ひっでーの、ホントなんでコイツがモテるんだか」
「正直彼女より身長が欲しいよ、僕は。
せめて一生のうちに160は超えたい」
「高校で160、じゃねーんだな……」
僕からすれば彼の方がよほど性格がいいし、気遣いもしてくれるし、身長も高いしで、もっとモテるべきだと思う。
少なくとも彼は、誰かが周りにいる時に「腐った」とか「BL」とかの発言は絶対にしないように言葉を丁寧に選んでくれているのを僕は知っている。
「あーっ……俺がもっと陽キャとか女の子にも話せる人間だったらなぁ……!
ジャ○ーズとか全然分かんねーし、そんなんよりも戦国武将とか幕末の男の方がよっぽどかっけーのに誰も共感してくれねーし……!」
それに、腐ったオタクである僕に対して、歴史オタクである彼なら話が合う文系女子も一定数いると思う。
「歴史かー……僕は好きだけどね、そういうの。
信長と蘭丸の関係とか特に気に入ってる」
まぁ彼は「心を許してないと一気に口数が減る」タイプの陰キャだから、そもそも話をすること自体のハードルが高いのかもしれないが。
僕が「お前はもっとモテるべき」などと言ったところでイヤミにしかならないので、こういう時は楽しいオタク談義をするに限る。
「お前が見てるのは衆道(しゅどう)的なヤツだけだろうが。
相変わらずのご趣味で……と言いたいところだが、アレ実はマジらしいぜ」
「え、待って待って……つまりそれって公式設定ってこと?
美味しすぎない?」
「公式っつーよか、実話な。
そもそも日本って男色(なんしょく)の風潮が割とあったんだよ。
だから言ってんじゃねーか、お前も日本史の世界に来いって。
お前ならハマる、俺には分かる」
……やっぱり僕には、女子との付き合いよりもこういう談義をする方が性に合っている。
こういう時以外、本心から笑顔になることができないのだから。
「……うっわ、ツッキーの言ってたこと、マジだったんだ。
欧米の方が多様性だのなんだのは進んでいるとか言ってるツイ○ェミとかいるけど、昔の日本の方が同性愛に寛容じゃん」
「ししのほら」に向かうために電車に乗っている間に、ふとツッキーの話を思い出してスマホで調べてみて、驚いた。
ちゃんと妻も持っているような歴史上の人物が、弟子やら小姓やらと「そういう」関係を持っていたというのが書いてあったのだから。
唐突に日本史の授業が楽しみになってきたかもしれない。
「ツッキー、分かってるな……」
これでは本当に日本史の沼に沈みかねない。
歴史オタクとはかくもこのように末恐ろしい存在だったのか。
そんなことを思いながら電車を降りて、目当ての店を目指して歩く。
その途中、
「………ょ!
……、ぉぃ…………!」
どこかから、何かを必死に叫んでいる声が聞こえた気がした。
声から察するに、おそらく中年の男性らしい。
面倒ごとにわざわざ首を突っ込むほど、僕はお人好しではない。
しかも見知らぬ大人のトラブルなら尚更だ。
だから、通り過ぎようとした。
自分には関係ないし、行くべき場所がある。
「だーっ、しつけぇなぁ!
俺は触ってねーって言ってるだろーが!
ってかそんなおっかねぇ男連れてる女に手ェ出すバカが何処にいんだよ」
が、その声が明瞭になった時、もしやとある一つの予感が頭に浮かぶ。
予感が浮かんだ理由は単純、僕も同じトラブルに巻き込まれたことがあるからだ。
「うっそぉー、絶対おしり触ったでしょ、このおっさん!」
「テメェ、人の女に痴漢なんざしてさらに言い訳たぁ、大人としてどうなんだよ。
どう詫びてくれんだ、あ?」
しかもこのあたりで、この声の主に。
声のする方に目を向けてみると、見覚えのある男女二人組が、わざとらしい大声とオーバーリアクションで、背の高い大人に詰め寄っているのが見えた。
その大人は威勢こそいいが、奇妙なデザインのフードで顔を隠しており、中年の不審者と捉えられてもおかしくはない出立ちをしている。
世間の目としては、男女の方を支持する方が自然だろう。
……だが、彼らに同じイチャモンをつけられたことのある僕は知っている。
この男女は、本当は加害者だと。
あいつらは言いがかりを利用して、男から金を巻き上げる屑であると。
「…………」
数年前に痛い目をみせてやったのに、まだ懲りていないようだな。
勝手に拳に力が入る。
自然と足が3人の方向を向く。
コイツらをどうにかしないと、せっかくのオタ活もモヤモヤとイライラで台無しだろうから。
「すみません、御三方」
僕だって、最初からアイツらが人を騙す屑だったとは気づいていなかった。
初対面の時はただのクソみたいなカップルとしか思っていなくて、「すぐに異性の接触を性的なものと捉えるなんて、互いを性的なものとしてしか見ていない何よりの証拠じゃないか」と呆れて思いっきり鼻を潰してやっただけだった。
「はぁ?
……って、お前は」
が、二度目を見て確信した。
コイツらは、わざとぶつかって痴漢の証拠を捏造していたのだと。
「あれからターゲットを変えたんですね。
弱そうな中坊は案外侮れないから、加害者に仕立て上げやすくて金も持っているおっさんに」
「チッ……あの時のチグハグな目をしたクソガキじゃん!
金も持ってなかったしボコってくるし、散々だったんだけど!」
舌打ちをする彼女に反省の色はなく、自分の確信が真実であったのだということがより分かるだけであった。
なるほど、そういう「汚さ」もあるのか。
異性愛の下劣さとは、全く多様なもので。
いや、この男女にはむしろ愛すらなくて、金による利害関係による繋がりしかないのかもしれないな。
「クッソ……分が悪りぃなぁ!」
二度とコイツらの遺伝子が後世に残らないようにしてやろうかと思ったが、その前に2人は周りの目の変化にたじろぎ、そのままどこかへ走り去っていった。
恐らくアイツらは、テリトリーを変えて同じことを続けるのだろう。
「いやー、ひでぇ目に合うとこだったぜ!
ありがとな、クソガキ!」
と、急に後ろから声をかけられて慌てて振り返る。
そこには、さっき金を巻き上げられかけていた怪しい出立ちの大人が、季節外れのうちわを仰ぎつつにやにやと笑いながらこちらを見ていた。
フードの中身はどうなっているんだと覗いてみたが、中身すら前髪で隠れており、見れば見るほど怪しいおっさんにしか見えない。
そして僕が実際に高一のクソガキであるとはいえ、初対面の相手を本当にクソガキと呼んでくるのもどうかとは思う。
「いえ、お構いなく。
僕もあの人たちに絡まれたことがありましたから」
まぁでも、この人とまた会うことは恐らくないだろう。
会わないのなら、気にする必要もない。
「それでは。
ああいう面倒な男女には気をつけてくださいね」
軽い別れだけを告げ、早々に現場を去る。
ああ、バカな異性愛者のせいで時間を無駄にしてしまった。
早く買い物を済ませて、親が相手を連れ帰ってくるまでに部屋に撤退しないと。
「……これまたおかしなガキなこって」
後ろにいるおっさんがぼそっとそんな台詞を吐いた気がしたが、いちいち反応しても仕方がないので無視しておいた。
・
・
・
大好きなサークルさんの最新刊か、それとも自分好みの予感がするホラー小説か……レビューの確認やSNSでの宣伝、立ち読み可能なギリギリの範囲を攻めるなどの手をつくし、究極の二択をきっちり一時間かけて決定を下して店を出た時には、既に空は夜の帳を下ろしかけていた。
夜は大人の時間。
親が相手とアレソレをする時間。
そういうイメージが強く刻まれてしまって以来、僕は夜が大嫌いだった。
早く帰らないと、父親がまた女を連れて帰ってくるかもしれない。
父親がいる時には、ドアを開けることを含め一切の音を立てることは許されないのだ。
「あ、そうだ。
帰りに夕飯買ってった方が確実だよね」
そうそう、帰りにコンビニに寄るのも忘れずに。
この前みたいに夕飯を買い逃すのはもう勘弁だ。
今の残金で、おにぎりは買えるだろうか。
そんなことを考えながら、財布をポケットから取り出す。
「……ん?」
しかし、財布の中の300円より目についたのは、財布を持つその左手。
いつのまにかその手には、刃物で切られたかのような長めの切り傷ができていたのである。
痛くはないし、血も出ていない。
「あー……これアレか、かまいたちってヤツか。
そういう季節になったんだな」
妖怪だとか神の悪戯だとか、そんな説のある現象だった気がする。
今では真空状態がなんとかって、解明されているんだっけ。
もうそろそろブレザーでも肌寒くなってきた頃だから、そういう冬の現象が起こってもおかしくはない。
まぁ、血も痛みもないのなら心配することもないだろう。
さてさて、今日はどのおにぎりを買おうか。
〜・〜・〜
今夜は幸いにも、誰も帰っていなかった。
いつもこうであってくれるとありがたい……そう一瞬思ったが、次の瞬間にある種の不安が脳内をよぎる。
リビングに出てきてみると綺麗に何もなかったのである。
酒の空き缶も、避妊具のパッケージも……そして食費も。
今帰ってきていないのはいい、しかし昼間にすら誰も帰って来なかったとあれば話は別だ。
なぜなら、両親ともども完全蒸発の可能性があるから。
父親が消えるのはいいとして、母親がお金すら置いていかなくなってしまったのならば、それは死活問題に等しい。
暫くはまだ、推し活にためていた貯金があるからそれを崩して食べていける。
だが、明日、明後日と続けば、すぐに貯金も底をつく。
「今日は忘れただけ、っていうのは……楽観的すぎるか」
水道代やらガス代、さらには学費も払われなくなったら、本格的に施設保護の可能性も考えなければいけなくなるかもしれない。
そうすればネット回線は小さい子の情操的なアレのために規制がかけられるか監視されるかするだろうから、小説の執筆は続けられなくなる。
もちろん、BLグッズも買えないだろうし買ったところで置き場がない。
ツッキーも「施設の子ども」となった僕を友達として見続けてくれるかは分からない。
そんな退屈な守られ方をしてまで、生きる意味はあるのだろうか。
……被害者には、なりたくないのに。
被害者は、ゼットとミューで十分なのに。
カルシウムで身長が伸びてくれれば、という一縷の望みをかけて買った青菜とシラスの混ぜ飯おにぎりを頬張りつつ、B-Lackを開いて現実逃避に勤しむ。
そんなプライドを持っている場合じゃない、まずは自分の命を優先しろ、なんて大人は言うのだろう。
でも、惨めで可哀想な「被害者」としての人生を生きるくらいなら、死んだ方がよほどマシだと僕は思う。
そもそも僕は、生まれたくてこんな境遇に生まれたわけじゃない。
僕が死にたくないと思ってこうやって自殺せずに生きているのは「両親の虐待によって殺された」という被害者像を残したくないからなだけで、生きたいなんてこれっぽっちも思っちゃいないのだ。
「…………」
・
・
・
「…………ト、ユート!」
「うわっ! ……って、ああ、ツッキーか」
そんなことを考えていたら、不意に後ろからぐしゃりと髪の毛を掴まれてドキッとする。
思わず背中に回し蹴りを放ちたくなる衝動を、聞き覚えのある声でなんとか抑えて振り返ると、そこには細い吊り目をさらに細めてこちらを見る友人がいた。
「どうしたんだよ、ボーッとして。
5回は呼んだぜ、お前のこと」
「あ、あぁ……ごめん。
ちょっと寝不足で、ふらふらしてたみたい」
正直、髪を掴まれるまで全く気づかなかった。
眠っていたわけではないにしろ、本当に周りが全然見えていなかったらしい。
それこそ、今日と昨日の記憶が混在するほどには。
ツッキーがいなければどこかで電柱に激突していたかもしれない。
よく学校の最寄り駅まで無事に1人で歩けたものだ。
「ふーん……さてはお前、陰キャの俺が大声でお前を呼ぶのにどれだけの苦労があったか知らねーな?」
「いや、本当に悪かったから……って、いたたた!
ギブギブギブ、腕折れるから!」
しかし彼はすでにご立腹だったらしく、感謝の意を表す前暇はなかった。
左手を後ろからガッと掴まれて捻られては、出せる声も出ない。
「嘘つけ、猫かぶっても無駄だからな!」
「被ってない、被ってないから!
いや、マジで離してって、いでででで……!」
そして、馬鹿な異性愛者になら出る力も、友人である彼には出ない。
なんだかんだ手加減されているのは分かっているし、僕を心配してくれていることも知っているから。
だが、だからこそ……僕は彼にとっての普通の友人でありたい。
「施設の子ども」なんて、そんなレッテルの貼られた友人ではいたくない。
彼が僕なんか捨てて別の子と喋ってくれていたら、こんなことを思う必要もなかったのだろうか。
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