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腐れ外道の非行
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次の日、またツッキーが巾着をくれた。
「ほら、今日の昼飯。
ちゃんと食えよ」
「ありがとう、わざわざごめんね」
今日も重みがあってごろごろしている。
きっと朝から作ってくれたのだろう。
「で、朝は……プチロールパンか、それ」
「たくさん入ってて110円だからお財布に優しいよ」
「……最低でも3つは食えよ、朝食として」
お母さんかな? と思ってしまった僕はきっと悪くないと思う。
これで「両親が不倫していて捨てられそうになっている」みたいな話をしてしまったら、果たしてどうなるのやら。
流石に毎日はやってられないと捨てられるか、それとも今のお人好しをさらにヒートアップさせて全部の面倒を見ようとしたりするのだろうか。
「そういや、ユッキーからのメッセ見たか?」
「見た見た。
誕生日も祝ってくれたし、オススメの本も紹介してくれたよ」
「妖怪モノとか流石分かってるよな、ユッキーは。
俺もユートも守備範囲っていう」
あれからユッキーは、「プレゼントとは違うかもだけど」とイチオシのBL本を紹介してくれた。
僕がBL専門、ツッキーが日本史専門だとすれば、ユッキーは万能タイプ。
どのジャンルにもそこそこ精通しガチ勢ともある程度渡り合える、つよつよのオタクだ。
逆に程よく知らないことがあるからこそ、「教えて」とガチ勢に突っ込んでいって仲を深められるのかもしれない。
今回勧められた本はまだ買えていないけれど、「山の神に捧げられた生贄の少年」を描いた和風ダークファンタジーになっているらしい。
「ツッキーはさ、そういう系に対して抵抗はないの?」
「まー、ないわけじゃねーけど。
でも『昔はそういうのがよくあった』って思ったら納得できる」
「なるほどね」
昔はよくあった、とはいっても、それはあくまでも「生贄として少年を捧げた」ことだけなのだろう。
そのまま少年は神なんていなかったと絶望しながら死ぬ、それが現実。
所詮、人外モノというのは僕の作った小説を含め総じてフィクションなのだが、伝承として妖怪が実在するかのように残っていたり、未来に人道から大きく逸れた生命が誕生するストーリーができたりするのだから面白い。
「1話だけ試し読みしてみたんだけどよ、マジで面白いぜコレ。
この山の神ってのはまぁ表紙見てわかる通り天狗なんだけどさ、マジモンの記録に残っているような設定がちゃんと盛り込まれていて……」
「ストップストップ、ネタバレはやめてよ。
ツッキーって語り出したら本当に止まんないんだからさ」
それこそ、現実にいる人間よりも人間らしいと思えるくらいには、面白いと思う。
そんなことを思いながらツッキーの天狗解説を聞いている間に朝休みは終わってしまい、結局本当のことを話すことはできなかった。
・
・
・
「……わ、コレもしかしてオムライスってやつ?」
「あたり、ミックスベジタブルが入ってるけど、好き嫌いは許さねーぞ。
昨日みたいに鍋用意してご飯炊き分けるのと比べたら相当手抜きだがな」
ぶっきらぼうにそう言う彼が作ってくれた今日のおにぎりも、やっぱり豪華だった。
「それを手抜きって言えるのって、本当にツッキーとその家族さんくらいなんじゃない?
めちゃくちゃ美味しいよ、これ」
ミックスベジタブル入りのケチャップライスを卵で巻いたオムライスおにぎり、鰹節と醤油の入ったご飯で包んだ和風ツナマヨおにぎり、焼きたらこと三つ葉の混ぜご飯おにぎり……定番の具が入っているだけでも嬉しいのに、本当にクオリティが高すぎる。
「ふ、そりゃ何より。
もういっそのこと、三食分作ってやろうか?」
「申し訳ない……って断るのを躊躇ってしまうくらいにはそうして欲しい自分がいるねぇ」
ツッキーは僕と比べるとずっと背が高いけれど、僕も同じようにご飯を作ってくれるような家に生まれていたら、同じような身長になれていたのだろうか。
少なくとも父親は、僕よりは30センチは高いし……いや、あり得ないことを考えても仕方がないか。
「ははっ、珍しいな!
控えめなユートがそこまで言うなんて……ホント作り甲斐があるわ」
わしゃわしゃっと頭を撫でられると、より一層保護者っぽく思えてきた。
「そうそう、もし両親との仲が戻ったらさ、一緒に遊びに行かね?」
「……遊びに?」
「そ、まぁ『ししのほら』とか行って買い物して少しおやつ食べるってだけのシンプルなオタ活なんだけどな。
せっかくだしユッキーの紹介してくれたヤツ、一緒に買いに行きたくてさ」
仲が、戻る。
……それは一生、叶うことがない願いだ。
生まれた時から、そう決まっていたのだから。
でも目の前の大切な友達は、それが来ることを一切疑っていない。
それもそうだ、僕だって何度かツッキーやユッキーと一緒に買い物をしたことはあるのだから。
それが可能なくらいの小遣いはもらっていると思われているのは当然だろう。
「……そう、だね。
早く戻るといいな」
ああ、間違えた。
本当のことを言う前に、嘘をついてしまった。
「おー、楽しみにしてるわ。
それまでは昼食作ってきてやるから、ちゃんと食うんだぞ」
……やっぱり、言わない方がいいのだろうか。
この昼食作りが僕の家族仲が戻るまでの苦労でしかないと考えている彼に、さらなる負担を強要するのは気が引けた。
いつかこのままでいられなくなる、それくらい分かりきってたくせに、未だにそれに対して優柔不断なまま先延ばしにしてしまう癖が抜けてくれない。
すっぱりと別れを切り出すことも、本当の家族事情を話すことも、結局今日はできずじまいだった。
明日こそは、ちゃんと言わないと。
〜・〜・〜
「……案外、残るものだね」
昼食が浮いた分、朝の残りのパンがまだ幾つか袋に入っている。
これなら、夕飯には十分な量になるだろう。
バイトの申し込みもできて、面接はちょうど一週間後になるらしい。
昨日までなら、それで安心できたのだが。
今日取り付けてしまった約束によって、余裕が一気になくなってしまった。
「ししのほら」は定期圏内の駅の近くの商店街に入っているから交通費の問題はないとして、ユッキーの推薦図書と食費で千円はかかるだろうか。
そして本当の家族の事情は言い出せなくなってしまったから、昼食を作ってもらうのは長くても今週中が限度だろう。
そうなればバイトの給料がもらえるまでは更なる節約を続けないといけないわけで。
「これ、一つは明日の朝食に回すか」
明日からは早起きしよう。
早めの電車に乗ってツッキーより先に着けば、食べた朝食の量を隠すことができるかもしれない。
「それで、そうそう。
履歴書を書かないといけないんだった。
証明写真は撮ってきたし……結構痛い出費だったな」
しかし、写真がこんなに高いものだとは正直思っていなかった。
これだけで4日分の食費を使ってしまったと思うと、特に。
「…………」
一瞬、悪い考えが自分の中で浮かぶ。
惨めで意地汚い考えが。
「……ああでも、そうすれば僕が悪くなるね」
分かっているはずなのに、僕は惨めになりたくないから被害者であることを嫌っているんだって。
だというのに、こう思わずにいられないのだ。
「僕が加害者になれば、被害者にならないんじゃないかな」
と。
「うん……それでアイツらを困らせられたら、儲けものじゃん。
むしろ誇らしいよね、あははは……」
自分の家……自室を出て、廊下に出る。
誰も帰っていない、真っ暗な空間だ。
そのまま電気を点けて、もう一つの部屋に侵入する。
しわくちゃの布団と雑に捨てられた避妊具の箱が目に入るだけで不快だったが、気にしていても仕方ない。
そして棚を一つずつ調べていって、ついに見つけた。
「これまでくれなかった分、もらうよ」
母親のタンスの隅で無駄に丁寧に畳まれていた、数千円分のへそくりを。
思いついたのは、両親からの窃盗。
思いのほか、それ自体に躊躇はなかった。
腐れ外道の自分でも多少は良心の痛み的な何かがあると思っていたのだが、相手が相手だからか、何の罪悪感も湧いてこない。
まぁ母親はどうせここにはもう帰ってこないだろうから、盗まれたなどと騒ぐことはないのだろうけれど……それでも、少し気分が良かった。
財布は家に置いているから、今のところはズボンの狭いポケットに押し込んでおくことにしよう。
これなら給料が手に入るまでの時間稼ぎ程度にはなってくれる。
あとは、期待はできないが父親の分も探すとするか。
そもそもアイツに金を貯めるとかいう発想があるのかどうか怪しいけれど。
そのまま、父親の私物のある棚に手を伸ばす。
……その、時だった。
「はーっ、あの犬ジジイが……!」
玄関の扉が開く音と、今一番聞きたくなかった声が耳にいっぺんに入ってきた。
まずい。
そう思う暇もなく、
「……あ?」
廊下の電気が点いていることと、自室のドアが開いていることに気づいたのか、ただでさえ不機嫌そうだった声が一気に低くなる。
逃げないと、でもどこに?
立ち向かいたいのに、身体が勝手に震えて動けない。
足音が近づいていると分かっているのに、振り向けない。
「…………っ」
足音が、止まる。
僕の後ろから、大きな影が被さっているとわかる。
振り向けないから、どこから来るのかが分からないのが厄介だ。
少なくとも舌を噛まないように、先に歯を食いしばっておく。
ひゅっ、と空気を裂く音がしたかと思うと、
「うぐっ……!」
痛みより先に、首の圧迫感と全身の浮遊感が先に来る。
そしてその次の瞬間には、背中に鈍い衝撃が来て、腹と首を潰されるかのような感覚を覚えた。
喉が苦しくて、声が出ない。
身体が重くて、全く動かない。
「う、ぁ……?」
ああ、そうか。
僕は今、腹の上に乗られて首を絞められているのか。
思わず閉じてしまっていた目を開けると、目の前には父親の顔がある。
いつも殴ってくる時より機嫌が悪そうで……なぜか、異様に怖かった。
こういう顔なら何度か見たことがある、でも普通なら痛いだけで怖くはない。
どうして……こんなに、恐ろしいのだろう。
「ひっ……い、いやっ、だ……!
くる、し…………」
が、思考のための酸素も血液も、大きな両手に堰き止められてしまっている。
知らない、こんなに怖いのも、苦しいのも。
「おい、答えろ。
俺の部屋で何してた」
「ぁ、がっ……!」
嫌だ、嫌だ、ごめんなさい。
もうやめて、助けて、いい子になるから……「躾」だけは、どうか。
幼かった頃のように、そんな許しを乞う台詞ばかりが頭に浮かんでくる。
抵抗して手を掴んでしまったら、より一層絞める力が強くなった。
本当に苦しい、声どころか息すらうまく吐けない。
「ほら、吐けよ。
死にたいのか?」
そんなに喉を潰されて、声なんか出せるわけないのに。
嬲るつもりしかないくせに。
呻く声すら出せないから、どこにも苦しさを吐き出すことができない。
出せるものといったら、勝手に溢れて止まらない涙くらいだ。
「チッ、生意気な顔で黙りやがって。
お前は本当に、俺の邪魔しかしねぇな」
目が、うまく見えない。
殺されるのだろうか、僕は。
「ィ……っ、ギ」
必死に抵抗してしまう身体が憎らしい。
そうすればするほど、より苦しいことをされると分かっているのに。
今の状態ですら耐え難くて、逃れようとせずにはいられないのだ。
「あー、これじゃ収まんねー」
「かひゅっ……けほっ、げほっ……ぐっ、」
ようやく解放されたと思ったら、今度は何度も身体を蹴り飛ばしてきた。
不思議なことに、恐怖が苦しさと一緒にすぅっと引いていく。
こっちの方が慣れているし、受け方もちゃんと分かっているからだろうか。
切り替えてくれたのには内心ホッとする。
もし切り替えてくれなかったら、そのまま死んでいたかもしれない。
「いっ、ぁぐ……ごめんなさい、ごめんなさい……」
頭を抱えてそう謝ってみたらアイツは少し機嫌が良くなったから、きっと僕が怯えて命乞いをするところが見たかったのだろう。
「はっ、おせーんだよ、謝るのが」
「お願い、します……ぅ、ぐ、ころさ、ないで」
こんな棒読みの声で通じるのかと嘲りたくなるくらいには、余裕ができた。
いい感じに僕の身体が震えているから、怯えていると思い込んでいるのだろう。
ただ……痛いのは、本当だ。
今日のは、本当に手加減がない。
こんなに背中と腰をやられているから、明日は椅子に座ることすら苦痛になるかもしれない。
「なら、二度と俺の目の前にツラ出すんじゃねぇ」
「……はい」
腕も足も存分に蹴られたあたりで、ようやく落ち着いたのか足が降ってこなくなった。
代わりに襟を掴まれて、玄関まで引き摺られていく。
ああ、「捨てられる」パターンは数年ぶりだな。
そう思いながら、ドアの開く音と共に襲いくる、軽い浮遊感とフェンスにぶつかる衝撃を味わう。
「ぁぐっ、う」
高校生の身体になっても片手で投げ捨てられるとは思っていなかったけれど、昔よりは吹っ飛ばなかったから案外マシだった。
けれど小さい頃と違って、流石にそれはまずいと(世間体を気にして)助けてくれた母親はいない。
「次会ったら、殺すからな」
冗談と捉えようにも捉えられなくなった脅迫の台詞と共に、ドアが閉まる。
鍵も閉められたから、お前の家はないと言っているようなものだろう。
「…………」
まぁ、鍵もへそくりも、まだポケットに入ってるんだけど。
朝にはいなくなっているだろうから、今日はどこかで時間を潰すとしよう。
〜・〜・〜
さて、とりあえず服の砂を払ってアパートを出てみたはいいものの。
11月の夜に学生服は思いのほか堪えることに気づいてしまった。
まだ真夜中というわけではないから娯楽施設は普通に開いているものの、夜通し使うにはお金がかかりすぎる。
スマホも家に置いてきてしまったから、相談できる相手も手段もない。
「お巡りさんの補導だけは勘弁だけど……どうしようか」
「へぇ、お困りのようだな」
と、そこにいきなり声がかけられて思わず肩が跳ねる。
なにせさっきまで誰もいなかったところで耳元から喋りかけてきたのだから。
「……よく会いますね、最近」
そして声のする方を振り返ると、そこにいたのは例の変な被り物のおっさんであった。
「まーな、元々ご近所だったんじゃねーの?
あ、ちなみに俺の苗字はアマイヌだぜ」
「はぁ……聞き覚えはないのですが、そうかもしれませんね。
それにしても、寒くないんですかそれ」
おっさん……アマイヌさんと言えばいいのだろうか……は、これまでもそうだったが、カッターシャツに変な被り物、さらになぜかうちわという1、2ヶ月時期を間違えたかのような服装をしている。
明らかに僕より寒そうに見えるのだが。
「別に?
さみー時はもっと寒かったからな、こんなのどうってことねーよ。
むしろ現代っ子のお前の方が大丈夫か?」
よいせ、と冷たそうなアパートの壁にもたれながら、アマイヌさんは余裕そうにそう尋ねてくる。
温暖化が起こる前の冬を知っている大人でも寒がりは多いのに、本当に耐性があるらしい。
「……別に、これくらいは」
一方で僕の方は、電柱を触ることすら躊躇うレベルには寒いと思っている。
かといってそれを口にしたところでどうにかなるものでもないと言葉を濁そうとしたが、
「嘘言え、手ェ見せてみろよ」
「わっ……」
急に右腕を掴んで引っ張られる。
一瞬、蹴られた跡が見られるのではないかと不安になったが、おっさんはじっと顔を寄せて
「ほら、サブイボ立ってんじゃねーか。
強がりはよせよ、クソガキ」
と嘲るようにそう言っただけだった。
「……だとしたらどうだっていうんですか」
「ま、帰ることもできねーし、金もねーわけだしなぁ」
振り解くように腕を取り戻したが、やっぱりこのおっさんは距離感がバグっている。
普通は寒いと思ってるかどうかを確かめるために腕を掴んで引っ張ったりなんかしないし、そもそもこうやって話しかけてきたりもしない。
「お、そうだ。
時間潰すなら駅とかどうだ?
ある程度は空調が効いてるし、ベンチもあるぜ」
「ああ、それはいいかもしれませんね」
なるほど、駅なら夜遅くまで開いている、外よりはよほど快適に違いない。
最終列車が来てしまった後はどうするか分からないけれど、とりあえず日付が変わるギリギリまではいられるだろう。
あとは暇の潰し方も考えないと……
「って、なんで着いてくるんですか」
「あ?」
何故かこのおっさん、僕が駅に向かって歩き出すと一緒に歩き始めた。
「別にいいじゃねーか、ちょっとくらい付き合ったって」
「……それ、誘拐犯かストーカーの常套句っぽいですね」
「ふははっ! そりゃ辛辣なこって。
せめてナンパって言えよな」
それはそれで褒め言葉ではないような。
貧乏でチビな同性をナンパするモノ好きなど、一体どこにいるのやら。
恐らく僕の目には疑心が篭っていると思うのだが、アマイヌさんは気にもせずに着いて歩いてくる。
「っつーか、お前1人で夜遊びとかできると思ってんのかよ。
さては非行少年初心者だろ」
「…………」
バカな恋愛観を持つ者をボコす、という悪行であれば何度もやっているのだが。
でも確かに、1人でしか行動しなかったし夜は大嫌いだったしで、夜遊びをするのは今日が初めてだろう。
「すぐ警察に補導されるぜ、そしたらあの親の元へ逆戻りになるわけだな」
「……見てたんですね、あの時」
そういや、僕が帰れないことをこの人は知っているのだった。
ということは、僕が家の外へ投げ捨てられた様を見ていたのだろう。
「児相とかそういうのに連絡はしたのかよ。
フツーに虐待だろ、あれ」
そしてこうやってそれを気にかけてくれるのが、普通の大人というものなのだろう。
だけれども、今の僕にとっては最も認めたくない言葉だった。
僕は被害者じゃない、僕は親の金を盗んだ加害者で、親を見下している非行少年で、今もこうやって家出して夜遊びをしようとしているのだから。
「……違います」
「違うって、何がだよ」
「割とでっかい喧嘩になっただけで、虐待じゃないです」
そこまで返したところで仕事帰りのサラリーマンさんが前からやってくるのが目に入り、慌てて口を閉じた。
この人にまで家の事情がバレたら面倒すぎる。
「……」
そのまますれ違ったが、幸い何も気づかずに通り過ぎてくれた。
意外にも、隣にいる背が高くて被り物も服装も奇妙なおっさんにすら、目を向けることはなかった。
割と目立つ格好をしていると思うのだが、きっとお仕事疲れからの癒しを求めて自分の家に帰ることで頭がいっぱいなのだろう。
家が癒しになるというのは、幸せなことだ。
「ってことは、誰にもその話はしてないってことか?」
「ええ、してませんよ。
あれが僕にとっては普通で、話すほどのことではないのですから」
きっとこの話を聞いている人も、このおっさんの他にはいないだろう。
そもそも8時ごろの住宅街を通る人など、ほとんどいないのだから。
現に今だって、辺りを見渡しても誰も歩いていない。
さっき通ったサラリーマンさんはもう家に入ってしまっている。
あとはこの人が、他人に世話を焼くお節介なヤツか、他人事にしたがるヤツかで対応を決めなければならないだろう。
前者なら、何をしてでも児相への通報を止めなければならない。
そんなことを考えて、忘れていた。
「……そーかよ」
後ろをついて歩く声が、くひひっ、と気味の悪い笑い声をあげるまで。
「なら、お前を心配してくれる人間は誰もいないってワケだ」
この人は、理由も言わず付き纏ってくる不審な大人だった。
間違いなく何か裏がある、なのに油断していた……そう思って振り向こうとする前に、
「むぐっ……!?」
口を急に塞がれて、建物の隙間に引き摺り込まれる。
あまりにもあっという間で、抵抗しようと思う暇すらなかった。
「殺して食おうが拐って閉じ込めようが、『夜遊びに出掛けて帰ってこない』としか思ってくれないだろうなぁ?」
ようやく今の状態を理解したときには、口だけでなく腕までがっちりと固められて動けなくなっている。
「…………っ!」
まずい、このおっさんが何をしたいのかが全く分からないけれど、とにかくまずい状態であることに変わりはない。
体格差のせいか力差のせいか、全く身動きが取れないのだ。
さっきの心配しているような台詞も、僕が消えたときに面倒かどうかを確かめるためにすぎなかったのだとしたら……このおっさんは、少なくとも僕を無事に帰らせてくれるつもりはないのだろう。
「くはははっ!
もがくだけ無駄だぜ、クソガキ。
大人しくしたら楽にしてやるよ」
だけれども、逃げるチャンスがないわけではない。
すぐに僕を気絶させたり殺したりしないたり、多分この人は僕が暴れるのを押さえつけて楽しんでいる。
それが可能だと思うくらいには、僕を見下しているに違いない。
「……っ。
ぅ、う……」
にしても痛い。
腕ごと体を絞められるたびに、父親に蹴られた所がずきずきする。
意図せずに呻き声が漏れてしまう。
「しかしまぁ……男のガキなのが残念だよな。
可愛げがねぇというか」
けれどもその分だけ、
「……っ!」
「いでぇっ!?」
食いしばる力というのは強くなるから。
口を塞いでいた手を、思いっきり噛んでやった。
「あっ、くっそ、テメェ……!」
思った通り、驚いて手を離したから抜け出すことができた。
「油断しましたよね、チビで可哀想なガキだって」
そのまま後ろを振り返って、思いっきり蹴りをかます。
何が目的かは知らないが、望み通りじゃなかったのなら狙わないで欲しかったものだ。
……が、その蹴りは宙を切った。
「っと、危ねぇな……本当に可愛げのねぇガキなこって」
さっきまで痛そうに指を押さえていたアマイヌさんは、いつのまにか呆れたような笑いを浮かべて後ろに下がっていた。
速い、というか本当に瞬間移動でもしたかのようだった。
蹴りが入る直前まで、確かにこの人は指を押さえて俯いていたのだから。
しゃがんで回避するのならばまだしも、後ろに下がってしかも笑えるくらいの余裕を作れるなど、確実に只者ではない。
「…………。
何が目的なんですか、お金は持っていませんよ」
確かに僕はこの人の拘束から抜けることはできた。
だけれども……逃げることなど、できるのだろうか。
もう僕が反抗的であるのは知られてしまったから、今度捕まれば一切の手加減はないと考えて良いだろう。
逃げようとも戦おうとも、明らかにこの人は僕よりもよほど素早く動けるのは確かで、父親に身体中を蹴られた僕では逃れることができる気がしない。
被害者にだけは、絶対にされたくはないというのに。
「…………」
目の前の男は笑っている。
ぽたぽたと指から血を滴らせながら。
長い前髪と浅く被ったフードで口元しか見えないのが、本当に不気味だった。
「それは言えねぇなぁ……でもまぁ、金じゃねぇってことだけは教えてやるよ」
そのまま、一歩ずつこちらに近づいてくる。
僕が一歩ずつ下がれば奥へと追い詰められていくと分かっているのに、そうしないわけにもいかない。
三歩目を踏み出しかけた所で、急に手がこちらに伸びる。
「っ、しまっ……」
慌てて避けようとした所で逆に足がもつれてしまい、尻餅をついた所で手が僕の顔に触れた。
温かくぬるりとしていて、血がついたのだと分かる。
今度こそ、逃げられない……そう思ったのだが。
「今日は見逃してやるよ、クソガキ。
夜遊びはやめて早く帰りな、今なら家には誰もいないはずだぜ」
男がそれだけ呟いた所で、急に突風が吹き込む。
「わっ……」
びゅう、と大きな音の鳴るそれに思わず顔を覆ったが、それ以上の何かをされる気配がない。
「……あ、れ?」
そして顔を上げた時には目の前には誰もいなくなっていて、道端でへたり込んでいる僕だけがぽつりと残されているようであった。
「あの、大丈夫ですか」
怪訝な顔をした、仕事帰りと思われるスーツ姿の女の人が僕に話しかけてくる。
「あ、いえ……何も。
少し、転んでしまいまして」
「ああ、さっきの風、すごかったですもんね」
慌てて立ち上がって女の人に頭を下げて、そこでおかしなことに気づく。
「建物の隙間」など、この辺りにはどこにもなかったということに。
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