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第三話
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大学の講義が終わったら、一緒に夕飯を食べる約束をしていたので、結斗は純の家にきていた。
高級住宅街の地上二階、地下一階(防音室兼、純の部屋)外観が灰色の一軒家。
結斗は、純の家の玄関の鍵を持っていたので、家主が帰っていない人様の家に勝手に上がって勝手に夕飯を作っていた。
結斗の母親と純の母親が、友人同士だったために、結斗と純は、ずっと兄弟のように育ってきた。対して自分の家は、ただの庶民。
純の母親との違いが多すぎて、どうして二人が友達になったのか今も謎。
純の母親のことを、結斗は一度だって純のオバちゃんなんて呼んだことがなかった。由美子さん。
純の両親は、純が大学に入学したのと同時に、仕事で海外へ。今、純は広い一軒家に一人で暮らしている。
由美子さんは「近くに結くんがいるから、安心ね」といい、厚すぎる信頼のもと結斗に玄関の鍵と純の世話をお願いしていった。
夕飯の仕込みが終わたころ、丁度、帰ってきた純は結斗の背で鍋を覗きこむ。
「ただいま」
「台所借りてる」
「好きにしてくれていいけど、おでん?」
「文句あるなら食うなよ」
「無いよ、いい匂いだなぁって。寒くなってきたし、いいね」
上機嫌で今にも歌い出しそうな純は、あとで結斗が片付けるつもりで流しに入れっぱなしだった調理器具を食洗機に入れていく。
由美子さんは、純は結斗がいないと何もできないから、色々手伝ってくれると嬉しいと言っていた。
けれど、別に結斗が手伝わなくても、純は家事全般なんでも出来た。
お手伝いさんでも雇えるような家なのに、純は自分で洗濯も出来るし、料理もおそらく結斗よりも上手い。だから実際のところ、純の家へ家事手伝いに来ているというよりは、遊びに来たついでに、広い台所を自由に使わせてもらっているだけだった。
結斗の家は父が単身赴任で、母も家でじっとしているのが性に合わないと働いているので、料理はいつも結斗が作っている。
「ねぇ、結斗。今日さ、ピアノ聴きに来てくれたのに、なんで途中で帰ったの?」
なんで、気づいてんだって、内心焦っていた。
「ッ、よ、用事!」
なんの前振りもなしに聞かれたく無いことを聞かれて、結斗は言葉に詰まる。
「ふぅん、それって走っていかないといけない感じだったの? 俺の演奏途中に」
「腹痛かったんだよ!」
恥ずかしくて、自然と声が大きくなっていた。純のピアノを聴いて勃起しましたとか墓まで持っていく秘密だ。
「だったら週三で、あのこってりラーメンやめた方がいいんじゃない、結斗、油っぽいもの食べたらすぐ腹壊すし」
「俺のことよくご存知で!」
「多分、なんでも知ってるんじゃないかな」
「怖いこというなよ、俺の何知ってんだよ」
「結斗も俺のことなんでも知ってるじゃん」
今日の昼までは、なんでも知ってると思っていた。
「……なんでもは知らないよ」
普通にしようと思っていたのに、おでん鍋の灰汁をすくいながら、結斗の声は次第に萎んでいった。
「まだお腹痛いの?」
「……なぁ、純いつからピアノやってんの」
「頭でも打った? 四歳からだよ」
純は目を瞬かせて首を傾げた。
結斗は、純がピアノを始めた日も、通っていたピアノ教室をやめた日も知っていた。知らなかったのは、純が、いつ、どうして、ピアノの動画配信を始めたのか、だ。
「そうじゃなくて。ずっと、人前でピアノ弾いてなかったのに、今日弾いてたから」
「人前って、結斗の前ではずっと弾いてる」
「俺じゃない人!」
「あー、確かに、それは最近だね」
人の気も知らないで返事は酷くあっさりしたものだった。
「だから……純さ、プロになるんだろ?」
真剣な目で結斗は純の目を見たが、次の瞬間、純は弾けるように笑いだした。目に涙まで浮かべているけれど、決して変なことを言ったつもりはない。
「俺が、プロ? ないない。あのな、結斗は知らないと思うけど、プロの演奏家っていうのは、子供の頃から毎日練習続けて、コンクールとかにも出ないといけないよ? あと、そもそも俺、音高も音大行ってないじゃん。英文学科の俺がなんでピアニスト?」
「けど……俺の友達、動画でお前のこと知ってたし、俺は知らなかったけど、純その界隈では有名人なんだろ? 純の演奏聴きたいって人がいるなら、それってもうプロのピアニストじゃん」
「ゆーい」
先の言葉を制するように名前を呼ばれた。
「何だよ」
純がピアニストになる。これで、もう安心だと思った。
「どうしたの? 何か嫌な事でもあった? 俺のピアノでなんか言われたとか」
「嫌なことじゃなくて、何か、俺お前のピアノをたくさんの人が聴けるの嬉しいのに、こう、なんか変っていうか……なぁ、お前、俺の気持ち分からない?」
喋りながら、自分の頭は大丈夫か我ながら心配になってくる。五歳児だってもっとまともに自分のこと説明出来るだろう。
「結斗の気持ちねぇ」
結斗はハッと我に返った。大学生なのに純の前だと、いつも思考回路が幼稚になる。
「あ、ごめ、別に、お前のこと責めたいとかじゃなくて、今日の演奏すげー良かったし、大学のピアノあんな音出せるんだな、知らなかった。いつも変な音だったから」
「変?」
「うん、音が、純のピアノと違う」
いつまでたってもゴール出来ないショパンのエチュードとか、階段を途中で滑り落ちるトルコ行進曲とか、毎日あの建物の前を通るたび聴いていた。上手下手は抜きにして、ピアノの楽しい音が結斗は好きだった。
けれど、日常的に純のピアノを聴いているからなのか、聴くたびに背中がぞわぞわして落ち着かない気分になった。
「あー、あのピアノ元々すごく古くてピッチ440Hzなんだけど、少し前までは、さらに低くて、お前わかったの?」
「なんとなく?」
「あいかわらず耳はいいね、今日調律してたから、昨日までよりはいい音だったと思うけど」
「……ふーん」
ただの違和感程度のものだ。今は大学のピアノの良し悪しよりも、もっと気になっていることがあった。
――純がどこか遠くに行くんじゃないかって思ってる。
恥ずかしい思考回路が筒抜けになっているのか、純は突然にっこりと笑った。
「ねぇ、結斗」
「……な、なんだよ」
「とりあえず、俺は昔から何も変わってないし、別にプロになるつもりもないよ」
「なんでだよ!」
どこへでも好きなところにいって、プロとして羽ばたけばいいと思った。
「なんでって、俺、お前と遊びたいからピアノ弾いているしなぁ、楽しいじゃん」
「……遊ぶって、俺とやるのは、ただのカラオケだろ」
「それが、楽しいの。そうだ今度、一緒に京都駅行く? ストリートピアノ一週間だけ置くらしいよ」
そんな情報をどこから手に入れるのか、衆人環視のなかピアノを弾きたがるような男じゃなかったのに、なぜ? いつそんな動画配信みたいな趣味を持った? 疑問ばかりが増えていく。
結斗は気になって仕方がないのに、どういう聞き方をしたところで、純を責めるようで言葉にならなかった。
遊ぶのが楽しいだけなら、今までと同じで良くない?
「俺と行ってどうすんの?」
「隣で歌ってくれたら、もっと楽しい」
「俺のは人に聴かせるような歌じゃない、界隈から出禁になっても知らねーぞ」
「そんなことないのに、昔から結斗は、自己評価低いよね」
「俺は、別にいいんだよ。人前での歌なんて子供のときに辞めたんだから」
「飽きずに毎週毎週楽しそうにカラオケ行ってるのに? 俺と変わらないって」
全然違うだろって、心の中で盛大にツッコミを入れておいた。
結斗はやっぱり、急に純のことが分からなくなった。
おでんが出来たあと、純がいる地下室に行く気になれなくて、結斗は、リビングのソファーでテレビをつけ横になった。
眠かったというよりは、ふて寝。
気づいたら、テレビの音が頭の中から消えて、遠くから、ピアノの音が聞こえてきた。
いま純の家にあるピアノより、記憶の中の音は、もっとキラキラしていた。
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