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第五話
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純の呼ぶ声で目が覚めた。
「ゆーい、結斗。寝るなら亜希さんに電話してベッド行きな。風邪引くから」
「……いま、何時」
「七時前」
「もうおでん食った?」
「いや今から」
夕飯を作ったあと、リビングのソファーでテレビを観ている間に、いつの間にか眠っていたらしい。ほんの三十分くらいの間なのに長い夢をみていた気がした。
今だって幸せなのに、昔のことを思い出すと、幸せな今が急に不安になる。
今までが十全だったから余計に少しの綻びが怖くなる。
「おーい、まだ寝てる?」
ソファーの横に立っている純を見上げる。さっきまで子供の姿を見ていたせいか、伸びた身長に違和感を覚えた。中学までは、結斗の方が少しだけ高かったけれど、高校で抜かれて差をつけられた。
「なぁ純、ピアノ好き?」
「好きだよ」
その返答には、少しのためも迷いもなかった。
「……うん」
そうやって、何も変わっていないことに安心している。結斗は勢いをつけてソファーから上体を起こすと、台所へ歩いていった。眠る前まで大鍋に入っていたおでんは、純の家用に小鍋に入っていたし、結斗の分は持って帰るように蓋つきのプラ容器に詰められていた。
何もかもが完璧だった。
(べつに俺……純の世話とかしなくても良くね?)
そんな結斗の寝起きの纏まりのない思考を知ってか知らずか、純は台所にいる結斗についてきて、目を眇めて顔を覗いてくる。
「結斗、昔から変なところで繊細だよね」
「それ褒めてないよな」
「図太そうに見えて、なんか良くわからないタイミングで急に不安定になる。お前の音楽みたい、まぁそういうところがいいのかな、人を惹きつける音楽って、完璧だと逆に面白くないから」
「ピアノの話?」
「結斗の話です」
純がいう結斗の音楽というものが、どんなものか分からない。歌をやめてから音楽らしい音楽は、大学の同好会仲間で行くカラオケくらいだった。あとは、強いていうなら、純が弾くピアノで一緒に歌って遊ぶとか。
「で、帰るの? 泊まっていけばいいのに」
「ババアにおでん持って帰るって朝に約束したから。多分そろそろ帰ってくるだろ」
「そう、じゃあ気をつけて。亜希さんによろしく」
純の亜希さんという自分の母親の呼び方は何回聞いてもぞわぞわする。
ママ、お母さん、おばちゃん、おかん、おふくろ。
全部、同じで違う生き物だ。
「俺の母親はオバちゃんでいいって、亜希さんとか呼ばなくても」
どう考えても、自分の母は「亜希さん」って顔じゃない。
「結斗だって俺の母さんのこと、由美子さんって呼ぶだろ?」
「雰囲気だよ! お前のとこの母さんは、オバちゃんじゃねーじゃん。ケーキ焼けるし、バイオリン弾けるし」
「ケーキとバイオリンが基準?」
「昔食べた由美子さんのチーズケーキがめちゃうまだったなぁ」
自分の母親はケーキは絶対手作りしない、ホットケーキでさえ食べたければ結斗は自分で焼く。
「言えば喜んで焼いてくれるんじゃない? けど今はお前も作れるだろ。あと俺らの母さんは同級生だから年齢なら、どっちも同じ」
「それでもうちのはババアなの。じゃあな帰る、台所サンキュな」
「はいはい」
すでに台所で自分がする片付けが残っていなかったので、おでんの容器を袋に詰めて玄関に向かった。
玄関近くにあるクロークから自分のコートを取り出して羽織り、靴をはく。この一連の流れが、純の家だなと思う。
今も昔も、自分の家と純の家の違いは多過ぎる。
結斗の家ならコートはリビングのソファーに投げっぱなしだし、靴も玄関に散乱している。母親に片付けろと怒られるまでがデフォルト。
違いが多くても、純が結斗の家に来た時に「コート掛けはどこですか?」なんて聞くおぼっちゃんかというと、そんな事はなくて、だいたい適当に置いているし、純が結斗の家に泊まれば、雑魚寝もする。
そういうところが長い付き合いが出来る理由の気がした。
「なぁ……純。ピアノ、続けろよ。絶対」
玄関でドアノブに手をかけたとき、振り返らずに結斗は背中でそう言った。
「続けるもなにも、いつも弾いてるよ」
精一杯の気持ちで、頑張って言ったのに全然伝わっていなくて、地団駄を踏む。
純の才能を埋もれさせたくない。それは本心。それなのに、口に出すと寂しくなる。
「だーかーらー、そうじゃなくて! もう、いい!」
「赤ちゃんかよ、急にヒスるし」
「うるせー!」
「寝ぼけて坂で転けるなよ、ちゃんと前向いて歩けよ」
純の中で、まだ自分は、小学生なのだろうか、昔のことをいつまでも覚えている。
そんなことを思いながら、悪態をついてドアを閉め、純の家の前から続くだらだらと長い坂を下っていく。小学生の時、両手じゃ足りないくらい、この辺で転けた。自転車でブレーキをミスって転けた時は、一回足の骨も折っている。注意力散漫な子供だったかもしれない。
長い坂道が終わり高級住宅街を抜け、駅の高架の下を潜るといつも肩の力が抜ける。
十何年と繰り返し純の家と自分の家を往復しているが、川と駅を挟んだ先は、景色が急に変わる。閑静な住宅街を抜けると突然コンビニとスーパー、チェーン店の飲食店が軒を連ねている。
春は、川沿いの桜を目当てにたくさんの観光客が訪れる場所だが、それ以外は住みごこちのいい静かな街。
昔から親が純の家と仲がいいから、自分の家と純の家を比べてコンプレックスを感じたことはなかった。けれど、やっぱり住んでいる世界が違うなと折に触れて感じる。
家に着くと、マンションのエントランスでちょうど母に会った。長いくせ毛をひっつめて後ろでまとめバレッタで留めている姿は、どう見ても「亜希さん」じゃないだろうと改めて思う。
「おかえり息子。いい子にしてたかい」
大げさに抱きついてくる母の拘束から逃げる。どいつもこいつも、自分のことを子供扱いだ。
「……ただいま、離れろよ。おでんがこぼれる」
「機嫌悪いなぁ、純くんと喧嘩したの?」
「したことねーよ。アイツ怒ったとこなんか見たことねぇし」
「確かにねぇ、純くんホントあんたと違って優しいし紳士だから。君は、基本的に無神経だし純くんに色々我慢させてんじゃないの」
「純は、そんなんじゃねーよ」
「おっ、彼女面かよ」
「怒るぞ」
「もう、怒ってるじゃん、こわーい」
つまらないやりとりをしながらマンションのエレベーターに乗り行き先ボタンを押す。
(純が我慢してる?)
怖いことを言わないで欲しいと思った。喧嘩らしいことは本当に今まで一度もしたことがない。
――彼女ヅラって。
多分「彼女」という存在よりも、長い時間一緒にいる。家族よりも同じ時間をすごしてるし、家族よりも純は結斗のことを知っている。多分、純も結斗のことを知っていた。
彼女面というより、深い言葉があるなら知りたいと思った。
部屋に入って荷物を置くと、母が風呂に入っている間に夕飯の準備をする。
友達のような親子という言葉があるが、自分の家の場合は会社だ。
昔から上司と部下みたいな関係が続いている。家族という会社の中で、全員が各々役割を持っていて一定の秩序のもと不可侵に生きている。
放任主義とも違うし、育児放棄をされていた訳でも、親の愛情を感じていない訳でもない。昔は、自分の家を変な家だと思っていたが、いい加減もう慣れていた。
いい年なんだから、仕事はそこそこにして主婦にでもなればいいのに、母親は、ずっとエンジニアとして一線で働いている。父も母も別に喧嘩はしてないし、仲が悪い訳でもないのに、互いに用事でもなければ一緒にいるところをあまり見ない。家にいつかない両親の代わりに家を守ってきたのが結斗で、結斗は家事ができるから家事をしている。
きっと、結斗が家のことが苦手だったら親もやったかもしれないし、この先、結斗が家を出たら、両親も自分で自分のことを全部するのだろう。いい意味でも悪い意味でもドライな家だった。
久しぶりに食卓で母子で顔を付き合わせていた。風呂上がりの母はビールを片手におでんを美味しそうに食べていた。喜んで感謝されているのだと思うと次も頑張ろうと思えるし、料理に関しては、だんだんと結斗の趣味になっていた。好きになるように仕向けられてたのだろうか。
「なーんで、今日は、ぶすっとした顔してんの?」
「元々こういう顔なの。アンタらが産んだんだろ、よく似てるよ」
「そうね、父さんにそっくり」
アンタにそっくりなんだよって、心のなかで毒づく。
「そうそう、今年のクリスマスさ。由美子ちゃんたちと遊ぶことにしたから」
「は? なんで、つか由美子さん帰ってくるの?」
それなら、家族で過ごすんじゃないのかと思った。別にクリスチャンでもないから、教会に行ったりはしないだろうけど。
「何でって、父さんも休みだって言うから、一緒にニューヨークシティーまで」
「行くのかよ! 歳考えろよババア」
その発想はなかった。いや、あった。
昔から自分の親は好き勝手に生きている。
「普通さ、息子一人置いて、海外遊びに行くか?」
「アンタだって、大学で遊んでるじゃない。私たちだって遊びたいし」
「勉強もバイトもしてる!」
「そう偉いねぇ? でもさ大学なんて遊び方を覚える場所でしょう。一年の間に真面目に単位とって二年は自分探しという大義名分で朝から晩まで遊んで、三年になったら酒を覚えて、四年で最後に絶望する。ちなみにあんたの父さんとあったのは、三年の時。ほんと酒の力って恐ろしいわ、あんたも気をつけなさい、私の血をひいているんだし」
親の出会いとか聞きたくないと思った。
「……別に自分たちが稼いだ金だし、好きにすればいいけど」
「ありがとう、お土産買ってくるね」
「いらねぇ」
「えー、なになに暗い顔。お母さんいなくて寂しい? 純くんに遊んでもらいなよー」
完全に酔っ払いだ。
別に酒癖は悪くないし、悪いお酒じゃないから適当にあしらって放っておこうとおもった。そして、自分の親は、酔ってても息子のことをよく見ているし、何も見てないのに、結斗のことをちゃんと知っている。
それが、親というものなんだろうか。純と離れるのが寂しいなんて、気付きたくなかった。
「純だって、クリスマスは忙しいだろ。俺だってバイトあるし忙しい」
「ふぅん。やっぱり寂しいんじゃない。ほんと、四六時中一緒にいたからねぇ君らは、兄弟みたいに。で、大学行ったら一気に世界が広くなるのよねーわかるわかる。母さんも高校の時の友達って今はぜーんぜん会ってないもん」
そして、母親にも不安を煽られる。
「別に、純は俺がいなくても、好きにやってるし、俺だって」
「素直に、クリスマス一人が寂しいから今年も一緒にいてくださいって純くんにお願いすればいいじゃない、きっと喜ぶよ?」
「誰が言うかよ!」
「去年も二人でいたくせに」
「去年は、純の親も帰ってきたし、アンタらも純の家にいたじゃん」
去年は、純の家で二家族でクリスマスパーティーをした。夕飯を食べたら、地下の純の部屋で映画を観ていたので、二人でいたというのは間違いではないけれど。
「そうだっけ」
「そう!」
「ま。純くんもあんたが嫌だったら、嫌っていうし、アンタも純くんが嫌ならいやって言うでしょう、そんな悩まなくても、そんだけのことじゃないの。ほんとアンタ昔から図太いくせに変に繊細なんだから、誰に似たのよ父さんかしら?」
同じことをさっき、純に言われたところだった。
「……そうかな」
「そうそう、純くんに彼女が出来たら、アンタ泣くんだろうなー、まぁ、純くんもアンタに彼女が出来たら泣くだろうけど」
「あいつが泣くか?」
純が自分のことで泣くところの想像が出来なかった。そういまいちピンとこない顔をしていたら、母は呆れたように息を吐く。
「ほぉら、アンタそういうところが無神経なのよ。同じだけ一緒にいたんだから、思考回路も同じだって、なんで分からないかなぁ君は、由美子ちゃんも言ってたけど、私たちからみたら、あんたら似た者同士よ」
勝手に似た者同士で纏められたけれど、やっぱり純に自分と同じところなんてないと思っている。けれど母親の言葉は不思議で、じゃあ、それならまだ一緒にいてもいいかと思えた。
欲しくもなかったのに、安心を与えられた気がして腹がたった。
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