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第六話
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* * *
結斗は、子供の頃クリスマスにあまりいい思い出がない。あるにはあったが、それは小学校低学年までだ。
歌を習いに行くまでは、家族でケーキを食べたり、サンタの存在に関係なく、一ヶ月くらい前から毎日何かしらの小さな楽しみがあって、その先の冬休みも心待ちにしていた。
結斗は、小学校三年生以降、クリスマス近くは市のホールで定期公演会に出ることが恒例になっていた。そのためクリスマス前は、普段より忙しく練習時間が長くなった。本番前は、一日通しでゲネプロがあり、クリスマスイブには本番。子供の体力、集中力なんてものは、ある程度の慣れや訓練で鍛えられても、基本的には大人ほど強靭ではない。
何か「目指すもの」がある子供なら耐えられても「楽しい」だけが理由だと苦痛。
そんな、大人になれば当たり前だとわかることも、子供の結斗にはその「当たり前」が分からなかった。
結斗のことを繊細だと母や純は言っていたが、結斗からすれば、子供の頃の自分は、繊細なのではなく、ただバカ正直で頑固なだけだったように思う。
クリスマスの公演が終わっても、冬休みには合宿練習。結斗は、あれほど好きだった歌うことが次第に苦痛になっていた。けれど、習っていた当時、結斗は習い事が苦痛なことだと気づいていなかった。
――加減を知らないバカだったから。
習い事に関して両親は反対しなかったけど、元々クラシックに興味もなかった。子供が出演する場合でもそれは同じで興味に変わることはなかった。もちろん、帰りが遅くなる時は、必ず練習場まで迎えに来てくれたが、結斗の生活が音楽中心になるにつれ、クリスマスや年末の楽しいイベント行事は全て親や友達と離れて過ごす時間になっていた。
もし、習い事で一緒の目標を持った仲の良い友達がいれば居場所になったかもしれないが、何年通っても居心地が悪く、いつしか、クリスマスは結斗にとって「寂しい時間」に変わっていた。
公演は毎年同じ『くるみ割り人形』だ。
自分たちの所属する合唱団だけでなく、市の交響楽団、バレエ団やピアノ教室と合同で行われるものだった。基本的にはバレエが中心で、あいだにピアノや歌などが入る構成になっている。
初めの頃は、物珍しい迷路のような舞台裏や地下にある秘密基地みたいな待機場、広いホールにワクワクしていたが、結斗が習い事を辞めた最後の年は、本番前から昼ごはんも食べられないほどに疲れていたし、神経がビリビリと張り詰めていた。
その年は、ピアノの演奏で純も出演することになっていて、終わったら由美子さんの車で純と一緒に帰れるからと、それだけが楽しみだった。
本番前の昼休み、結斗はロビーに漏れる音に誘われて、一人でふらりとホールに入りこんだ。目の前ではバレエの『金平糖の精の踊り』の最終演出の調整中だった。
――XXXちゃん! それじゃあ、飛べてない! 低い! 妖精に見えないでしょう。
――さっきも言いました! なんで出来ないの? そんなので今日の舞台立てると思ってる?
ヒステリックな先生の声と、パンパンと殴るように拍を取る音が客席まで響く。
『金平糖の精の踊り』は、去年、舞台袖から観て楽しい気分になった結斗が大好きな曲だった。好きな音が嫌いな音になる。
楽しかった記憶が一瞬で怖い記憶に塗り替わった気がした。
自分の歌の先生も本番前は酷いが、どことも「そういうもの」なんだと知った。休憩のつもりでホールへ遊びにきたのに、雰囲気にのまれて休憩前よりも疲れていた。
そういう意味で、確かに音に関しては、結斗は人より繊細だったかもしれない。
そのあとも、舞台裏でレッスンに熱心な母親に怒られている子供たちに遭遇して、結斗が怒られているわけでもないのに、嫌な気持ちでいっぱいになり、あんなに練習したのに本番はずっと上の空だった。
公演後、先生の講評が終わり、純と待ち合わせをしていたロビーのソファーまで辿りつくと、急に身体中の全部の力が抜けて座りこんだ。
結斗が今日歌ったのは、ベートヴェン第九『喜びの歌』だった。
幸せな歌じゃなかった。ずっと耳の奥にガンガンと不快な音が残っている。
本番前、一方的に怒られて、歯を食いしばって耐えていた子達が、にこにこ楽しそうに花束を抱えて出口に向かっていく様子が、なんだか気持ち悪いなと思った。
花を渡されたくらいで、嫌な気持ちがゼロになるなんて嘘だと思った。
毎年、公演後は少しだけ暗い気持ちになっていたけれど、その年は去年の比じゃなかった。その日までの小さな嫌な感情の積み重ねが、純の顔をみた途端にどっと波のように押し寄せてきた。
「結斗、お待たせ、帰ろー」
結斗の前に他の出演者と同じように花束を持ってやってきた純を見て、急に寂しくなった。目の前に純がいるのに、急に自分がこの世界にひとりぼっちのような気がした。
それでも、由美子さんの車に乗るまでは、いつも通り、純とくだらない話をして笑っていた。
「今日、客席で初めて結斗の歌聴いたよ、俺も今日はベートーヴェンだったんだけど……結斗?」
突然となりで静かになった結斗を不思議に思った純は、結斗の顔を覗き込む。
運転席では由美子さんも、上手だったよと言ってくれた。
歌ならいつも純の前で歌っていた。親の前でだっていつも好き勝手に歌っていた。
歌えるならなんだっていいと思っていた。でも違った。
一人で歌うのが寂しかった。
あの客席で誰かが自分の歌を聴いていて、そして、他の誰でもない純が、聴いてくれたのに、上の空で歌ってしまったことが悔しかった。
無論、子供の結斗には、それほど、複雑な感情なんてなくて、とにかく泣きたかった。
疲れと心細さが、ピークまできていた結斗は、ぼろぼろと涙が溢れてくるのを自分で止められなかった。
気付いたときには、純の胸にすがりついていた。
うんと小さいときは抜きにしても、由美子さんの前でも、純の前でも取り乱すくらいにべしょべしょに泣いたのは久しぶりだった。
「結斗、どうしたの」
「……つかれた」
そのかすかな声は、多分純にしか聞こえていない。運転席にいた由美子さんには、突然泣き出した結斗がミラー越しにしか見えていなかったと思う。
純は驚いていたけれど、しがみ付いてきた結斗を引き離したりしないで好きに泣かせてくれた。
自分の心の声を説明する言葉が見つからなくて、一番近い感情が「疲れた」だった。ピアノの発表会でいい服を着ていた純の服に涙と、なにも食べてないから胃液を吐いて汚したけれど、純はなにも言わずに背中と頭を撫でて手を握ってくれた。
「母さん、結斗、調子悪いみたい」
「まぁ大変。亜希ちゃん迎えに来るまでうちで寝たらいいよ」
純の家につくと、自分の家じゃないのに、自分の家みたいに由美子さんと純に世話されて、あったかいココアを飲んだあたりから、よく分からない不安は消えていた。
そして、もう大丈夫だって言ったのに、純に手を引かれて地下の純の部屋のベッドに押し込められた。
「ねぇ結斗、歌嫌いになった?」
「……分かんない」
「今日さ、会場のピアノすごい良かった。明るくて、楽しい音」
結斗は布団から顔を出してピアノの前に座る純を見た。
「ねぇ……俺、今日純の演奏聴けなかったから、弾いてよ」
「トルコ行進曲?」
「くるみ割り人形」
「ピアノじゃなくてオケじゃん、もういっぱい聴いたのに?」
「……純のがいい、純の音が聴きたい」
「うん、いいよ」
純は、くるみ割り人形の序曲を少し小さな音で弾き始める。自分に気を使っているのだとわかった。
あんなに耳がタコになるくらい聴いて、もうクリスマスに『くるみ割り人形』なんてうんざりだったのに、純が弾くとちゃんと舞台袖で聴いた時と同じワクワクとドキドキが蘇ってきた。
耳を擘くような、あの嫌な音が消えていった。
演奏はバレエの演目順に続き、二部に聴いた『ロシアの踊り』で、結斗はすっかり元気になって純の横に座って歌いながら笑いあっていた。
単純だったからクリスマスイブの苦しかった思い出は、純のピアノで楽しい思い出になったし、なにもなければ、来年も結斗は嫌な気持ちを抱えながら習い事を続けていた。
ただ、由美子さんがあの日、何か伝えたのかクソババアが野生の勘で何かを感じたのかは分からないが、結斗は次の年、習い事を辞めて、シニアクラスに上がる入団試験を受けなかった。
多分、あのままだと、音楽が嫌いになっていた。だから、母の判断は正しかったのかもしれない。
一応、習いたいと言ったのは、結斗だったから、母は「辞めなさい」ではなく「この先プロになるつもり?」という訊き方をした。
こういうところが、自分の家を会社みたいに感じる部分だ。
クラスが上がれば海外への演奏旅行もあった。それに関連するお金や、親のサポートも必要になるという旨の家族会議。
多分、結斗が続けると言えば、親も協力してくれただろうし、本気でやるというなら、マンションを引っ越して、ピアノも買ってレッスンへ行かせてくれたかもしれない。けれど結斗は、母親に言われて初めてこの先、自分がどうしたいのかということがわかった。
ただ楽しく歌っていたいだけの自分が、この先、違和感を感じながら、あの場所にいる必要がないということ。
――歌なら、どこでも歌えるのに、どうして結斗は、習い事を続けたいのか、お母さんに説明できる?
結局「好き」以外に続ける明確な理由も目的も説明出来なかった結斗は、納得して自分から退団届けを提出した。
結斗は、クリスマスに、あまりいい思い出がないけれど、全部が悪い思い出にならなかったのは、やっぱり純が隣にいたからだと思っている。
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