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光仁と文丸 / 浄円
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光仁(こうじん)は、ある寺の僧である。
僧といってもまだ若く、様々の経験も浅いので、自らが主体となって法事を執り行うことはまずない。今の光仁の仕事というともっぱら、修行か雑用か掃除か、捨て子の面倒を見ることである。
一息吐いて光仁が腰を下ろすのは、境内の隅の木陰である。季節は初夏、見上げれば青々としたもみじの葉が、陽光を受けて透けて光っているようだ。晴れた日は、光仁はここへ腰掛けてそれを眺めているのが好きであった。
と。ざっざっと誰かがこちらへ駆けてくる足音がして、光仁はそちらを見やった。
「光仁様、」
にこにこと嬉しげに名を呼んで来るのは、文丸(ふみまる)である。この間の正月で齢が十になった童で、今この寺にいる子の中で一番、光仁に懐いている。右目の下に黒子のあるのが特徴的な子であった。
「おお、ふみ。もう稽古は区切りがついたのかい」
「はい。文丸も一緒に休憩していいですか?」
「ああ。おいで」
言うと、文丸が隣に腰を下ろしてきた。恐らくつい今しがたまで薙刀の稽古にあたっていた彼は、全体的に砂埃に塗れて少し汚れている。
「あの」
文丸が、話し出した。その声が固く、どことなくそわそわしているように思え、光仁は何だろうかと思った。「うん?」と応えながら、他の子に何かされたのか、稽古をつけている僧兵に叱られでもしたか、などと光仁が勘繰っていると、
「僧はどうして、結婚ができないのですか?」
「え、」
そう来るとは思わず、光仁は頓狂な声を上げた。刹那真っ白になる頭であったが、真摯にこちらを見つめる瞳に我に帰る。わけは分からないが、こちらも相応に真剣に答えてやった方がよさそうだ。
「それは……女人が近くにいると、どうしてもいらぬ心が湧いてくるからだ。吾(あ)としてはそれが必ずしも悪いことだとは思わぬが、我ら僧のように悟りの道を行く者にとっては、障りになるのさ」
「相手が女人ではなく男でも駄目なのですか?」
「、」
光仁の頭は今度こそ、固まってしまう。そもそも男女でなくては結婚はできないよ、障りになる感情は、人によっては異性かどうかは関係ないから……などと色々、言いたいことはある、けれど……。
「ふ……ふみ。どうしてそんなことを聞く。この寺の誰かを好きにでもなったかい」
……頷く、文丸。
では誰を好きなのかとは、聞こうとしたが、その必要はなかった。文丸の方が言ってきたからである。
「光仁様を」
え?
「文丸は光仁様と、結婚しとうございます。大人になっても一緒にいたくて……」
「ふみ、」
と口に出したきり、光仁の言葉は続かない。何と答えればいいのか、分からなかったから。
童の言うことだからと、適当に答えることもできた。しかしそれをしなかったのは、童なりに文丸が本気なのだと分かったからである。そして自分の方も、文丸にそんな想いを抱いたことはなかったにしろ、寺の子の中でいっとう仲良くしているし確かに可愛いとも思っていて、一緒になれるとしたらなってもいいかも知れないと、ほんの一分(いちぶ)ほどは思ったからで……。
「そう……さ、なあ。しかし結婚は、吾やふみのような者は二重の意味で無理ぞ。そもそも結婚は男女でなくてはできぬし、僧である限り、たとえ相手が男であろうと、誰かと一緒になることはできぬからな」
「そうですか……」
途端にしゅんとなる文丸に、光仁の胸は痛んで仕方ない。どうにか元気を取り戻してはくれないかと、咄嗟に出た言葉が、
「だ、だが。お前が大きくなって、まだ吾を好いてくれているなら、一緒になってもいい。結婚はできぬが、結婚など、所詮は人の定めたもの。そんなものせぬとて、共に暮らすことはできるゆえ」
「まことですか!!」
打って変わって、文丸が明るい表情になった。実際のところ、あと何年も経てば自分のことなど忘れているだろうと思ったから口にした言葉であるが、一応、「ああ」と答える他ない。
「わあ……。嬉しい。嬉しいな」
そのときの、文丸の笑顔。これまで見た中で、一番に眩しかった。
*****
それから年月が経って、光仁は一人、とある山中にいた。
文丸に告白をされた後、程なくして別の寺へ移ることが決まり、その寺で何年か過ごした後に、思うところあって旅に出たのであった。
であれば文丸とももう、何年も会っていないのか。息災であれば、今頃は僧兵になって活躍しているだろう。とうに元服も済ませ、剃髪もしてーーー
ーーーまだ、自分のことを好いているのだろうか?
もう幾百、いや幾千幾万回目、己の中で己が呟いたのを、光仁はもはやほぼ無意識に押し込めた。
あの寺を出るのも急に決まり、きちんと文丸に話す間もないまま、来てしまった。大人になれば心も変わるであろうとたかを括ってはいたものの、悲しい思いをさせてしまったろうな、申し訳ないなとか思っているうちに、気がついたら光仁の方が文丸を気にしている次第であった。
ーーーふみに、会いたい。
その執着を捨てたくて山へ入ったのに、ふつふつとそんな思いが上がってきて、噫、自分にはまだまだ修行が足りぬ……、
と。がさがさと、明らかに木々や小さな獣の立てる音ではない音が聞こえた気がして、光仁は立ち止まった。
熊であろうか。なれば、木の上へでも逃げねば。登りやすそうな木にさっと駆け寄り枝に手をかけると、
「お待ちください!」
息を切らした男の声が聞こえ、光仁は手を止めた。驚いて振り向くと、一人の若い僧がぜいぜいと肩で息をしながらこちらへ歩いてくるところであった。
「あの、光仁様で、いらっしゃいますか」
「あ、ああ……。そなたは……?」
その僧は明らかにこちらを知っているふうであるが、光仁の中に彼の記憶はない。僧が息を整え、「あ、あは……、」光仁の返答に何やら嬉しげな反応をした後はっとして、
「申し遅れまして、申し訳ございません。私は、文丸にございます」
「! ふみ!?」
これまた驚いて、光仁は文丸だと名乗った僧の顔をまじまじと見た。
正直なところあの頃の面影は、言われてみればあるような気がするといった感じで、記憶の中の文丸と合致はしない。声も体格も大人のそれに変わっているから、本当にあの子なのかと判断に苦しむがーーー僧の右目の下に黒子を見つけ、光仁は「ふみだ……」と呟くこととなっていた。となれば、光仁も段々と思い出してくる。彼がこちらへ遣る視線。あの子もそうだった。きらきらと瞳を輝かせ、自分が視界に入っただけで嬉しさの滲み出るような……。
「はい。今は、名を浄円(じょうえん)と申します。突然に申し訳ございませんでした。……覚えて、いらっしゃいますか?」
「ああ、ああ。覚えているよ……。いや、もうすっかりと立派になって」
言いながら、光仁の胸にも湧き上がる喜び。抑えたくとも、抑えられぬほどの。
「しかし、何故かようなところへ」
「その……光仁様をお探ししておりました。人伝いにこの山へ向かったと聞いたものですから」
「無謀なことをする……。山と一言に言っても、どれほど広いと思っている。奇跡的に出会えたからいいものの」
ここで、途切れる会話。
互いが、迷っている。互いに聞きたいことを、聞いてもいいのか。いつ、聞くか。
いや本当は、光仁の方は、わざわざ聞かずとも答えなど分かっている。浄円が夢中で自分を探していた理由を考えれば。
「あの。お願いがあるのですが」
意を決して、といった感じで口火を切ったのは、浄円の方であった。
「、何だね」
「吾を、旅の供にして頂けませんか」
う……。
了承は、できない。なぜならこの旅は文丸へのーーー浄円への執着を、断ち切るためのものだから。
拒否も、できない。光仁も浄円に会えたことを、嬉しく思ってしまっているから。ここで別れれば、もう二度と会うことはないと思うから。そしてそれを、途方もなく悲しいと思うから……。
「……光仁様の居場所を探る中で聞きました、」
黙ってしまった光仁に、浄円が言う。
「光仁様が旅に出られたのは、とある人物への執着を断つためであると」
「………」
「その、とある人物というのは」
吾でございましょうか?
さわさわと、木々の木の葉が風で揺れる音がする。ちちち、と鳥の囀るのが聞こえる。
光仁は、何も言うことができない。今言の葉を発すれば、自分の口は確実に肯定の意を紡いでしまう。
それはーーー許されない。自分は高みを目指したい。そのためにはそういう感情は、あるべきではないから。この期に及んで、認めたくない。
情けなくも未だ言葉を失っている光仁に、浄円の顔が切なげに歪んだ。と思ったらがしりと両肩を掴んできて、光仁はびくりとすることとなった。
「こ……光仁様は真面目で、自分に厳しいお方であるから。吾の問いにすぐにお答えになることができないのも、道理かと思います。ですけれど……吾は、嬉しかった。何年も前に別れた童のことなど、忘れられていて当然、しかしまだ覚えていて欲しい、覚えていてくださるだろうかと……そんなことを思いながら生きてきました。それが、覚えているどころか、忘れたくとも忘れられない存在になれているのなら。吾にとってこれほど嬉しいことはない」
「浄、円……」
「ですからどうか、『そう』思っているのなら、否定、なさらないでください。あなたに心を寄せられて嬉しいと思う人間が、確かにここにいるのですから」
真摯に言われて、脳裏に蘇るのはあの日のこと。あの日もそうだった。こんなふうに真剣な眼差しで好きだと言ってきて、そのとき自分は。
「……吾が、光仁様を好きだと言ったとき。してくれた約束も、覚えておりますか?」
「ああ……」
もちろん。それがなければ、こうして山に入ることはなかったかも知れないほどだから……。
「あのときにああ言ったではないかと責めるつもりは毛頭ございません。けれど吾は、あのときより心が変わったことはございませんから。光仁様がお嫌ではないなら、お側に、置いていただけると……これ以上、幸いなことはなく存じます」
熱意のこもった目が、逃がしてくれない。受け止めよ、受け入れよと、心の中へ直接響かせてくるようで。その熱が光仁の中の何かを解かして、覚悟に変えた気がした。
ーーーそう。逃げては、ならない。
ここで浄円から逃げれば、自分はまた、彼のことを延々と考えながら生きることとなるだろうとは、容易に想像がつく。彼が目の前にいようがいまいが、執着をしてしまうのは同じであるということだ。
それならばここで、しっかりと向き合っておくべきではないか。
本当はずっと知っていた。自分も、彼を好いていること。見たくなかっただけで、何年も前から今まで変わらずに、その気持ちは確かに「在る」のだ。それを認めるときが、来たのではないか……。
「……分かった」
まずは一言発すると、浄円がにわかに顔を明るくした。
「全てお前の言う通りだ、浄円。吾もお前に、心を奪われている。それを何とかしたくて旅にまで出た吾であったが、それではどうにもならないと、今、思い知った。それに純粋に、お前の想いに応えたいという気持ちもある」
「で、では」
「うむ。こんなところまで探しに来てくれて、ありがとう。これを『一緒になる』と言うのかは知れぬが、旅の供になってもいいという申し出、受けさせてもらいたい」
「光仁様……! ああ、ありがとうございます。ありがとうございます」
光仁の肩を離し、胸の前で両手を合わせ、浄円が心から嬉しそうに言った。噛み締めるように「嬉しい。嬉しいな……」と呟く彼の顔は眩しい笑顔、を通り越して、泣き顔であった。
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