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四章 2
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基地内の広い大浴場。ニコライが天界に帰って来た日の夜も、レオはそこにいた。熱い湯に浸かり、疲れを癒そうとする。
病室で別れる時のニコライの寂しげな顔が、何故か頭から離れない。濡れているように見えた淡い青紫色のあの両目。薄い色の唇が、レオ、と動いた。それを、また明日来るからと振り切ってその場を離れてきた。幼児(おさなご)を一人きりで部屋に置いてきたような不安と罪悪感が心にのしかかる。
そう考えると、孤児院でニコライを初めて見た時のことを思い出す。あれはレオが九歳、ニコライが七歳の時だっただろうか。
――あら、レオ君。来ちゃったの? 駄目よ~~。
何人かの保育士が、その子供を囲んでいた。
レオはその日、新しく子供が来たと噂で聞いて、好奇心の旺盛さから一人で探し回っていたのだ。
――それ、今日来た奴か?!
レオは保育士の咎める言葉も聞かずにその子供に近寄った。しかし、その子供は泣いていた。
――ママ…………どこ? ぅう……。
もうすぐ肩に届きそうなくらいの銀髪と、孤児院の庭に咲いていた美女桜(バーベナ)と同じ色の瞳。白く綺麗な幼児に、レオは驚いた。
保育士達は、困り顔でその天使が泣くのを止めようとする。何故彼が両親を失ったのかなんて、レオは知らなかった。
――おいっ! 何で泣くんだよ!
レオは泣いている天使の小さな手を取った。天使は驚いてレオを見上げた。
――ママ……いないの。どこ、行ったの?
――ママ?〝ははおや〟か? いねぇよ。俺はそんなもん知らねぇ!
――え……いない?
幼児が更に泣き出したので、保育士に手を離させられた。
――もう、駄目でしょ? レオ君。ニコライ君怖がっちゃったよ?
――……ニコライ? そいつ、男の子?!
――そうよ?
保育士達に笑われた。
そういえば、その次にニコライに会った時には、もう彼は泣いていなかった。子供らしい無邪気さをあまり感じさせない、無表情な子になっていた。
ニコライが今ほど頑なな男になったのはいつからだろうか。他人と壁を作るような生き方をするのは、その優秀さからなのだろうか――――
「レオ? ……レ~~オ?」
「……ん?」
はっ、と我に返ると、隣にいたディーマが自分を呼んでいた。
「あ……すまん、ぼーっとしてた」
「疲れてんのか? 風呂ん中で呆けてると逆上せるぞ」
「そだな」
いつも以上に疲れた様子のレオを心配に思うディーマ。彼がニコライに会いに行ったことは知っている。それで精神的に疲れることがあったのだろう。
「あいつ、どうだった?」
回りにいる天使達のことを考え、ディーマはあえてニコライの名を言わなかった。
レオは大浴場の天井を仰ぎ見る。
「……最悪」
「それはお前にとって? あいつにとって?」
「両方。これからどうなるんだか」
「ふぅん」
レオの抽象的な表現に、深く話したくはないということを読み取るディーマ。ニコライと離れているときは忘れたい、ということなのだろうか。
「もう出ようぜ」
レオがそう言って立ち上がった。
彼の背中を見上げるディーマ。肩甲骨の辺りにある翼があった痕跡の痣。自分は自分のそれを見たことがないし、レオも自分のそれを見たことがないだろう。
ディーマは彼の痣を見る度に思っていたことがあった。
――他の天使と比べて、少し形が変わっている。
やや縦に細長いのだ。無論、痣は他の部位と同様に固体差のあるものだが、レオはそれが顕著だ。
「なあ、レオ」
「ん?」
振り替えるレオに、立ち上がりながら、ディーマ。
「お前の翼痕ってちょっと変わってるよな」
何となく、今日は言ってみたくなった。それだけでこれといった意味は無かった。
しかし、一瞬だけレオの顔に驚愕と険が見えた。
「そう……なのか?」
「ああ。なんか、縦に長い」
「……知らなかった」
「だろうな」
レオの神妙な反応を若干不思議に思いながらも、ディーマは彼と一緒に浴場を出た。
昼時、士官学校の食堂は混みあっていた。
長い銀髪を項で一つに纏めた少年、ニコライはそこで昼食を取っていた。左右の席には同級生達が座っている。
「ああ?! もう一回言ってみやがれ!」
喧噪の中、一際大きな男の声がした。その聞き覚えある低い声に、ニコライはそちらを振り向く。
そこには、ウェーブした短い黒髪のレオと、その同級生らしい少年がいた。その周りを数人の少年が取り囲んでいる。
レオと対峙する少年が馬鹿にしたように笑う。
「いつもいつも向きになりやがって。基礎神通力もマトモに扱えねぇくせに」
「はあっ?! 真剣に戦闘訓練して何が悪ぃってんだよ!」
「乱暴なんだよ、てめぇは。このクリクリパーマ! 灰かぶり!」
クリクリパーマも灰かぶりもレオの髪を揶揄する言葉だった。
「んだと、てめぇ!」
遂に、レオの固められた拳が振り上げられた。彼の拳を避けられる者など滅多にいない。しかし、
「お止めなさい」
声変わり前の少年の声だった。彼の腕を、ニコライが横から片手で掴んでいた。
目を見開くレオ。
「ニーカ……?!」
「こんなことで手を上げてはいけません」
彼の腕を掴んだまま、ニコライはもう一人の少年の方を見る。
「先輩、あなたも謝るべきです。レオは訓練には真面目に取り組んでいるでしょう」
「何だ、お前……」
「おい、止めろ!」
少年がニコライに向かって手をあげようとしたのを、周囲にいた彼の同級生達が止める。
「そいつ、フォン・ヴィノクールだ!」
「止めとけ、手ぇ出すな!」
同級生達の言葉に、少年は振り上げた手を下げた。ニコライが優秀で、先輩達を凌ぐ実力者だということは誰もが知っていた。
「行こうぜ」
「あ、ああ……」
少年達はレオを睨み付けてからその場を去った。
レオの腕を解放したニコライは、彼に疎ましげに見下ろされる。
「俺のすることに口出すんじゃねぇよ」
「……先に手を出せば責められるのはあなたですよ」
「うっせぇ」
そう言うレオの頭を後ろから小突く少年がいた。
「そりゃねぇだろ、レオ」
「ダニロフ先輩!」
ウラジミール・ダニロフ――レオより一つ歳上の先輩、ディーマだ。
「ヴィノクールは偉いな、ちゃんとレオを止めてくれて」
「いえ」
こちらに注目していた周囲の視線が散っていく。レオをいとも簡単に止めた美少年、ニコライを好奇の目で見る者もいた。
士官学校の時、ニコライ、レオ、ディーマの三人の関係は、先輩と後輩だった。
あれから三人はレキア東方基地、レキア東方旅団に入った。そして三人の関係は変わっていった。
十代の楽しかった懐旧に浸ると、同時に憂鬱な思いも膨らむ。
ニコライは病室のベッドの中で手を握りしめた。
もう夜が明けたが、殆ど眠ることができなかった。目を瞑ると、自分を監禁した悪魔との記憶が眼窩に浮かび上がり、途方もない恐怖と憂愁に襲われるのだ。吐き気すらも催し、全身の切り傷が疼痛を起こす。
眠りたかったが、眠ることが出来なかった。頭痛と吐き気がする。何度も何度も涙を流し、溜め息を吐いたが、それで心を癒すことはできなかった。
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