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七章 1
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明け方、空が白み始めた頃。ナターシャは人間界の山の麓にいた。
手袋をした両手を更に擦り合わせる。辺りには雪が積もり、厚手の外套を身に纏っていてもとても寒い。仕方なくナターシャは神通力で暖気を薄く纏った。彼女が踏みしめる雪が溶けやすくなる。綺麗な雪の上にくっきりと足跡を刻んでいく。
行き先があるのか無いのか、ふらふらと付近を歩くナターシャ。
ふと、自分の足音の他にもう一つの足音を耳にし、歩みを止めた。感じるのは神通力の気配。天使だ。
「誰です?」
相手がそう問いかけてきた。それは男の声だ。
怪訝に思いながらも振り返ると、そこにいた男にナターシャは目を丸くする。
「モローゾフ中尉……?」
濃褐色の髪に鷲鼻で彫りの深い顔立ち、琥珀色の双眸。中肉中背でどこか品のある服を身に纏った男。
そう、いたのはヴァシリイ・フォン・モローゾフ————ヴァーシャただ一人だった。彼はレオやディーマと一緒に行動していたはずだが、何故一人でいるのだろう。
ヴァーシャはナターシャに対していつもの柔らかい表情を作らず、警戒しているようだった。
「私を知っているのですか? レキア東方軍基地の方で?」
そこでナターシャはヴァーシャが自分を知らないのだと理解する。彼は優秀な軍人として有名だったが、ナターシャはレキア東方軍基地のただの看護師。彼が知らなくて当然だ。
ナターシャは彼の警戒を解こうと笑顔を作る。
「ええ。レキア東方軍基地で看護師をしていたナターリヤ・クリベークですわ。ヴィノクール特務曹長のことも診ていました」
彼女の言葉に、モローゾフの表情が少し柔らかくなる。
「それは……すみません、存じませんでした。しかし何故こんなところに?」
「中尉達と同じです。ヴィノクール特務曹長を助けるために軍を辞めて来たんです」
「えっ?」
ヴァーシャは信じられないと言いたげに目を見開く。ニコライとほとんど関わりのなかったはずの彼女が、軍を辞めてまでもここに来るなんて。
彼女は彼に一歩近づく。
「私はヴィノクール特務曹長がミハイルに連れて行かれるところを見ていました。クルツ伍長が必死に止めようとしていたのに……。私、どうしてもあなた方の手伝いがしたくて」
「はあ……それで、ここに? よく場所がわかりましたね。ミハイルの目隠しの術も見破ったのですか?」
「ミハイルの居場所を知ってる兵士くらいたくさんいましたわ。近くまで来てあなた方の神通力の気配を追っていったら目隠しの術も分かりました」
そう言うナターシャに、どこか釈然としない様子のヴァーシャ。まだ警戒心はあるようだ。
だがナターシャはニコニコとしている。
「それよりどうしてモローゾフ中尉はお一人でここに? クルツ伍長とダニロフ軍曹は一緒にいるみたいですけれど」
彼女は離れたところにいるレオとディーマの神通力の気配も察知している。その事にヴァーシャは更に怪訝そうな顔をした。
「あなたの気配を感じて来たんです。二人はまだ寝ている……、あなた本当にただの看護師ですか? 二人の気配まで分かるなんて。しかも暖気を纏ってますね? そんな神通力を使える看護師なんてあまりいないでしょう」
軍人だからか、そういう性質なのか、ヴァーシャは一般人より警戒心の強い男だ。ナターシャは彼と話すうちにそれがわかってきた。
一拍おいて、彼女は口を開ける。
「エゴール・クリベーク元少尉をご存知で?」
ヴァーシャは彼女が口にした名前に眉を眉間に寄せた。
「……ええ、よく知っていますよ。先の大戦中に悪魔に暴行され、軍を辞めた方です。あれは私がレキア東方軍基地に来たばかりの頃でした」
「私はナターリヤ・クリベーク……彼は私の父です。神通力の扱い方は父に教わりましたわ」
ナターシャの告白に、ヴァーシャはまた驚いた顔をする。逡巡して、曖昧な笑みを見せた。
「そうでしたか。クリベーク少尉の娘さん……確かに似ていらっしゃる。神通力の扱いに関しては、クリベーク少尉より随分器用なようですが」
「ふふ……はい。まだ私が怪しいようでしたらクルツ伍長が私のことを知っています。伍長にお聞きください」
「ああ、いえ。すみませんでした。二人のところに戻ります。一緒に来ますか?」
急に普段の優しさを見せはじめたヴァーシャ。クリベーク元少尉と親しかったのかも知れない。
ナターシャは少し不思議に思いながらも彼に近づく。
「はい、よろしければご一緒させてください。少しですが情報を仕入れてきたんです」
「情報?」
二人は一緒に歩き始めた。ヴァーシャも暖気を纏っているらしく、二人の周りだけが僅かに暖かい。
「リース大尉と少しお話をしたんです。それでミハイルのことを教えていただきました。あと、この本も」
ナターシャは持っていたバッグからリースに貰った方を出した。
その魔力が天使の体に及ぼす影響についての本に目を落とすヴァーシャ。
「ああ、そのことですか……」
「モローゾフ中尉もご存知で?」
「いえ、詳しくは……ミハイルのこともリース大尉ほど知らないと思います。当時私は彼のように前線にいたわけではありませんでしたから」
「そうなんですか。八年前は軍に? それとも精神科医をなさっていたんですか?」
「軍にいましたよ。私は確かに医者としての知識はありますがそれを本職にしていたのは二十五歳の時に一年だけで……。大戦が始まった直後に半年間、訓練を受けて、軍に入りました。レキア東方軍基地に来たのはその一年後です」
「大戦が終わった年にあの基地に来たんですね。でもどうして基地を移動することに?」
ナターシャは勿論ヴァーシャの過去を知らない。仲間に強姦された過去を知っているのは皮肉にもミハイルただ一人だ。ヴァーシャは蘇りそうになる嫌な記憶を意識の外に追いやって、表情を変えずに言う。
「大戦中でしたから、人数配分の関係で配属が変わるのはよくあることでしたよ」
「ああ、なるほど」
当時をよく知らないナターシャは簡単に納得した。ヴァーシャはこの質問を大抵その理由で通している。
林の奥に古い廃墟が見えてきた。ヴァーシャがそれを指差す。
「二人はあそこにいます。一昨日からあそこに泊まっていまして」
「あんなところに二日も? 凄いですね」
「男の元軍人三人ですからどうってことありません。そうだ、クリベークさん。私はもう中尉ではありませんよ」
「あっ、すみません。そうでしたね、モローゾフ……さん?」
少し戸惑うようにそう返したナターシャに、ヴァーシャは微笑みかけた。そして二人は廃墟へと入っていた。
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