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八章 4
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ミハイルは、上半身を起した。
僅かに寝具が軋み、素肌が冷たい空気に晒される。
隣で寝ている天使、ニコライ。今は長い銀髪がその顔を隠している。彼を若菜色の瞳で、じっと見つめるミハイル。彼の顔を隠す銀髪を手で払った。現れたその顔はどこか苦しげなものに見える。
「また彼の夢かい? コーリャ」
眠っているニコライに、独白するミハイル。
「何で彼のことは忘れられないんだい? 君は昔から、もっと大切な記憶を自分の中に封じ込めているじゃないか」
優しく天使の長い髪を撫でた。
「俺もまだ触れていない君のその記憶、大切なんでしょ? いや……怖いのかな?」
憂いと虚無感を含んだミハイルの瞳が、天使の体に視線を這わせる。
「レオ君のことは忘れなよ。そうした方が楽になる。俺が君に彼を近づけないようにするからさ」
体の右側を下にして寝ているニコライ。背中の赤い痣——翼痕が見える。悪魔であるミハイルのそれは、ニコライのものよりもやや縦に長い。
「俺達がもしヒトだったのなら……こんなに俺が君を苦しめることはなかったのかもね」
ニコライの髪を撫でていたミハイルの手が、そこを離れる。
「ねぇ、君と出会った次の日、俺は君に俺の小さい頃の話をしたね。…………それも、忘れちゃったかな」
ミハイルの声が震える。ニコライに触れることをやめた手を握りしめ、自分の膝を抱えた。膝に自分の額を押し付ける。
「……お母さんっ…………」
呻くように、彼は愛する人を呼んだ。
「分かってるさ……コーリャは、違う。あの人じゃ、ない……」
泣き出しそうな声だった。
隣に寝る者がいながら、彼には埋められない孤独があった。遠い昔、自ら消してしまった温もりがあった。
もう手に入ることのないモノを、彼は望んでいた。
ミハイルは毛布の中に潜り込み、こちらに向けられたニコライの背中に額を押し当てた。
「コーリャ…………君に俺の気持ちはわからないだろうけれど、知ってほしいんだよ……」
ミハイルの額とニコライの背中の密着した部分が、暫時、薄紫色の光を発した。
「だから、見てよ」
闇の魔力が、発せられた。
————ここはどこだ?
私は見知らぬ家の中にいる。家の雰囲気は天界とは違うが、明らかに人間界にはない神通力や魔力が生活の中に組み込まれていそうな家だ。ということは魔界だろうか。
目の前には夫婦らしき男女と、その子供らしき小さな男の子。その幼児は椅子に座り、両親の姿をじっと見つめている。短い金髪にやや垂れ目でくっきりとした緑色の瞳の、大変可愛らしい男の子。
————ミハイル?
何故かその幼児がミハイルに思えた。幼くして随分と整った綺麗な顔が、あの美しい悪魔を思わせるのか。
ともあれ、彼らは私のことに気づいていない。見えていないのだろうか。私も音は一切聞こえない。
男女は二人で台所に立ち、遠くからそれを眺める幼児。両親を見る彼の瞳は、どこか淋しげだ。否、淋しいだけだろうか。その無表情からはあまり感情を読み取れない。
それにしても彼の両親はとても仲が良い。見るからにボディタッチが多い。夫婦仲が良いことは悪いことではないと言うが。と、彼の両親がキスをした。途端、幼児の目が一瞬だけ見開かれた。
嗚呼、違う。淋しいだけではなかったのか。彼は自分の父親に嫉妬している。両親を早くに亡くした私にはよく分からないが、幼少期の男児にはありがちな事かも知れない。
唐突に、椅子から立ち上がった男児。父親を無表情のまま見上げ、両親に近づいていく。
両親が彼に気づいた。二人は彼に何か訪ねているが、聞こえない。おそらく「どうしたの?」と彼に聞いているのだと思う。
少年は何も応えずに、真っ直ぐに父親を見上げる。そしてその小さな唇を動かした。
何と言ったのかはわからない。
刹那、父親から炎が吹き出した。
熱い、熱い、青色の劫火が、一瞬にして男を燃やした。
今まで嗅覚も働いていなかったのに、肉を燃やし血液が蒸発した臭いが、むわっと押し寄せた。男は一瞬で、骨と灰になったのだ。
真横で夫を消された妻が、目を見開いてその夫だったモノを凝視する。ガクガクと体を震わせ、手で口を押さえ、頭を僅かに揺らす。
そして遂に膝を折り、夫だったモノに手を伸ばす。見開かれた両眼からは涙すらも出ていない。何か言いながら、夫だったモノに触れようとした。
『これで二人きりだね、お母さん』
始めて声が聞こえた。それは男児の声だった。
夫だったモノに手を伸ばしていた母親が彼の方を見る。
彼は笑っていた。とても愛らしい、綺麗な笑顔を浮かべていた。無邪気過ぎるくらいの、笑顔。
母親は凄まじく険しい表情を彼に向けた。眉を眉間に寄せ、狼のように鼻に皺を作った。
何か叫んだ母親。彼女の声は聞こえない。何か喚きながら彼女は少年に向かって手を振り上げた。
咄嗟だったのだろうか。驚愕の表情を浮かべた彼は、頭の前で腕をクロスさせた。
半透明で檸檬色の障壁(バリア)が現れ、魔力を込めた母親の拳がそれに当たった。
恐らく凄い音がして、母親も叫び声をあげたのだろう。母親の体に電流が流れたのが見えた。バチバチと音が聞こえてきそうだった。
母親は弾き飛ばされ、再び肉が焼け、血液が蒸発する臭いがした。強い電流を体に流され、母親は焼けたのだ。
真っ黒に焦げた肉塊と化した女。父親と違って、まだ悪魔だったのだと分かるくらいの形は保っている。
自ら殺した母親を、呆然として見下ろす男児。若菜色の双眸は限界まで開かれている。
私はもう理解した。この幼い男児はミハイルだ。そしてこれはミハイルの記憶。覚えている。私はこの話をミハイルの口から聞かされたことがある。一体いつ聞いたのかは覚えていないが、確かに聞いたのだ。
両親を殺してしまった少年、ミハイル。彼は床に崩れ落ち、焦げた母親の肉塊に手を伸ばした。母親が父親だったモノにそうしたように。ミハイルは何か譫言のように呟きながら、異臭を放つ母親だったモノに触れ、直ぐに手を引っ込めた。
遂にミハイルの両目から涙が溢れた。何かを叫び、自分の両手を何度も床に叩きつける。
溢れたものは涙だけではなかった。彼が自分の口を手で押さえた瞬間、そこから胃の中の物が溢れ出た。吐瀉物がボタボタと床に落ちる。
痛々しい少年の姿。とても今のミハイルからは考えられない。
彼は母親を、殺したくなんかなかったのだ。父親のことも、幼くしてあんなに強大な力を持っていなければ殺そうとなんか思わなかっただろう。
ミハイルは罪深く、可哀想な悪魔だ。彼は最愛の者、母親を殺してしまった。彼の心が満たされることなど、もう無いのだろう。
そして彼が私にこんなにも執着するのは、私の顔がが彼の母親の顔に似ているから。彼自身がそう言ったのだ。確かに彼の母親は、私と同じ長い銀髪に淡い青紫色の瞳という、少し特殊な髪と目の色をしていた。そして私はやや女性的な顔立ちだと言われる。
彼は私を愛しているのか——もしかしたら違うのかも知れない。それでも私は彼を愛しているし、彼も私を離しはしない。
これでも良い。私は彼といたい。
たとえ何を思い出せなくても。
今の私が偽りであったとしても————
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