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「師匠」
「あ?」
師匠は、片膝を立てて机の色が透けるほど薄い紙にガリガリと絵を描いていた。もう片方の膝は激しい貧乏ゆすりをしている。
紙を抱えるように描いている後ろ姿を見ていると達磨に似ている。
呼び止められても、手も顔も上げない。瓶底のようなサイズの合っていない眼鏡のずれを頻繁に治しながら、猛烈な速さで絵柄を埋めていく。
「あの…」
「早く言え、こっちは忙しいんだ」
集中して絵柄を仕上げているため、長く時間を割いていられない。肩と腕に力が入っているのは見ていれば分かる。
奥歯を噛み締めて、己の頭の中にある客の要望と自分の長年の力量の間にあるイメージが、霧の中に消えないうちに早く写生しなければならない。ペン先の一瞬の迷いが、さらなる迷いを生じで、やがて深い迷宮へ入ってしまう。
「…」
すると、師匠は手を止めた。
絵柄が完成…いや、まだ中途だ。
「お前ぇ」
師匠は、眉間の皺を濃く、鼻先に眼鏡がずれたまま振り向く。
いっそ何か危ない薬でもキメているかのような虚さもありながら、眼光は鋭く白目は濁っている。
依頼人の頭の中にある空想の生き物を己の中の神仏と融合させる作業中、共通の言語を介して、共有された架空の存在がまだ鮮明に頭の中に存在している間に形にする。それは毎瞬で変化していくため、今この瞬間でしか描けないもので、時が進むほど、歪んでいく。疑念を抱いた瞬間、滑落するようにドツボにハマっていく。最初の鮮明で、クリアなイメージと純粋な感情を保ちながらでないと、沸々と生まれた負の感情によって劣化してしまう。
鮮度の正しいままを保ちながら、素早く書き上げるのが師匠のやり方だ。だから、途中で集中力が途切れるような、何かが嫌いなのだ。それが尿意だったとしても…
「俺に喧嘩ぁ売ってんのか?あぁ?」
己のものではない、他人からの干渉によって邪魔された師匠は殊更不機嫌だった。それでも一応言葉を待ってくれる。
「えっと、ただい…」
師匠が苛立っているのをみるのも好きだ。
なぜかといえば師匠の気が立っている時は、師匠の中の己と繋がっている時だからだ。自分でも、意識していない深淵の自己とのつながり。それが何者にも汚されていない真の己との対峙になる。想像したものと己の技術の間で精神が摩耗していく苛立ち。気持ちを昂らせないと、己の力不足に食われて死ぬ。それは幾つになっても、隣の生垣が青いのと一緒だ。それは過去の何かとの戦いで、常に勝ち続けなければならないことへの強い意気込みゆえ、夜叉にも羅刹にも等しい。
「うっせぇ!だあってろ!」
どっか行けとか、とっとと失せろとは言われない。
静かにしていればそれでいい。
この人はオブラートなんていう高度な気を使えるような器用な人間ではないが、職人としての師匠は世界一かっこいいと思う。
師匠は、こめかみに青筋を何個かプラスして激らせると、また机に向かってガリガリと絵柄を描き始めた。先ほどよりも貧乏ゆすりが激しくなる。
師匠の描いている絵は客の体に彫る絵で、つまり刺青。師匠はこの界隈でかなり有名な人で顧客も多い。人を選ばず仕事を引き受けるからかもしれない。
師匠の絵は、男の彫り師にしては手癖が少なく繊細だ。師匠の絵柄を気に入って、総柄で仕上げる人を随分と見てきた。ほかにも、元々彫ってる柄の上から師匠の絵に変える人もいるほど信頼されている。
ちなみに今、依頼されている絵柄を見る限り、右側の胸割りの五部袖くらいの長さで、絵柄は牡丹と唐獅子を描いるようだ。
「…ふぅ」
師匠の肩の力が抜ける。
小さな息と共に紙の上の塵を飛ばして背を伸ばす。五部袖に切り取られ、複雑に継ぎはぎにされた紙がバラバラにならないように目の前のボロボロのコルクボードに画鋲で止める。
背の低い師匠は、必ず立ち上がって1歩下がってその絵柄を数秒見つめる。フレームの歪んだ瓶底眼鏡越し、その横顔のほんの隙間から見える師匠のキラキラした目が大好きだ。
「よし」
頷いた師匠は、絵柄から視線を逸らす。
ついでに眼鏡を外してこちらを見る。充血した瞳に長いまつ毛。
使い込まれて自然のニスがかった机に、瓶底眼鏡が一度置いて重心がずれてまた動いた音がした。
「師匠、お疲れ様です」
ニコッと微笑むと、師匠は先ほどの般若か不動明王のような形相からは一変して普通のどこにでもいる背中の丸まった中年のおっさんの表情をしていた。
「…おお」
神経が過敏になって怒鳴っている師匠も好きだし、毒気が抜けた今の師匠を見るのも好きだ。その温度差を見るのももちろん。師匠の仕事に一度蹴りがついてしまえば、どやされることもない。
どやされる時は師匠の職人としての真の姿なので、師匠の良いところを誰にも邪魔されることなく眺められる絶好の時間だから、惜しむことも反省する事もしない。
「帰ってたのか」
脱ぎ捨てていた甚平を拾って着なおす。
師匠は作業をしていると大体上裸になっている。いつもの癖で、最初は着ているものの袖とか、肌にあたる布とか鬱陶しくなって次第に着崩れていって仕上がる頃には裸になっていることが多い。総柄を描いているときなんて、全裸か褌姿の時もある。
そんなに過敏に気にするんだったら、先に眼鏡を直したほうがいいんじゃないかと思う。
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