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追い詰められて
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「ど、どうしたの?」僕がギョッとして聞くと、マフィン君は笑いながら「いえ、ロビンさんに僕という人間は全く必要ないんだなってことが、今はっきり分かったんです」と言った。
「それなのにロビンさんはお義理で僕を慰めてくれるでしょう? それがおかしくて、おかしくて」
「そ、そんなことないよ?!」話についていけない。
「嫌だなあ、それはロビンさんが一番分かっているはずですよ。ロビンさんは本当に本当に、ホームズさんがお好きなんですね!」
は?
まるで雷が落ちたかのような凄まじい衝撃が僕の脳から背筋を駆け抜けた。ちょっと待った。何故だ。どうして今、あいつの名前が出て来るんだ?
シャーロック・ホームズ……彼はアイリッシュ・マフィアの殺し屋だ。今は僕と同じようにこの下宿で一般人のふりをしながら暮らしているけれど、普段は裏社会の地獄を卓越した自身の才知と強さと狂気だけを頼りに潜り抜けている男なのだ。それを知る者は彼のことを「死神だ」と言うだろう。艶やかな黒髪に火星のように燃える瞳を持った死神だと。そうだ。それは正しい。「青い瞳の悪魔」と呼ばれた僕だからこそ断言出来る。
僕にとって彼は、生涯のライバルだ。それ以外はない。確かに似ている部分はある。通じる部分はある。でも、僕らはこの業界で生きるために何度も互いに殺し合って来た。ありったけの憎悪を込めて。
偶然この下宿で再会してからもそれは変わらなかった。もう何度も戦っている。互いに一般人を演じなきゃいけないと言うのにだ。
彼を前にすると、僕はどうしても心を抑えられない。気が休まらない。どんなに似ていても僕らは敵同士。決して相容れることはない。
まあそれをマフィン君は知らないのだけど、何てことを言うんだろう……。
「だって、ロビンさんの条件に当てはまるのはホームズさんしかいないじゃないですか。いつも喧嘩してますし。それでいて仲良さげですし」
「仲良さげ?! いやいやそれは違うから、僕は本当にシャーロックが嫌いだから!」
「そうは見えませんよ。因みに、今の会話は全部録音してましたから。折を見てホームズさんにも聞いてもらおうと思います。ええ、聞いてもらいますとも。ロビンさんのためにもね。それでは」
呆気に取られる僕を尻目に、マフィン君はくるりときびすを返し、すたすたと歩き去った。僕は一人冷たい廊下に取り残されてしまった。
それから、戦々恐々の日々が始まった。
マフィン君はどうしてもその録音をシャーロックに聞かせると言って聞かない。しかも僕を苦しませるためなのか、なかなかそれを実行せず、ワザと時間をかけているように見える。
何度か懐柔しようとしたけれど、無駄だった。
例えば僕は、いつもマフィン君が怖がっている殺人人形のマリー(僕が趣味で作り、殲滅任務の際の相棒にしてる人形のこと。よく笑うし可愛いよ。普段は下宿を徘徊してるんだ)を、録音の破棄と引き換えに解体してあげようかと持ちかけてみた。その時のマフィン君の返事は今でも忘れられない。
「ロビンさん、ダメです。マリーはロビンさんの大切な人形なのでしょう? だからそんなこと絶対にしないでください。僕は大好きなロビンさんに幸せでいてもらいたいんです」
僕は次に、マフィン君とのお付き合いを前向きに考えてみると言ってみた。「告白された瞬間は衝撃だったけれど、よく考えてみたら君はいい子だし、そう悪くないかもと思う」とね。すると、マフィン君の返事はこうだ。
「ロビンさん。僕は偽りの愛なんて欲しくないんですよ」
正論過ぎて、全く反論出来なかった。
ただ、僕はどうしてもあの会話をシャーロックに聞かれたくなかった。いや、自分の言葉に落ち度はないと思っている。だけど、あの変なモードのマフィン君が、あの録音と共にあることないことをシャーロックに告げたとしたらどうなるだろう?
彼は確実に面白がる。そしてそれをネタに、バックのマフィア諸君と一騒ぎ起こすんだ。僕の名声を地に堕とすために。
いや、僕にしてみたら名声なんてどうでも良い。問題は、騒ぎの中心人物にされるってことだ。それだけは絶対に避けたい。「注目されること」はイコール「仕事がやりにくくなること」だし、それはイコール「死」でもあるから面倒臭いんだ。
まあ彼にとってこんなに楽しい事はないだろう。凄腕の秘密諜報員がくだらないスキャンダルで破滅する。それはとても素敵な喜劇だものね。あーあ、逆の立場なら僕がそうしてやるのに。
なになに、「事実無根なら何をどう騒がれても大丈夫だろう」って?
分かってないな。この手の話は「それらしく見えた」ってだけで効果は絶大なんだ。そもそも僕ら人間は、ニュースを娯楽の一部と捉える節がある。それが真実がどうかなんて関係ない。誰も気にしないし考えないだろう? 大事なのは興味を惹かれるかどうか。面白いかどうかじゃないか?
この悲劇を阻止するためには、何が何でもマフィン君を止めなければならない。どんな犠牲を払ってでも。
かくなる上は……。僕は自室に一人篭って慎重にプランを練り、ナイフを研ぎ始めた。
しかしその真っ最中に突然ドアがノックされ、か細いマフィン君の声がした。
「ロビンさん……早まらないでくださいね……実はあの録音、既にホームズさんへ渡してあるんです……僕に何かがあったら、封を開けて聞いてみてと頼んであるんです……」
どうしよう、マフィン君が怖い。
マフィン君はいつの間に、こんな悪漢《ピカロ》に変身してしまったのだろう。優しくてかわいい子犬のような子だったのに。
僕も僕だ。泣く子も黙る凄腕の秘密諜報員の癖に、どうして下宿仲間の恐ろしいまでの変貌に気が付かなかったのだろう。て言うか、僕の正体バレてるんじゃない? だとしたら馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だな僕は。こんな子に後ろを取られるなんて終わりだよ。もう退職届けを出さないといけないかも知れない。長官は認めないだろうけど。
僕は悩み、悔やみ続けた。晴れの日も雨の日も、嵐の夜も霧の朝も。庭の木々はいつの間にやら葉を落とし、まるで老人の細腕のように枯れて頼りない枝を、強く吹き付ける風に震わせるばかりとなっていた。
でも、マフィン君の術中から抜け出す良い方法はなかなか思い付かない。何せ、あのシャーロックが一枚噛んでいる。僕が下手に動いたら彼は必ず感づき、録音に手を伸ばすだろう……僕が彼の企みを察知し行動を起こす時と同じように。
僕はよく眠れなかった。毎朝の鏡で見る自分の顔は、ちょうど告白をして来た日のマフィン君のようにげっそりして、黒い隈が出来ていた。これはもう呪いだと思う。この顔のせいで、昨日などはシャーロックに「何処か悪いのか」と心配されてしまった。信じられない。どうしてくれるんだ。
もう我慢出来ず、僕はとうとう、最終手段に打って出ることにした。どうしても嫌だったけど仕方がない。「弱みを握られている」という前提を崩せばコトは終わるのだ。
だからつまり……死神と契約をすれば良い。
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