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新しい恋
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空はずっと、彼が好きだった。
彼は明るくて陽気で面白くて、けれど頭がちょっと良くなくて、関西訛りが可愛らしくて、頼み事を断るのが苦手で。空はそんな彼を好きになって、同時に、告白は出来ないと思った。彼を困らせることが目に見えていた。それが、大学2年生の頃。けれど空は、大学を卒業してからも、彼から離れることが出来なかった。彼の隣を誰かに明け渡すなど、空には出来なかったのである。この思いを拗らせたまま自分は死んでいくのだと、空はずっと、そう思っていた。
「え…?ここ、どこ?」
空は森の中で目を覚ました。そこは、見たこともない森だった。体が草に覆われるようにして、空は草原に寝ころんでいた。酷くありきたりで現実味がないそれを、空はとりあえず夢だと判断する。空が寝ころんだまま記憶を遡ると、仕事から帰宅しベッドに潜った事を鮮明に思い出すことが出来た。この状況を明晰夢だと判断するには十分な要素である。地面に生えた草は柔らかい感触がして、露出した肌が少し擽ったい。自然特有の風の匂いが、余りに現実味を帯びていた。
「…異世界転移?」
まるで漫画のような展開に呟いてみたが、空に返事などあるわけもない。
とにかく、と、空は草原に手をついて立ち上がった。空は虫が嫌いなこともあり、草原も嫌いだったが、夢だからなのか異世界だからなのか、草原には虫は一切見えない。感触は自然のそれなのに、人工芝のような無機質さがそこにあった。
空は起き上がると手に付いた少量の土を払い、自身の服のポケットを探る。可笑しな世界に来たにも関わらず、服装は制服のままだった。空が探ったポケットには、スマホも何も入っていない。空は中身のないポケットを数秒探り、溜息をついた。現代人の空にとって、スマホがないのは大打撃であった。夢の中でもスマホを探ってしまう自分に嫌気がさしつつ、空は念のため自身の顔に触れる。そこには眼鏡の感触があり、眼鏡と洋服、靴だけはそのままになっているのだと空は判断した。
空が周りを見渡すと、目の前に都合よく看板があるのが見える。空は看板に近づいた。看板には、全く読めない未知の言語と共に、矢印が記されている。何が書いてあるのか空には分からなかったが、どこかには着くことは出来るだろう、と空は判断した。空は、こんな都合の良い事が起こるのならば、これはやはり夢なのだろう、と考えつつ、矢印に沿って進んでいく。看板は短いスパンで置かれており、空がたどり着いたのは、街のような、集落のような場所だった。そこそこ栄えているようだったが、町を守る衛兵は居ないようであった。
異世界というよりは、海外の露天市場のような趣きのそこに、空は足を踏み入れる。コンクリートなんて上等なものはこの地には無いのか、地面は土のままだった。
街に足を踏み入れた途端、空の耳に入ったのは喧噪だった。屋台の店主が物を売る声に、酒場の男たちが叫ぶ声、男女の二人組が雑貨を見てはしゃぐ声。色とりどりの声は、何故か意味を伴って空の耳に入る。周りが日本語で喋っているのだ。異世界であれば違和感があるそれは、空の夢の中ならば何らおかしい事でも無い。それ故に、空は聞こえてくる日本語に対して何の疑問も覚えなかった。
「…結構人いるんだな。」
空が辺りを見渡すと、あまりにも鮮明に顔が見えた。誰もが見たことのない、外国人とも少し違う顔立ちをしている。空は、夢ならば他人の顔などぼやけるのではないかと思ったが、考えるのを辞めた。夢なのだから、とにかく楽しければ何でも良いと思った。
「にしても、随分栄えてるんだな。」
空は一人ごちる。制服姿である空は目立つのか、周りの人々は、ジロジロと空を見た。周りの人々は皆、よく分からない民族衣装のようなものを着ていた。
周りの人間は空を見るだけで、空は一向に話しかけられる事もなく、周りの人間は空を見て顔を曇らせる事もない。周りの人々は物珍しさから空を見ているだけであり、空への不信感などは感じていないことの現れだった。空に向けられた視線は、好奇の目、という言葉が一番合うものだった。
「な、あんた、どこの人?」
不意に後ろから声がした。明るい声。初めて来た、夢の中の異世界の筈なのに、空にはどうしてか聞き覚えがあった。空が振り向くと、そこには彼にそっくりの男がいた。茶色の髪に大きな瞳、快活そうな笑みを湛えた男。彼に似た男は周りと同じ民族衣装を着てにぱりと笑い、人懐っこい表情で空に話しかけてきた。
「その服、珍しいな。他の街からくる奴らとか大勢おるけど、お前みたいなんは初めて見たわ。何処から来たん?」
明るい調子でフランクに、関西のような訛りで言葉を放つ男は、空のよく知る彼に似ていた。快活に笑ってよく喋る。彼はそんな人間だった。
「えっと…。気がついたら草原に居たんだ。道もよく分からなかったから、とりあえず矢印の看板に沿って来たんだけど。」
空は、話し掛けてきた男につられてか、友人である彼と同じ容姿に絆されたのか、敬語を使うことなく男の言葉に答える。そういえば文字は読めないのに会話は出来るのか、と漠然と思った。
「…ふーん…?気がついたら、っちゅーのがよう分からへんけど…。」
男は空の言葉に不思議そうな顔をする。お互いにタメ口を使っていることには、空も男も違和感を持っていないようだった。
「元々日本、っていう国に居たんだ。けど、そこからここに来た記憶が無くて。」
彼に似た目の前の男は、理解が出来ない、という顔をした。記憶がない、という言葉に対してか、困惑がありありと顔に出ている。空は目の前の男がなんとなく愛しくなった。
「…日本、なんて聞いたことないけど、俺頭悪いからなぁ。まぁどっかにあるんやろ。」
男はそう言って一人頷いた。この夢が異世界という設定ならば、日本が存在しないのは当たり前だ。けれど、それを自分の頭が悪いからだと考える男が可愛らしく思えた。
「ねぇ、ここ、俺の住んでた所とは何もかも違うんだ。良ければ色々教えてくれないかな。」
空は元々コミュニケーション力が低いという自負があって、本来ならばこんなことを見知らぬ人に頼めるようなタイプでも無い。けれど、案内を頼んでみようと思ったのは、男が彼によく似ていると思ってしまったからだった。空は、これが夢ならば、この男ともっと話しておきたいと思った。
「ん、ええで。けど、お前が何処まで知らんのか分からんからなぁ…。まぁ適当に教えるわ。」
そう言うと、男は後ろを振り返ろうとして、ぴたりと動きを止める。そして、空に向き直った。
「そういえば、自己紹介してへんかったわ。俺はハル。よろしくな。」
ハル。愛しくてたまらない発音が空の耳を撫でた。空の心臓は、唐突に握りつぶされるような痛みを発した。
「...お前も自己紹介してくれへん?」
ハルの言葉に、空は我に返る。空の視線が泳ぐ。心臓はまだ悲鳴を上げていた。
「...僕は、空。よろしく、ハル。」
心臓の鼓動が早まっている。彼と同じ音がする名前を紡ぐのは、背徳的なことのように思えた。
ハルは空の様子に不思議そうな顔をしたものの、何を言うでもなく街の案内を始めた。
「この街はさ、元々ちっちゃい集落やったんよ。」
ハルは空を案内しつつ、説明をする。空は目の前の彼の声に聞きほれるかのように、黙って話を聞いた。
「最近、段々と交易が増えてってさ。」
ハルはそう言いながらも、手を大きく広げて街を指す。満面の笑みを浮かべる男の口から覗く八重歯は、やはり彼を彷彿とさせた。
「この街で出店を出したいって奴らも増えてって、今ではこんな感じの街になったんよ。...いい街だと思わへん?」
そう言ってハルは空の顔を覗き込む。空は急にアップになったその顔に一瞬見惚れたが、我に返るように瞬きを一つした。
「...うん。いい街だと思うよ。」
実際、空は異世界じみたこの街を気に入っていた。どこかで見たような、異世界というよりは異国に近いこの街は、空にとって新鮮味のあるものだった。美しく彩られた訳でもない街並みは、活気と笑顔に溢れている。空の気質と合うかどうかは捨て置いて、彼のような人間に合った活力のある街だった。
「せやろ!」
空に街を誉められたのが余程嬉しいのか、ハルは小さく歯を見せてにこにこと笑う。彼のはにかむような表情に釣られてか、無意識のうちに空の口角は上がっていた。
ハルの案内は続く。彼は分かりやすい性格で、ハルがこの街を愛していることが、空にはありありと伝わっていた。
「...そんで、ここが職業案内所。」
ハルはそう言って、古びた大きな建物を人差し指で指す。建物は平屋か二階建て程の高さで、建物の上には、木で作られた看板があった。よく分からない文字の書かれた看板は空に、古さとは異なる風格を感じさせた。
「とりあえず入ってみいひん?」
ハルはそう言って、建物に足を踏み入れる。空はハルを視線で追ったまま、ハルを追うように建物の中へ足を踏み入れた。ギシ、と床の木目が音を立てる。
「...ここが、職業案内所?」
空は、建物の中を見て、ハルにそう聞いた。職業案内所という言葉の響きから、空はハローワークのような場所を想像していた。しかし空の眼前に広がっているのは、どちらかといえば異世界漫画でよく見るギルドに似ていた。何かの討伐依頼でも貼ってありそうな立て看板に、それらを見つめる屈強な男たち、そして一際容姿の際立った女性の受付嬢達。何から何までが、空の思うファンタジーそのものだった。
「ここって、冒険者とかが依頼を受ける場所とかじゃないの?」
空はハルに尋ねる。空の前をずんずんと進んでいたハルが、空のほうを振り向いた。
「まぁ、せやね。ここは仕事を探す場所やから。冒険者用の仕事もあるし、俺らみたいな一般人用の仕事も紹介してくれるで。」
ハルはそう言うとまた踵を返し、空の前をずんずんと歩いていく。向かっているのは受付のカウンターのようで、空はハルの言葉を上手く咀嚼できぬままにハルについていった。
「なんか適当に仕事紹介してほしいんやけど。」
ハルは受付の前に着くと、カウンターの向こうに気安く話しかけた。そこにいたのは肌が白い、ブロンドの髪を持つ女性で、肌も髪の色も顔だちも、北欧というよりはどこか現実離れしていた。ハルが美しい女性に気軽に話し掛けるのを見て、空は眉を下げる。
「仕事ね、了解。」
女性はそう言うと、手元にある資料をパラパラと捲っていく。職業案内所だというのに、カウンターの向こうにはパソコンの一つも見受けられない。空はこの世界にはパソコンがないことに気が付いたが、特段驚くようなことでもないと考え黙り込んだ。そんなことよりも、女性とハルの親しさの方が、空の胸につっかえるようで気に障った。
「いつもみたいなやつでいいの?」
女性はそう言って、顔を上げる。空はその瞬間、バチっと目が合った。女性は空に向かって少し微笑むと、ハルの方に視線を向ける。ハルが視線に答えるように口を開いた。
「あぁ、こいつに仕事紹介してほしいんよ。なんか、いつの間にかここに居ったらしいんやけど。」
女性と空の視線が交わる。女性はぱちぱちと瞬きをしたが、暫くして口を開いた。
「はじめまして。私はシルビアと言います。以後お見知りおきを。」
そう言うと、シルビアは空に向かってまた微笑みかける。ハルも太陽のような笑みを湛えて空の方を向く。
「普通の仕事紹介してもらうんやったら、絶対シルビアに頼むことになるんよ。名前覚えといたほうがええで。」
空はその言葉に何となく不快感を覚え、顔を顰める。ハルもシルビアも、そんな空の様子を不思議に思ったのか、二人して首を傾げる。
「シルビア、って、呼び捨てにしてるんだ。仲いいの?」
空は発された自身の言葉に驚いた。空の言葉には怒気のような、戸惑いのような何かが多分に含まれていた。しかし悪感情の籠った言葉をハルは受け止め、それを明るい笑みで返す。
「せやね。俺とシルビアは幼馴染なんよ。」
幼馴染。その言葉に空の脳みそは思考を止める。空は一瞬にして形容のし難い感情に襲われ、はくはくと口を開閉させた。そんな空の様子にハルは悪戯っ子のように口角を上げる。
「心配せんでも、付き合ってへんよ。...嫉妬した?」
ハルは自身の言葉に翻弄されころころと表情を変える空が、何となく愛おしくなった。空は知らない事実だが、シルビアは受付嬢という立場と並外れた美しさ、性格の良さから、告白が後を絶たない。一目ぼれで出会ったと同時に告白されることなど日常茶飯事で、しかしシルビアは誰にも靡かなかった。そんなシルビアを呼び捨てで呼び、仲良くしている唯一の男がハルであり、ハルは妬み嫉みを受け続けていた。ハルは、嫉妬を向けられることに慣れていた。
「嫉妬、って何に。」
空の口から、震えた声が出た。ハルは空の発した言葉に含まれた感情を読み取ることは出来なかった。ハルは口を開く。
「シルビアみたいな綺麗なやつが幼馴染で妬ましいやろ、って話。まぁ、幼馴染だからって何かが変わるわけちゃうねんけど。恋人でもないし、お互いに恋愛感情なんてないし。」
ハルのその言葉を聞いた途端、空はキョトンとした顔をした。明らかに上がった眉と見開かれた目、ぽかんと開けられた口は間抜けにしか見えない。ハルはそんな空の表情に愛らしさを感じた。空はコンマ数秒固まった後、ぱちぱちと瞳を瞬かせる。空が先程まで纏っていた負の感情は、すっかり離散しているようだった。空は安心したかのような顔つきで、ハルに向かって言葉を紡ぐ。
「ハル、別に僕は嫉妬してないよ。ただ、…。ハルと仲良くしてるシルビアが、少し羨ましくて。」
今度はハルが間抜けな顔をする番だった。可愛らしい猫目をまん丸にした彼に、空は少しだけバツが悪そうな、怯えたような顔をした。
「…そんなこと言うやつ、初めてなんやけど。俺と仲良くなりたい、って話なん?」
直球な物言いが空の心を刺す。空は何かを誤魔化すかのように、返答の代わりに何回も頷いた。春は笑った。
「はは、意味分からんわ。おもろいな。」
ハルは何がツボに入ったのか、長い間笑い続けていた。空もそんな彼を見て、自身の口角が上がるのを感じる。シルビアもそんな二人を見て微笑んでいた。何に笑っているのかも分からぬまま、三人はひとしきり笑っていた。
段々と笑い声が止んできた頃、ハルが口を開く。
「そんで、空はどんな仕事なら得意、とかあるん?」
ハルは笑い過ぎて目尻に浮かんだ涙を人差し指で拭いつつ、明るい語調で言葉を紡いだ。そこからは3人で、空の仕事探しが行われていった。
空の仕事は体感で20分も掛からないうちに見つかった。内容は露店での接客販売。ハルがよく食事を買いに来るのだと言った場所だった。
「…では、手続きを行いますので、明日以降にまた此方へ来ていただく事になります。空いている日程をお伺いしたいのですが。」
シルビアが空に言う。空とシルビアは互いに敬語のままだった。空がシルビアの言葉に答えるために口を開く。
「…じゃあ、明日の…。」
そこで空の言葉は止まった。この世界には一日という概念はあるようだったが、一日が24時間で回っているのか、疑問を抱いたのだ。
「明日なら、いつでも大丈夫です。」
「承知しました。明日の14時でも宜しいですか?」
空がお茶を濁すように答えると、シルビアは14時という明確な時間を返した。空はシルビアの言葉に安心しつつ答える。
「はい、大丈夫です。」
仕事を決め終わった空は、ハルに連れられ職業案内所を出る。ハルと空は横に並んで道を歩いた。そこら中に溢れる喧騒の中、ハルは空に大きな声で話し掛ける。
「なぁ、どっか寄らん?俺奢ったるけど。」
空は反射的に頷いた。
ハルに連れられて向かった先は、カフェのような場所だった。ハルが店員を呼び、コーヒーを注文する。空もハルと同じようにコーヒーを注文した。コーヒーという概念がこの世界にあったことに空は安心すると共に、ほんの少し落胆した。コーヒーがあるという事実が、この世界が空の妄想の産物である事を示しているような気がした。
「そういえば、これ、よう分からんけどええな。おしゃれか何かなん?」
ふと、ハルの声が聞こえる。唐突に、彼の指が空の眼鏡に触れた。褐色じみた細い指が目の前に近づいた反動で、空の肩が驚くほどに跳ねる。空はハルの手から逃げるように腰を引き、座っていた椅子がギ、と音を立てた。
「...あ、急に触ってごめん。」
ハルは眉を下げ、上目遣いで空を見る。そんなほんの少しの仕草ですら、何だかあざとさを含んでいて可愛らしかった。空は跳ねた心臓を誤魔化すかのように視線をハルから背け、自身の眼鏡に触れる。
「...あぁ、眼鏡。…この世界には無いのか。」
ふと、そこで思い至った。空は確認を取るようにハルを見つめる。彼の愛嬌のある大きな瞳が空を見つめ返した。
「これ、眼鏡って言うんだけど。ここの世界にはないの?」
ハルは首を傾げる。いちいち彼の仕草があざといのは本当に何なのだろう、と空は思わざるをえなかった。
「うん。少なくとも俺は知らんよ。…これ、めがねって言うんやね。」
そう言うとハルは目を細め、口角を上げて満足そうに空を見る。気まぐれな猫のようなその表情に、空の口角もつられて上がっていた。
「よう分からんけど、かっこよくて好きやで。」
さも当然のように吐かれた褒め言葉に、空が動揺してしまったのは言うまでもない。
暫くすると、店員がコーヒーを運んできた。二人はそれを受け取って無言で飲み始める。ゆったりとした時間が流れていた。空には、目の前の彼と過ごす無言の時間が、あまりにも心地よく感じられた。
「…そういえば、これで一通り、色々と説明し終わったと思うんよ。他、なんか聞きたいことある?」
静寂を切るように、ハルがそう言って空の方を向く。空は一瞬、視線を彷徨わせたかと思うと、ゆっくりと口を開いた。空の唇は微かに震えていた。
「…君は、どこに住んでるの?こんなこと頼むんはおかしいんだけど、俺もそこに住まわせてくれない...?」
唐突で無理矢理なお願いなのは、空自身もよく分かっていた。けれど空は、彼がこれを受け入れてくれるだろうとも思っていた。
空は、ここが自身の夢の中で、友人である彼の性格がハルには都合よく反映されている筈だと信じていた。
「…え。ええけど、お前、俺と住むん?」
彼は目を見開いて、パチパチと瞬かせた。そんな仕草も可愛い、と空は思った。軽々と了承を得られてしまったことに、空はもう驚きすらしなかった。
「…うん。多分ここに居てもいつか戻れるから、僕がここにいる間だけ。」
夢からいつ覚めるかは分からないが、恐らくもうすぐ終わる。だから、夢の中で今日という日を、あわよくば何日も彼と過ごしたい。そう、空は思った。
「ふーん…?」
ハルは空の返事に、よく分からない、という顔をしていたが、深くは聞いてこなかった。それから空は、予定通りの仕事に就くことになり、共に住むことになった。
驚くべきことに、夢はいつまで経っても覚めなかった。この世界にもやはり季節や日付の概念はあるらしく、空は異世界のようなこの場所で春夏秋冬を過ごした。長い夢だと思いながら、もしかしたら本当に異世界に来てしまったのかも知れないとも思っていた。
空が春と過ごして四年ほどが経った、とある冬の日の事だった。
「…なぁ、ごめん。引かんでほしいんやけど。」
唐突に、彼がそう言った。空は彼と食事を取っており、その日のご飯はシチューだった。シチューが入った木の器とスプーンは、空が自身の稼ぎでお揃いの2つを買ったもの。空が顔を上げ、彼の方を見る。彼は空の方をはっきりと見つめていたが、その瞳には水膜が薄く張っており、不安をありありと映し出していた。
「俺、お前のこと好きや。多分、恋愛的な意味で。」
一瞬、時間が止まった。
空は彼の言葉に瞳を瞬かせる。瞳が潤むのが分かった。嬉しくて嬉しくて、涙が出そうだった。空は衝動のままに、彼を抱きしめる。空の口元には浮かんでいたのは笑みだった。
「…嬉しい。僕も、春の事がずっと好きだった。」
ずっと好きだったのだ。
恋人になって、何年も経った。未だに夢からは覚めない。やはりここは本当に異世界なのかもしれない。異世界であってくれたほうが良いと思った。あまりにも都合のいい現実が、永遠に続いていた。
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