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ここで待っててね
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—イッちゃーん!イッちゃーん!!
俺を呼ぶ声がする。
幼くて、舌足らずな響きで、一生懸命俺を呼ぶ。
殆どは泣きながら、そして、たまに満面の笑みで——
俺は呼んでくれるのが嬉しくて、声がする方へと駆けて行った。
俺に気付くとあいつも駆けて来て、距離が詰まるなり脇腹あたりに縋り付く。
ギュッと服の袖を握って、額を擦り付けて来る。
それが可愛くて可愛くて仕方なかった。
どんな物からも守ってやろうと思っていた。
ガキにありがちな、単なるヒロイズムだと思う。
それでも、あの頃が一番幸せで、一番自分が輝いていたんじゃないだろうか。
そんな感覚も、声も、感触も、温度も全部、あの街と一緒に置き去りにしてしまった。
置き去りにするしかなかった。
俺自身が置き去りにされたから…
夢を見ていた。
恐らく一番幸せだった時の夢を—
逸郎が英介に触れたくなかったのは、こうなることを恐れていたのもあった。
中には一番幸せだった頃の思い出を原動力として日々の苦しさから逃れている者も居るだろう。
だが、逸郎にはそう出来ない理由があった。
幼い頃を過ごしたあの街。
英介と過ごしたあの街は、大切にしたい思い出と、消し去ってしまいたい思い出が同時に存在していたのだ。
産まれたのがあの街かは知らない。
少なくとも物心着いた頃には、逸郎はあの街で暮らしてた。
一番古い記憶はあの街にあった。
1DKのアパートで、料理を作る母親の後ろ姿だけ。
その料理を共に食べた記憶はない。
それどころか、母が振り返る記憶すらない。
父に至っては、一切の記憶がない。
生物学的にはその存在があることは間違いないのだろうが、逸郎の中で父親と言う物は端から存在しないものだった。
だからと言って、それを理由に虐められる事もなかったし、それを不思議に思った事もなかったはずだ。
地域的なものなのか、特に母子家庭と言うものが珍しくなかったのも理由の一つだろう。
幸せだったかと言えば、首を傾げざるおえないが、貧乏だった覚えもない。
そりゃ、顔も忘れるくらい母が仕事に励んでいたのなら、部屋は狭くても金はあったのだろう。
母が年中家を空けていた理由が本当に仕事のせいかどうかなど、今となってはわからないし、知りたいとも思わなかった。
甘えた記憶も、怒られた記憶も、喧嘩をした記憶もない。
料理を作る後ろ姿以外で唯一思い出せるのは動物園に連れて行ってもらったことと、その時に手を繋いでもらった時の感触。
細くて、少し乾いていて——そして、やけに冷たかった。
「ごめんね、逸郎…お母さんちょっと行かなきゃならない所があるの。ここで待っててね」
「うん。わかった。」
唯一思い出せる母との会話。
バイバイと手を振って、母は振り返してくれただろうか。
一年前に一頭しかいなかった象が死んでしまってから空になった檻の前。
日が暮れて、ひとけがなくなった後も逸郎は一人で待っていた。
風が冷たかった。
寂しいとは思ったけど、涙は出てこなかった。
いつの頃からか、なんとなくそうなるだろうと思っていたのかも知れない。
母は逸郎を残し、どこかへ消えてしまった。
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