アダルトコンテンツが含まれます。
18歳以上ですか?
- 文字サイズ:
- 行間:
- 背景色:
-
敗北 -6-
-
その日櫻井は、たまたま電車を待つ列の先頭にいた。
昼時、上司から言い渡された仕事の遣いが終わり、会社に戻る途中のことであった。
出社時間も早められて食事は朝から摂っていない、昼食を食べていれば、帰りが遅くなることを咎められる。しかし空腹自体を櫻井は気にしていなかった。
近頃は食べるという行為にあまり積極的ではない。ものを食べたところで、それを美味しいとかまずいとか、考えることもなくなってしまった。
視界に広がる世界は陽の光を浴びて燦然と輝いていたが、陰になったホームとのコントラストのせいで、何かその眩しさが嘘っぽいような気がしていた。
いや、眩しい世界に限らない、その頃の櫻井は、顧客の顔も、上司の怒号も、それらに揉まれながらただ仕事を続けていく自分自身にすらも、作り物を眺めるように冷めていた。
眩しさにぼんやりと目を細めながら、櫻井の耳に列車の到着を予告するアナウンスが届いた。
空虚に感じる毎日の中で、世界と心がカッチリ噛み合う唯一の瞬間。
それも今日は、いつにもましてその声が耳に残る気がした。
次第に電車が線路を走る音が近づいてくる。
櫻井の首は、そちらの方へと向いていた。
毎日毎日、魂が自分の身体から抜け出て、あの音、車輪が線路を踏み走る音に吸いこまれていく気分だった。
しかし今日は、いよいよ身体ごと引き寄せられるように感じていた。
先程までは嘘っぽいと思っていた一歩先の世界が、急に瞳に鮮やかに移り出した。
そして櫻井はふと気付く、『その日』なんて唐突に、その日の気分で、なんの理由もなくやってくるのだと。
痛みへの不安は少しあった、しかしその先の『解放』への暗い羨望が、櫻井を支配した。
電車がもう、だいぶ近づいている。櫻井はフラリと、点字ブロックのラインを跨ごうと足を上げた。
現在の設定
文字サイズ
行間
背景色
×
55 / 88