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敗北 -10-
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今、店がどんな雰囲気になっているのか、櫻井には分からない。木田は何も声をかけてこない、ツレの男も最初の一言以来、何も言わない。
「……うめぇ」
櫻井は最初の一口を飲み込む間に、ゆうに3分は、牛丼屋の端で声をあげ、泣き続けた。
「うめぇ、うめぇよ……っ!」
やっとの思いで飲み下した後に、櫻井はどんぶりを抱えて中身をかっこんだ。
大して味わって食べたこともないそれが、胸につっかえつっかえしながらも、今まで食べたものの中で、一番に美味しい。
鼻をすすり続けながら牛丼を完食し、箸を置いた後で、櫻井は紙ナプキンで目元を押さえ、またしばらく嗚咽を上げ続けた。
「……ごめん」
何個目かの紙ナプキンを丸めて、やっとまともに喋れるくらいになってから、櫻井は隣に並ぶ2人に目を向けた。
「うん……いいんじゃねえの」
木田が頷く向こうで、ツレの男も苦笑いを浮かべている。
「本当に悪かった……居づらいだろ、あんたらも」
「いや、うん……とりあえず、出るか?」
櫻井の言葉に甘えるように木田のツレが促し、3人は立ち上がった。
「あー……あのさ、これ、宣伝」
店の外に出ながら、木田がオレンジ色の紙にモノクロで刷られたチラシを渡してきた。
「俺らこの、pink motor poolってやつで、ライブやるから」
何行かに並ぶ意味不明な単語の羅列、多分自分が知らないだけで、すべてバンドの名前なのだろう。pink motor poolは、その一番上に名前があった。
「またロクでもねーことするくらいならさ、来いよ、今日」
「……つーことで、俺らそのリハがあんだわ。木田!マジで急ぐぞ!」
「おぉ。……じゃあ、あのさ、死ぬなよ!」
「あっ……」
2人がギターケースを担ぎながら走り始める背中に、櫻井は言うべき言葉をかけようとした。
「……あの!」
櫻井の叫びに、2人の顔が向く。
「あの、ごちそうさま!」
言った瞬間に「違う」と思った。これも言うべきことではあるのだが、もっと本当に言いたい言葉があるはずだった。
しかし、その言葉で木田の方がニヤリと笑った。強面の顔を照れ臭そうにクシャッとさせた、不器用そうな笑顔だ。
ツレの男もその後ろで、笑いながら頭を下げている。
「おー!」
その声だけ残し、彼らはまた駅へと走っていき、まだ腫らしたような顔の櫻井はボンヤリと見送った。
チラシに目を落としていたところで、胸ポケットに入れていたスマートフォンが責めるように震え始めた。正確には、牛丼を食べていたところから何回も震えてはいたのだが。
櫻井は特に何も考えずに、携帯の電源を切った。
「……あぁ、住所探せねぇ」
真っ暗になった画面とチラシとを見比べながら、櫻井は独り言を呟いた。
まぁいいと、携帯を胸ポケットに収めた。最寄駅くらいはチラシから分かる。
とりあえずそこに向かってみて、あとは時間までその辺りを歩いてみよう。ゆっくりと。
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