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理想 -2-
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それから10分後。
カタカタカタカタと規則正しく鳴るのは社長がキーボードを打つ音、ではなく前島の貧乏ゆすり。
「やめろ前島、今入って来られたらどうする」
「入ってくるも何も、本当に来んのかよあの人は?」
前島の声量はそれほど大きくなかったが、荒々しさは目立つ。約束の時間から20分はとうに過ぎているが、香月が来る気配は一向に無い。
「30分来なかったら俺から連絡を入れるよ」
社長の声にもどことなく棘があった。
木田も最初の頃は凛々しく見せていたかと思えば、今は不安そうに前屈みになって、喋ろうとする様子もない。香月が来てくれたとして、そのときに挙動不審が発症しなければいいのだが。
櫻井は時計を気にしていた。等間隔で考えれば、また茶菓子の交換に行く頃だ。息を大きく吐いて立ち上がる。
「ケーキが無くなるまで交換するつもりかよ」
前島は遠慮もなく嫌味たっぷりだ。少しカチンとも来たが、相方の粗相に巻き込まれた形のこの男の立場を思い、喋る前に一呼吸置いた。
「この後10分来なかったら、次は来たときに交換する」
「そこまで神経質にならなくても良さそうなもんだけどねぇ」
頬杖をついてマウスをいじっている社長が投げやりに呟いた。
「……失礼があってはいけないので」
無言を背に受けながら社長室の扉を閉める。
前島は社長のいる前で舌打ちなんか打ったりしてないだろうか。そう思うのも、櫻井が今舌打ちの1つも打ちたい気分でいるからだった。
立場に圧倒的な差があるのは確かである。だからってこんな風にpmpを手の平で弄ばれて、面白いはずが無い。
あんまり2人に精神的な負荷をかけられるのはごめんだ。
「あ、いた」
階段を下りて踊り場に差し掛かった頃、階下から声がした。それが自分に向けられたものだと察したのは、声の主が誰かに覚えがあるからだ。
「黒宮さん」
階下で黒宮がこちらを見上げている。櫻井は少し駆け足で階段を下りて黒宮の前に立った。
並んでみると、黒宮は櫻井が今まで印象を持っていたよりも小柄な男だった。体が細くて頭も小さい分、等身が高く見えていたのだと思う。
今も黒いニットのパーカーにスキニージーンズという出で立ちで、シルエットは心許ないほどにほっそりとしている。マネージャーの武上と並んだら、よほどの凸凹コンビに見えるだろう。
「ケーキごちそうさま、おいしかった」
「いえいえ、あんな余り物で……」
彼はわざわざ礼を言うために、自分のことを探し歩いていたのだろうか。
「実は今、また1つ余りが出てしまいまして」
「あぁ、じゃあまた替えに行くんだ」
事情を理解したとばかりに、黒宮が先導して給湯室の方面に歩き出した。
「それじゃあ香月くんはまだ来てないんだね、困っちゃうでしょ」
「いやとんでもない、悪いのはこちらの方なのですから」
「あはは、まぁなんせ香月くん捕まえて"ブス"だもんねぇ」
表情の無い時は少し無愛想にも見える黒宮だが、少し笑うと途端に柔らかくなる。
「本当あのとき面白かったね。木田くんもそうだけど、2人の慌てようも」
「あー……いえ、本当にお恥ずかしい限りです」
「ケイちゃんも悔しがってたよ。『麗二がブスって言われてる貴重な瞬間を見逃した!』って。それを香月くんの前で言うんだもんなぁ」
「はは……」
ケイちゃん、外村恵大のことか。
そんな失礼が許されるのも、同じユニットという立場にいられる外村くらいのものだろうか。
香月の周辺はみな彼の信奉者で固められているような印象があったものだが、どうやらそういうことでも無いらしい。
少なくとも外村、そしてサポートドラマーであるこの黒宮は、香月に心酔しきっている様子はない。
それにしても、話しているうちに給湯室についてしまったが、この人はいつまで一緒にいるつもりであろうか。
こちらとしては香月に近い人物、まして、こちらが探している人材と交流が持てるのは悪いことではないが……
「そうだ、なんかケーキのお礼したいって考えてたんだけど」
「いやいや、そんな結構ですよ」
「うーん、折角だからさぁ」
黒宮は中指を唇に当てて考えた。コーヒーカップを洗いつつも、黒宮が考え込む様子が気になりチラチラと見てしまう。
「もう一切れもらっていこう」
何やら思いついたようで、黒宮は唐突にロールケーキの皿を手に取った。
「二切れも取られたらさすがにお礼も欲しいでしょ?」
「えっ……いや、そんな無理に食べていただかなくても……」
「やりたくてやってるから」
櫻井が何か言う前に、黒宮はケーキをさらって行ってしまった。
「行っちまってお礼って、どうすんだ?」
呆れたものだが、早々に社長室にも戻らなければいけない。いい加減香月だって現れてもいい頃だ。
コーヒーとケーキの取り替えをしながら、黒宮のことを考えた。
最後の行動にはいささか面食らったが、pmpに対する好感度は、どうやら悪くない。
音楽ファン、特にシタタリのようなアイドル売りのユニットにはそれだけで低評価を付ける輩のコミュニティ内でも、彼のドラムだけは評価されていることはままある。
櫻井がぼんやりと心に抱いていた願いが、先ほどの「お礼」の言葉で輪郭を結び始めた。
櫻井は香月への謝罪が終わった後のことを考え始めた。社長に打診すること、黒宮のスケジュールの確認、黒宮との……交渉。
陰りきっていた気分が少し晴れやかになったのを感じながら、櫻井は3切れ目のロールケーキとコーヒーを運び社長室に戻った。
そしてこの後、黒宮の言う「礼」が何かを知ることになる。
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