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異界から来た神子
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青い空がひっくり返るのを見た。
それは、俺を孤独と苦しみから解き放ってくれる合図だった。
俺の気持ちと同じように俺もぐちゃぐちゃになって、それで終わるはずだった。
木村ユイチ。二十五歳、会社員。辛いばかりの人生からの解放を求めて、俺はマンションから飛び降りた。
そのはずだった。
目を開けた俺の視界には不規則に揺れるよく晴れた空が広がる。ついさっきもそんな空を見たのを覚えている。
ガタガタという硬い音と、木の軋みと揺れ。背中には硬い木の感触。
天国にしては硬く、地獄にしては涼しい。そして、空が青い。
「は」
間の抜けた声が口をついて出た。
ぐちゃぐちゃになるどころか身体のどこにも痛みはなくて、俺は跳ね起きた。
着ていたグレーのスウェットは、クリーム色の粗末な入院着のような服に変わっていた。俺がいるのは揺れる荷馬車の荷台のようだった。
周りの景色が流れていく。そこは草原だった。
「神子様」
「は、え」
知らない声に振り返ると、三十代半ばくらいの、茶色い髪の屈強な男が俺を見ていた。馬車を走らせているのは彼のようだ。
男は俺を神子様と呼んだ。
俺は、死んだんじゃないのか。
「間もなく着きます」
混乱している俺に、男は静かに告げた。
「どこに」
「梟竜様のもとです」
「きょう、りゅう?」
落ち着いた男の声が紡いだのは知らない名前だった。俺の知ってる恐竜とは違うのだろうか。
死んだはずの俺は『きょうりゅう』というやつのところへと運ばれる途中のようだった。
状況が飲み込めないでいる俺を乗せた荷馬車は速度を緩め、やがて止まった。
馬のいななきが聞こえる。
風が吹いて、甘い花の香りがする。
これはいよいよ、俺のいた日本ではなさそうだった。
「神子様、こちらへ」
差し伸べられた手を取る気にならない。これから何が起こるのか、男の言う『きょうりゅう』が何なのか、まだ何もわからないのに。
「急いで。もうじき来ます」
男は硬い声で俺を急かす。
「ここは、どこですか。俺は、どうしてこんなところに」
何とか俺を納得させる理由が欲しくて、思わず目の前の男に訊いていた。
「貴方は、梟竜様の神子に選ばれたもの」
返ってきた答えは、俺を惑わせるだけだった。
「なんなんですか、梟竜様って」
「この地の守護者。恐ろしく大きな竜です」
こいつは、俺をそんなもののところへ連れてきたのか。死ぬつもりだったとはいえ、訳のわからないことに巻き込まれたこの状況に、俺は戸惑っていた。
「もう、近くまで来ています。さあ、こちらへ」
俺は渋々従う。履いていたサンダルもなくなって裸足になっていた。
男の手を借りて、俺はおそるおそる草原に降り立った。柔らかな草の感触が足の裏をくすぐる。裸足で草原を歩くのは初めてだった。
そこは山の麓の広い草原だった。草原以外には何もない。俺の視線の先には、木々の生い茂る森と、高い山々が見えた。
男は俺にヴェールのようなものと花冠のようなものを被せた。
「梟竜さま、どうぞお鎮まりください」
俺をここまで運んだ男は、俺の数歩後ろで平伏した。
『きょうりゅう』がやってくるのだろうか。
俺は視線を巡らせる。
花の香りの満ちた草原には、名前も知らない白い花があちこちに咲いている。綺麗な場所だ。
不意に鈍く大地が揺れた。気のせいかと思ったが、それはゆったりとした足取りのように一定の間隔で響く。
地面が揺れるほどの大きなものが近づいてきていることに俺は息を呑む。
やがてやってきたのは、山のような竜だった。
濡れた土のような昏い茶色の、岩のような鱗を纏った、山のように大きな竜だった。
それは俺の前で止まると、たちまち人のかたちになった。
信じられない。竜が人の形になった。服も着ている。鱗と同じ色の、鎧みたいな服だった。
人になっても、それはでかい。一七〇センチそこそこの俺が見上げないといけない。多分二メートルくらいありそうだった。
「おまえが、神子?」
俺のもとに届いたのは、眠そうな低い声だった。
「ああ」
俺の返事に、竜だった男はその眠そうな目を細めた。
「お前はまだ壊れてないね」
その言葉の意味がわからないまま、俺が胡乱げに見上げた先には暗い土色の瞳があった。
鼻筋の通った綺麗な顔立ちをしている。白い肌には所々土色の鱗が見える。人間の形になるのは不慣れなのかもしれない。暗い土の色で、柔らかくてふわふわしてしそうな長い髪と重たい前髪。頭にはゴツゴツした角も見えるし、背中には大きな竜の翼があって、鱗に覆われた太くて長い尻尾もある。
「おいで」
男は子供を宥めるみたいな低くて甘い声をしていた。その声の優しさに、俺は躊躇いながらも差し出された手を取った。他に選択肢はなさそうだったから。
男は俺の背後に視線を向けて薄く笑ったかと思えば、俺を軽々と抱き上げた。俺は成人男性だというのに、子供を抱き上げるみたいに軽々と。
力が強いのは竜だからなのかもしれない。なのに、その腕は俺を包むように優しい。
男は背中の翼を羽ばたかせた。大きな羽音がして、俺ごと男の体が浮かぶ。
空を飛んでる。男は高度を上げると、大きく羽ばたいて山へと向かった。
吹き付ける強い風に煽られてヴェールと花冠が飛んでいったけど、俺にはどうすることもできなかった。竜が気にしている様子もないから、どうやらあれは、ないと困るものでもないらしい。
こうして俺は、見知らぬ竜に連れ去られた。
梟竜の神子がなんなのか、そのときの俺は何も知らなかった。
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