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december.1.2017 正木とすずさん
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「美味しいものを食べると何で幸せになるんでしょうね」
「空腹を満たすと身体が喜ぶ。美味しいものを食べると心が喜ぶ。だからね、少しの量であっても美味しいものを食べると幸せを感じるのよ」
どうしてこの人はこうなのだろう。質問に答えが返ってこなかったことがない。しかも返答に無駄がなく「なるほど」と頷いてしまう内容ばかり。思わずでてしまったため息。そんな俺を見て鈴木さんが微笑む。
「弱っている時も美味しいものが一番効き目あるわよ。だからSABUROは癒しなのよ」
ゴージャスで贅沢、そんな気分の時、ガッツリいきたい時、食を求める内容ってメンタルが反映されるのだろうか。癒しか……たしかにね、美味しくて優しい味が俺に沁みていく。
「シメはパスタがいいな。お腹のスペースあけておいてよ?」
「鈴木さん、何も聞かないですね」
鈴木さんの片方の眉がピクンと動いた。サラダをつついていたフォークを置きワインに口をつける。
「正木が言いたいなら言えばいい。言いたくなければ言わなくていい。そんなもんでしょ?」
「そんなもんですか。最近元気がないわね、正木がどこか寄りましょうなんて珍しいわね、何か悩んでいるの?普通そう聞きませんか?」
俺の口調は自分でわかるほど情けない。言っている内容も同じ。
「仕事は私に怒られるような失敗をしていないから仕事ではない。そういわれてみれば沈んでいる気もする。でも正木が何で落ち込んでいるかなんて私にはわからないわ。だって私達は上司と部下であって友達じゃないから」
「ごもっともです」
「ブロッコリーとプリプリ小エビのタルタルソースあえ、気にならない?」
「気になります」
「よし、オーダーしよう」
話したいなら聞くよ。その逆なら聞かない。そんな鈴木さんの言葉が聞こえてきそうだ。特別何かあったわけではない。ただ時々漠然と不安を感じることがある。俺はこの先大丈夫なんだろうか、一人前になれるだろうか。結婚したいと思える相手に出会えるだろうか。結婚してうまくいくだろうか。だろうか……だろうか……だろうかが山積みになって「わあああ!」と叫びたくなる。
今日は一人で家に帰りたくなかった。金曜の夜に一人でテレビに向かって独り言を言う自分を想像して嫌になった。「どこかいきませんか」という俺の申し出を鈴木さんは快諾。そして二人揃ってSABUROに来た。鈴木さんが電話すればギュウギュウの店でもテーブルが空くのがすごい。どうやり繰りしているのか店の人に聞きたいよ。
「クリスマスのプレゼントは決めました?」
俺のいきなりの質問に鈴木さんはキョトンとしたあと微笑んだ。
「唐突ね。決めたよ。すでにオーダー済み」
「オーダーって?」
「もういい歳でしょ?お互い。高価なものだって買えるけど値段じゃなくて、その人のためにっていうのが最近のブームなの」
「そもそもプレゼントがその人のためですよね」
「そうなんだけど。自分で作った物ではないけれど世界に一つみたいなね。ブレンドした香水やオーダーのワイシャツとかあるじゃない」
「オーダーものってことですか!さすが大人同士ですね。それで今年は?」
「章吾は何を用意してくれたのか楽しみよね。私はイニシャルのカフスにしたよ」
「カフス……大人アイテムです」
憧れるけれど、今の俺にはそんな余裕はない。袖口は擦り切れていないかのチェック。ワイシャツは衿の汚れ落としとアイロンを頑張る程度だ。クリーニングに毎日だせる身分になりたい。
「若者は若者の利点、大人は大人の利点がある。それと同じくデメリットもね」
「お待たせしました。ブロッコリーとエビのタルタルソースです」
会話の途中に料理が運ばれてきた。ブロッコリーはマヨネーズをつけて食べるくらいしかバリエーションがない俺にとってこの料理は輝いて見える。これ絶対美味しいに決まっているでしょ!
鈴木さんはテキパキ二つの皿に取り分けてくれた。申し訳ない。
「いいのよ、上手にできる方がやればいいんだから。正木はいっつもこぼすよね」
「ばれてましたか」
「ばれてるに決まってるじゃない」
鈴木さんの前だと自分の格好悪さが際立つ気がする。こればかりは仕方がないことだけど、強気の時は何とかしてやろうと思えるのに今日はどうにもうまくいかない。
「鈴木さんはどこで彼氏さんと出逢ったんですか?」
「今日の正木はすべてが唐突ね。面白いわ!」
ケラケラ笑われてホッとした。友達同士とは違うと言われたばかりなのにぶしつけな質問だったから。
「今日の正木は弱ったモードだから特別に教えてあげる。15分の休憩時間を大事に寛ごうと思っていたのよ。そのカフェは満席だった。そこに章吾が入ってきて店内を見渡した。他の店に行くとなればタイムロスよね。だから私は席を譲った」
「相席ってことですか?」
「違うよ。ここどうぞって。章吾はそのあと私に会うためにそのカフェに通ったみたいね。二カ月くらいだったかな」
「なんですかそれ!映画みたいじゃないですか」
「でも本当の話だよ」
「俺も今度誰かに席を譲ろうかな……素敵な出会いがあるかもしれないし」
「何?正木は出会い募集中なの?」
「積極的に募集をしているのとは違います。ただ時々会社と家の往復が虚しくなるだけですよ」
「そっか。虚しかったりションボリしたり、あと自分が優しくしてほしいって感じる時は自分が誰かに優しくすることね。そこから何かが変わるから」
「誰かに……優しく……ですか?」
「そうよ。無茶ブリされた企画書をなんとかまとめて提出したら「もうこれはいい」なんて馬鹿上司に言われて頭にきてね。15分外でます!って事務所を飛び出してコーヒーを飲んだ。ペカンナッツのタルトをムシャムシャ食べて「ハゲ、バカ!」って心の中で悪態ついていた。
そんな時に章吾が入ってきた。私と同じく疲れた顔、息抜きにきてみたら店は満席。他の店に行くならスタバを買って戻ったほうがいいか。そんな表情を見て私は席を譲ることにした。企業戦士同士労わり合わないとねって。それが現在に至るってわけ」
同じことができるだろうか。地下鉄の席を譲ったり、知らない誰かのために時間を割けるだろうか。今の俺なら店が満席であることも、誰かが入ってきたことにも気が付かないかもしれない。
「誰かのためにって言うと偉そうでしょ?でも自分のために誰かに優しくしようって意外とできるものよ」
「そうかな」
「そうよ。自分のためなんだもん。私自分が好きだからね」
「鈴木さんくらいのスペックがあれば好きになり放題ですよ。俺は全然です」
鈴木さんはワイングラスではなく水が入っていた空のグラスにワインをドボドボ注いだ。
「ちょっと!鈴木さん、間違ってますって」
「間違ってないよ。こういうときはね、水みたいにワインを飲むの。よし、正木のために優しくなってあげようか。それにはワインというエネルギーが必要」
鈴木さんは水を飲み干すと並々とワインを注いだ。ボトルのワインはもう1/3くらいしか残っていない。そのボトルを持ち上げ合図するとトアさんが笑顔とともに頷いた。
「私は恵まれている。これね、あんまり親しくない友人がよく言うわ。恵まれているわね~好きに稼いだお金使えていいわね~気楽でいいわね~~って。同窓会にいったりするでしょ?苗字変わってないから未婚だってわかるわけ。それで続くのが「バツイチ?」よ。結婚するのが当たり前っていう常識は延々に消えないでしょうね」
俺だって結婚できるだろうかって考えたりする。できるだろうか、できなかったらどうしようという不安。鈴木さんの言う通り「結婚が前提」の不安……意味のない悩みではないか?
「結婚してなくても素敵な恋愛をしているからいいじゃないって思うけど説明するのも面倒だから言わないでいると「過去に何かあったのかもね」となるわけよ。もう慣れたけど」
「ええ!鈴木さんなのに?」
「あははは。正木、それ可笑しすぎ。でも許す。褒めてくれたみたいだから」
この人が可愛いと思うのはこういう時だ。大人なのに素直って最強。
「結婚しないのと、できないのとは違いますよ」
「う~~ん、どうかな。ある意味私はできなかったのよ」
「どういうことですか」
「20代の頃私はやる気に満ちていた。同年配の男性は頼りないと切り捨てていたわね。仕事のできる大人の男性に憧れたし、そういう人が好みだった。でもね、そういう人ってとっくに結婚しているのよ。
仕事よりプライベートを優先する同僚は軟弱だと思っていたし、私より仕事のできない男性を馬鹿にしていたわね。こんなんで結婚できるわけがないでしょ」
「……想像できすぎます」
「30代になって人の上に立つポジションになった。上司も存在する。中間の立場で社内の営業や根回し、自分を殺すこと、立ち回ること。それに加えて増量した仕事。その日々に追われて追われて恋愛どころかプライベートが消滅した。あの頃私はどう時間を過ごしていたのか思い出せないわ。とにかく会社にいる時間が長かったわね。それを乗り切ったから今があるけれど、もうあそこには戻りたくない」
「俺来年30です」
「男性と女性は違うかもね。でもガムシャラになることが必要な時期は絶対ある。私が知っている仕事のできる大人の人達はそういう時期を乗り越えて自分のペースをつかんでいる人ばかりだった。どうなのかな分かれるのかもしれないね。ガムシャラな時間を過ごしてこなかった人は「自分を犠牲にして馬鹿じゃないか?」と感じるし、ガムシャラ組は越えて来たものを自分のバックボーンという強みにする。だから違う時間を過ごしてきた人とお互い相容れないの。ここが難しいところよね」
「鈴木さんとは違う時間の過ごし方をしたタイプの人も社内にいるってことですよね」
「そういうこと。しかも上司だったりする。口ばっかりじゃなく自分が働け!そんな文句いうなら自分でやれば?なんて心の中で悪態ついて頭を下げる毎日よ。腹の中でベーって舌もだすけど」
「ぶはっ!」
ワインが逆流して咽た。ナプキンで口を覆い飲み下す。そういう不意打ちやめてください!
「40代になって周りを見渡せる余裕が少しできた。自分の能力を評価してくれる人には素直にアドバイスを貰うし相談もする。評価してくれない人に腹を立てるのをやめた。だって自分のメンタルに跳ね返ってきてメリットがないから。先を見越して自分が進みたい方向に誘導することを考えて実行してうまくいったときは最高に気持ちがいい。そういうことかな、そうだね、腹を立てなくなったかな」
「俺はそんな40代になれる自信がありません」
「まだ10年以上あるじゃない。諦めたらそこで終わり」
これまた正論。頷くしかない。
「自分の仕事はそれなりに整理がついたし充実している。でも日々モヤモヤすることは多いよ」
「どういうことですか?」
「映画やドラマを見ていてよくあるシーンに心が捩れる。例えばそうね、子供が誘拐される。母親のもとに駆け付ける刑事。アメリカだと誘拐はFBIの管轄か。
誘拐された子供の生存リミットは48時間?72時間?とにかく時間が限られている。母親の話を聞き犯人を逮捕しますと言う。たいてい母親は自分を責めているのよ。私が目を離さなければ、友達の家に行かせなければって。刑事は言う「自分を責めてはいけません」そのあと母親が言う台詞わかる?」
「台詞ですか?トアさんに聞いた方が……いえ全然わかりません。子供を助けてですかね」
「そういう場合もある。でも女性刑事だった場合、かなり高い頻度で「あなた子供いる?」って聞くのよ」
「あ、言われてみれば見たことがあります」
「「いません」って答えるとね「あなたに母親の気持ちなんかわからないわ。私の気持ちがわかるはずないわ!」って言われる」
「……ああ、ですね」
「そのシーンを目にするたびにね、母親じゃなくても事件解決に邁進するわよ。本当の共感は無理かもしれない、でも子供を案ずる気持ちや母親を気の毒に思う気持ち、犯人への怒り。これって当たり前に持っていると思うのよ」
「そうですよね」
「この年齢で結婚していなくて子供がいないとね、娯楽であるはずの媒体から自分が持っていないものにケチをつけられている気分になることがあるってこと。だって男性の刑事はあまり聞かれないのよ、子供いる?って。私の言いたいことわかる?」
まるで気にもしていなかったシーンだ。そう言われてみれば結婚していないから事件を解決できないなんてことはナンセンスだ。母親でなければむごい事件に怒りを覚えない、そんなことはない。
子供を持たない選択をした人。結果的に持てなかった人。様々な背景をもって人は生きている。自分の中を素通りしていく物事にも人の心をざわめかせることが存在する……これは少し怖い。
「私は自分のためにお金も時間も使える。自分のために100%使えないけれどかわいい子供がいる。これどっちが幸せって聞かれても私は答えられないわ。どっちも幸せ、どっちも不幸せ。視点を変えればメリットもデメリットになる。その反対しかり。
今日いいことがあれば明日はうまくいかないかもしれない。でも明後日はいい日になるかもしれないと思えるなら悪い日も最悪とはいえない。ようはバランスよね。
上手くいっている時は自然に周りの人に良いことを言えたり、できたりする。対して弱っている時は自分にも周囲にも厳しくなってもがくことになる。
だからね、自分が優しくしてほしいと感じる時ほど誰かに優しくするの」
「……そういうことですか」
「正木が何を気に病んでいるかわからない。どうもハッキリ言わないってことは何かがあってということではないよね。なんとなく不安、なんとなく落ち込んでいる。それは誰にでもあるのよ。当然私にもある。優しさなんて大げさなことじゃなくていいの。
今日帰りにコンビニに寄って買い物して「あ、袋いりません。そのままでいいです」だけでいいのよ」
「え?そんなことですか?」
「でもいつもとは違う行動と言葉よ。切っ掛けはいつだって些細なこと。だから皆生きているのよ。沢山のささやかなことを自分に取り込んでバランスを取る」
ささやか、些細。俺が落ち込んでいる漠然としている不安もそうだ。何も起こっていないのに、起こるかもしれないことを心配している。
今日こんなことがあった、そっか……でも大丈夫だよ。そう思える何か。それが鈴木さん言う「優しさ」……か。
鈴木さんのグラスに残ったワインを全部注いだ。
「正木。オリがはいっちゃうじゃない。底は少し残すのよ」
「え、そうなんですか。普段飲まないので。わかりました次は残します!」
「え?2本空いたのにまだ飲むの?」
「明日は土曜日ですから。鈴木さんパスタ食べますか?」
「そうね。いっか、今日は酔っぱらうことにしよう」
「じゃあ今僕は鈴木さんに優しくします」
「ほおお?何してくれるの?」
「僕が奢ります!奢らせてください!優しくしてもらったので代わりにお金で返します!」
「あははは。正木それはすごいわ。いよっ!男前!」
「もっと言ってください。いよっ!高スペック!」
ボトルを持ち上げて合図したらトアさんが「え?」という表情をした。返事の代わりに親指を立てた俺と向いで笑っている鈴木さんを見てトアさんが笑顔に変わる。
優しい味と美味しい料理。テンションをあげるグラスに注がれたワイン。そして目の前に座る優しい上司。俺のことを気にかけてくれる人がいる。これだって大事なことだ。
弱っている時ほど誰かに優しく‥…か。これを心に刻んでおけば、格好いい40代に近づけるかもしれないな。
うん、俺、頑張ってみようかな。そうだな……頑張ってみるか!
よし、まずは今日酔っぱらうことしよう。そして格好良く支払いを決めて店を出よう。きっかけは些細なことか……そうだね、小さい事を見逃さない自分になろう。俺はそう決めた。
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