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may.29.2016 シネマレストラン 第3話 「海辺の家」
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「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
「はい。あの・・・。」
「お席にご案内いたします。ご希望のテーブルがございましたか?」
「いいえ!その、先日のお礼を言いたくて。」
先週と同じ白いシャツにギャルソンエプロン姿のトアさんが微笑んだ。
「ご覧になったのですか?」
私の隣に立つ彼に視線を送りニッコリ笑ったトアさんは言った。
「そうですか、よかったですね。ではテーブルにご案内します。」
先週の木曜日、私は今日と全然違う気持ちを抱えてこの店に座っていた。もしあの日、ここにこなかったら私は未だに悩んでいただろう・・・そして人生自体が変わっていたかもしれない。ひょっとしたら自分の結論と選択が間違いかもしれない。でも自分で選んだということがきっとこれからの私を守ってくれる。
私だけではなく、わたし達を・・・きっと、そんな気がする。
<先週の木曜日>
「ふうぅぅ。」
気がつけば溜息ばかりが漏れていく。考えても考えても答えがでない。悩みはまったく解決できないまま、ずっと心の中に居座っている。
大好きなお店のランチを食べれば気が晴れると思ったのに、美味しい料理でも私の気持ちをあげることはできなかった。
「ふううぅぅぅ。」
コーヒーが苦く感じる程、私はすっかり参っていた。
その理由は、付き合って3年になる彼に転勤の辞令がでた-これが全ての原因。25歳で付き合い始めて私は28歳になった。転勤になる可能性は最初に聞いていたし、私は仕事をやめてついて行こうと勝手に決めていた。「辞令がくるかも。」これを毎年言う彼に対して私の気持ちが少しずつ変わっていったのは仕事のせいだろう。
どうしたものか、あんなに辞めようと決めていた仕事が面白くなってしまったのだ。少しずつやりがいのある役割を任されるようになり、それをこなし実績をあげていくことで更に自分のテリトリーが広がっていく。その日々を繰り返していくことで少しずつ成長できているという実感もある。
私は仕事を辞めたくない。28歳・・・親は結婚しないのかと煩いし、友人や同僚も皆それを私に言う。二人の間でも何となくそういう流れになりつつあるし、彼と結婚するということはとても現実的だ。
結婚したい・・・・彼と一緒にいたい・・・仕事もしたい・・・。
同じ街に住んでいる分には何も問題ないけれど、彼は道外に赴任がきまったからかなりの遠距離になる。海を渡るというその距離。そして札幌に戻ってこられるのか解らないという時間。距離も時間もとても遠いものになる。それに私は耐えられるのか?
わからない、やったことがないのだから。結婚と仕事を両方欲張ることは不可能なのだろうか。
結婚か仕事か?当たり前じゃない、結婚をとるに決まっている。そう考えてきた私が一番自分の変化に驚いているわけで・・・。
「ふううう。」
そりゃあ、ため息もでるというものだ。
「お口に合いませんでしたか?」
テーブルをボンヤリ眺めて自分の思考に埋まりきっていた私は、掛けられた言葉にハッとした。視線を少し上にあげると心配そうな顔をしたスタッフの男性が立っていた。右手に持っているコーヒーポットからいい香りが漂ってくる。トアさん・・・だったかな。名前を呼んで親しげに彼に話しかけるお客さんを何人も見たから確かだ。
「あ・・・いいえ。お料理はいつもと同じく大変美味しかったです。ちょっと悩み事をしていたもので。」
眼鏡の奥で優しそうな瞳の目尻が下がる。なんかホットするな・・・このお店で一番背が高いのに一番優しく感じる人。彼は何も言わず湯気のたつコーヒーを注いでくれた。
「あ・・ありがとうございます。なんだかすいません。」
「いえいえ。」
全然知らない人、事情も私の性格も何も知らない人に聞いてみたら突破口が開くかもしれない。どっちにしたって今より悪い事にはならないはず。
「彼の転勤が決まって・・・私はついていくべきか、面白くなった仕事をやめることができるのか。辞めないとしたら遠距離に耐えられるのか・・・そんなことでグルグルしちゃって。」
「あ~そうだったのですか。それは大事な悩み事ですね。」
大事な悩み事・・・。
「悩みは無いに越したことはありません。でも悩みを乗り越えた時、確実に人は変われます。僕はそういう姿に心を打たれるので映画を沢山見てしまうのかもしれません。」
乗り越えられればね・・・。全然そんな気がしないから困っているのよ?
「あと後悔は何事も選択しなかった時に発生する気がするのです。逃げてしまったり直視しなかったりした時にね。参考になるかわかりませんが、僕は何かを決めなくちゃいけないときに思い出したり観たりする映画があります。」
「なんていう映画ですか?」
「『海辺の家』と言います。」
海辺の家?タイトルだけ聞くとなんだか素敵な場所にお家があって幸せな人が暮らしていそうだけど。
むしろ現実逃避的な内容じゃないの?
私、けっこう荒んでるかも、この人に罪はないのに。
「主人公は長い間勤めた会社をクビになってしまいます。そして健康の問題を抱えている。別れた奥さんはお金持ちと再婚しており、息子は思春期で問題だらけ。」
あらま・・・。
「主人公は海辺の古い家に住んでいます。そこを夏の間に建て替えることに決めて、別れた奥さんと息子に宣言します。「この夏は息子と二人で海辺の家で過ごす。」
周囲の困惑、息子との諍い、元奥さんとの関係。でもね、主人公は立ち止まらないのです、何故なら彼には突き進む以外に道がなかったからです。」
「・・・それはどういう・・・わけで?」
「それは映画を見るとわかります。彼は後悔したくなかった・・・と思うのです。」
「・・・後悔。」
「悩むことは大事です。きっとお客様の経験値になって積み重なる。僕は悩みができると、それはきっと自分の身体になるって考えます。だから取り組んで解決しようという勇気がでる。でも時々弱りすぎると映画の力を借りるのです。僕は主人公のジョージが大好きで・・・思い出すとちょっと泣きそうになりますけどね。
彼は素敵なんです、とても。」
そう言って彼はにっこり笑った。
素直な人だ・・・そんなことを思う。そして前向きでもある。私のように悩みの沼にズブズブ嵌ったりしないのかもしれない。
この沼をどうやって渡り切ろうか・・・泳ぐ?橋をかける?船を探す?そうやって自分の中に答えをみつけるために方法を探すのかもしれない。
私は全然違っていた。ただただ「どうしよう、どうしたらいい?」そればっかりでどんどん沈んでいくに任せていただけ。情けないったらありゃしない。
「なんだか自分のバカさ加減を思い知ったと言うか、それに気が付いて少し気持ちが軽くなりました。」
「それはよかったです。」
彼はまた笑顔をくれた。
だから私はコーヒーを急いで飲みレンタルの店に向かった。トアさんの大好きだというジョージがどんな人間なのか確かめたくて。
私と同じように悩んでいるかもしれない彼と一緒に見よう。そう決めた。
>>
案内されたテーブルにはオーダーした赤ワインのボトルが置かれている。わたし達は向かいあって乾杯した。
「乾杯。」
「何に乾杯?」
「そうだな・・・俺達に答えがでたことに。これからを『よかったね』にしていくための乾杯。」
チリンという良い音とともにワイングラスの中で赤い色が揺れている。一口含み舌と喉をすべりおちていく感覚をたのしみながら私は思った。
本当によかった、あの日この店に来て。そしてジョージに出逢えてよかった・・・確かに思い出すと少し泣けてくる。
私は彼と一緒に「海辺の家」を見た。
涙がたくさん流れて、見終わったあと二人ともひどい顔になった。でもこの映画をみることで私は自分の気持ちを正直に言おうと思えた。
仕事のこと、結婚のこと、遠距離のこと、時間・・・そして距離。
彼も私と同じように沢山のことを話してくれた。お互いに一人で悩むことばかりしていたことに気が付いて最後には笑い合った。二人で考えれば答えは簡単に見つかったことに安堵しながら。
「これ、どうぞ。」
ポケットから無造作に取り出しテーブルに置かれたのはオレンジ色の小さな巾着。白い「Folli Folli」の文字から中身がアクセサリーだとわかる。
予想していなかった贈り物に心臓が煩い。いったいどうして?なんで?なんで?と頭の中はグルグルだ。
「高くないよ、全然。それね材質ステンレスなんだって。台所のシンクみたいだろ?」
ステンレス・・・でも綺麗。シンプルなリングで青いスタッドがぐるりと回っている。
「キラキラしているのは石じゃなくてガラスだしね。」
私は相変わらず、なぜ?どうしてを繰り返していた。誕生日でもないし、記念日でもない。悩み解消はさっきの乾杯で確認したのに。
「それはね、俺の気持ちと予行演習かな。そのうちちゃんとした指輪をプレゼントできるようにね。
俺達に距離ができるのはどうしようもないことだろ。でも俺達にはジョージと違って時間がたっぷりある。
この先一緒にいるうちの僅かの時間かもしれないんだ、離れるのは。
だから・・・そうだな。落ち込んだり、寂しくなったらそれを指にはめて「ジョージと違う、時間がある。」って思ってくれないかな。」
「・・・・あり・・がと。」
「おいおい、そんな安物で泣かないでくれよ。逆に申し訳なくなる。」
慌てて腰を浮かせる彼を見ながら笑顔をつくって涙を掃った。そうだね、私たちには時間がたっぷりある。それに気が付くことができたのはジョージのおかげで・・・それを教えてくれた、あの優しい人のおかげ。私の人生はひとつの映画によって確実に変わった。
先週の木曜日、このお店にきてよかった・・・。
「嬉しいからもう一回乾杯ね。」
グラスにワインを注ぎながら私は決めた。
この青いリングのお返しに時計を送ろう。この指輪と同じくらいの値段で・・・でも特別な物になるような時計を探そう。
「俺達には時間がある。」そう彼が思えるように。
私を想いつづけてくれることを願って。
FIN
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