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september.5.2017 不安
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「物が増えたわけではないのに、なんだか雰囲気が違うわね」
雰囲気か……確かに。人間ドックのあと温泉でゆっくり過ごし、時差ぼけがようやく消えてくれた。やはり本物の温泉はパワーが違うと言い合いながら日に何度も湯につかる。これは日本でしか味わえない贅沢。水着で入るスパはプールのような気がして裸で浸かることが習慣の日本人には馴染めないシステムだ。
明日セントレア空港に向かい伊勢神宮を目指す。いつでも行けるとタカをくくっていたら日本国内どこにも行けていないのが現実。こんな時でなければあちこち散策は難しい。かなりパンパンのスケジュールを立て、西日本エリアを周遊する。今日は家でゆっくりして明日からの旅行に備えることにした。
久しぶりの我が家。かつてここで寝起きし、家族3人が多くの時間を過ごした場所。でも何か違う。家具は変わっていない。テレビもそのままだし、カーテンすら同じものがぶら下がっている。
「何も変わっていないのにな」
「ええ、不思議」
台所を覗くと、変わらず同じシステムキッチン。シンクが綺麗に磨き上げられているのも同じ。冷蔵庫をあけると真空のタッパーに入った常備菜がいくつかあった。ちゃんと作って食べ、自分の面倒をみているらしい。
「明日の朝、食べるものには困らなさそうだ」
「あら、美味しそう。コーヒーいれましょうか」
馴染みのコーヒーメイカーが同じ場所に置いてある。実巳は同じものを買い替えたらしい。うっかりつけてしまったひっかき傷がこれにはついていないし、カラフェにプリントされた数字のフォントが少し変わっている。
リビングに引き返しソファに座った。こんな座り心地だっただろうか。何年も家をあけるとこんな風に感じるものなのか。居心地がいいはずの自分の家が他人行儀に構えているように思えて仕方がない。
テーブルの上にリモコンが並んでおかれていた。相変わらず実巳は海外ドラマの虜らしく予約録画をこなす為にデコーダーが動いている。
コーヒーメイカーの「ピー」という音。どうやらコーヒーがおちたらしい。食器棚を開ける音のあとに声がした。
「え?」
見慣れないものでもあったのかと台所に行く。そこには詩織が食器棚の扉に手をあてたまま立ち尽くしていた。
「どうした?」
「ああ、いいえ。マグが増えていて驚いただけ」
マグカップの数が増えたぐらいで驚く?詩織の不自然な言葉にさっきから感じている違和感が重なる。詩織の横に立って食器棚をみると、確かにマグカップの数が増えていた。
「実巳が好きなマグをいくつか買ったってことだろう?」
「ええ……そうね」
心ここにあらずの詩織に目を向けると見つめているのはマグカップではなかった。視線の先にあったもの。それは揃いの椀と萩焼の茶碗、長方形の和皿、丸皿。二枚一組のいくつかの食器だった。ただの皿だろう?そんなに驚くことか?ホール担当の北川君だったか、彼と実巳の皿だろう。
彼と実巳の……皿?皿はまだわかる。しかし茶碗と椀まで揃いにする必要があるか?
「揃い……だな」
「ええ」
「実巳が自分の分だけではなく一緒に買っただけのことだろう」
「そうでしょうね。でも……」
「でも?」
「もしあなたが高村さんと共同生活をしたとして、食器を揃いにします?」
タカさんと揃いに?めいめい好きなものを使うだろう。なにも同じものを揃えることはない。夫婦でもあるまいし……え?
「女の子同士ならわからないでもない。でも実巳もハル君も男……」
どういうことだ?
「コーヒーが冷めますね」
詩織は奥に押しやられていたマグカップを取り出しコーヒーを注いだ。かつて俺達が使っていたマグは奥にしまわれていた。備前や琺瑯、薄いマグが全面に並んでいる。モヤモヤとしたものが身体に溜まり息が苦しくなる。差し出されたマグカップを受け取りリビングに向かう。台所が急に狭くなったような気がして、これ以上ここに居たくなかった。
ソファに並んで座ったがお互い何を言うべきなのか見当がつかず、熱いコーヒーを楽しんでいるフリを続けながら沈黙が続く。
単に揃いの食器があっただけだ。それなのに、どうしてこんな割り切れない思いが沸き上がる?どうしてこんなに不安が重く圧し掛かる?
久しぶりに行った店は俺達が切り盛りしていた頃のノンビリさとは無縁の世界に変わっていた。テーブルと席数が増え、ウェイティングスペースが設置されていた。窮屈にならないギリギリの空間を保ちながら、それぞれのテーブルが少しずつ向きを変えて置かれている。ランダムになっているほうが客同士の視線がぶつからないらしい。そんなことに感心した。
店の隅のテーブルにタカさんと三人で陣取り、店内で繰り広げられているランチタイムを眺める。忙しいはずなのに、殺気だっていないホールの3人。にこやかに客と言葉を交わしながら次々に運ばれる皿。空の皿がテーブルに置きっぱなしになることもない。速やかに運ばれ、タイミングよく下げられる。
厨房の二人の呼吸はバッチリで、役割分担がされているのか二人の動きに迷いはなかった。湯気があがるフライパンを振りながらあちこちに気を配る。その姿は俺の理想とするもので、少々悔しくもあった。
勤め先の店で出している和食メニューは全体の三割ほどだが、これが人気だ。そのせいで働きたいという申し出が後を絶たず今は3人のスタッフが厨房にいる。腰を据えるという考え方は日本特有のものなのか、ある程度経験を積んだら去っていく。そして新しい顔が加わる。いつまでたっても息の合った環境を作れないまま毎日を過ごすことに時々疲れてしまう。だからこそ、実巳と飯塚君が切り盛りする厨房は心底羨ましかった。
「あれ?マスターとママじゃないですか!」
見覚えのある女性に声を掛けられ懐かしい顔に頬が緩んだ。学生の頃から通ってくれている彼女が、まだここに足を運んでくれていることがとても嬉しい。
「久しぶりだね。まだ来てくれていたんだ」
「ええ、当たり前です。マスターとママの時とは違う実巳君と皆のSABUROも最高ですから。もちろん味もです。スタッフが増えると色々アイディアが増えるみたいで退屈しません」
「アイディア?」
「ミニオーナー制ができましたね。ランチを逃した私の為に作ってくれたパニーニがテイクアウトの人気メニューになりました。トアさんのおかげでTV局の友人の企画が成功。ハル君が来てから大人女子の来店数が増えました。理君がニッコリきりっと場を引き締めてくれるので、気持ちがいい。本当は誰にも教えたくないのに、実際はこんな有様です」
彼女はぐるっと店内を見渡して、おどけたように笑った。歳を重ねて素敵になった彼女がそう言うのなら間違いないだろう。ずっと通い続けてくれているのが何よりの証拠だ。
ようやくランチタイムが終わり顔を合わせた。そうだ、あの時何か変わったことはあっただろうか。
「いちおうこんな感じで毎日忙しいよ」
実巳はそう言って額の汗をぬぐった。しばらく見ない間に逞しくなった、そして自信にあふれている。充実していることが目に見えてわかる。
「ご無沙汰しています」
飯塚君は相変わらずの男前だった。サラリーマンを辞めてまさか料理人になるとは思いもしなかった。さっき二人が見せたコンビネーションを思い出すと不思議な気持ちになる。飯塚君と実巳がね……どこでどうつながっているのか人生わからないものだ。
「初めまして、重光です。先代が店の隅にあるテーブルに座って料理を食べながら店内を見渡す。なんかもうこれ!「ディナーラッシュ」そのものですよね。興奮してしまいました!」
言われたことの意味がほとんど理解できなかった……。
「初めまして、武本です。飯塚の元同僚で、充さんの元部下です。縁あってこちらにお世話になることになりました。よろしくお願いします」
言葉は少ない。タカさんが裏で仕組んだのか?そんな疑問が沸き上がる。タカさんを充さん?元上司を充さん?いやはや、それだけで能力の高さがうかがえるというものだ。タカさんは自分の部下を二人もここに送り込んだことになる。そうか……本気になったんだな、タカさん。
「初めまして、お世話になっています。北川です。ここは初めて僕が必要とされていると実感できた場所です。そして初めて自分からここに居たいと思えた場所でもあります。ミネさんにもお店にもお世話になりっぱなしですが、自分のできることをして貢献していくつもりです。よろしくお願いします」
彼はそう言った。あの言葉に何か勘ぐるようなものがあったか?そんなものはなかった。きっぱりと言い切った言葉に嘘はなかったように思う。働きぶりも言葉を裏付けるものだった。実に活き活きと的確に、そして彼らしくサービスしていた。
どうしても結びつかない。思い返しても実巳と北川君の間に何かあるという兆候は見当たらなかった。
「特別理由はないんだよ。同じものを揃えただけだ」
「そうね。きっとそうだわ」
互いに頷きながら交わした言葉。しかしそこに隠し切れない不安が漂っていた。
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