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april.24.2016 きっかけ
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「はじまるよ。」
予想以上にはりきった声がでてしまった。今日は今月最後の日曜日でトア君が登場する大事な日だ。
おまけに今回は章吾のアイディアがそっくり採用されていると聞けばテンションがあがるに決まっている。
私の興奮をよそに章吾は落ち着きはらっていて、それが何だか悔しい。
「俺が脚本を書いたわけでもないし、男性版があればいいかもしれないという案は切っ掛け程度のものじゃないか。」
「切っ掛けだって大事なことよ?」
「まあ、それは言えてる。」
仕事においても、プライベートでも何かを手掛かりに物事が解決することは多い。それを掴めるか逃がすかによって結果が大きく変わる。「運がいい。」これはマグレなラッキー的な意味合いもあるけれど、私は切っ掛けの匂いを嗅ぎとれる人こそが「運のいい人」だと思っている。そしてこういうタイプはだいたいが高い能力を備えている。デキる人は自分の未来にふさわしい方を選択し続け前進する。
おこがましいかもしれない、でも私は今までの選択に概ね満足しているから運のいい部類に入ると思う。ただしランキングは低い方ね。章吾を見ていると自分の小ささにため息がでてしまうこともしばしば。その反面、敵わないと思える人と一緒にいられるのは心地いい。天狗になりようがないし、まだ伸びしろがあると自分に期待できるのは気分がいい、もっと頑張れると自分を信じられる。
「直美?何を考えているんだい?嬉しそうにしている。」
「ん~。私はラッキーだなって。」
「俺のほうこそラッキーだ。」
「・・・どういうこと?」
「なんだ、てっきり俺と一緒にいられるのはラッキーだ。そう実感して笑顔になっていると思ったんだが。」
ええ、おっしゃる通りラッキーです。でもね、予想していない時に言われると嬉しいけど照れるじゃないの!
私は気を取り直してリモコンのスイッチを入れた。章吾はソファの背に体を預けて私を見ている。たぶん顔を赤くしている私を面白がっているのだろう。
「テレビの画面をみたほうがいいと思うよ?」
「はいはい。」
始まった情報番組は全道各地の「桜祭り」の日程を紹介していた。こうみると色々な名所があるのに行ったことが無い。円山公園の桜だって毎年見ているわけじゃない。会社と家の往復をしているうちに桜はあっという間に散ってしまう。会社から3つしか離れていない駅が遠いって問題よね。
たった30分、綺麗に咲いている桜を見上げる時間すら確保しない自分。それって大きな忘れ物だと感じた。季節や自然の変化を忘れて無機質な人工物の中だけにいて健康を保つことは無理だ。身体はもちろん、心はもっとそれを欲している。
「今年は円山公園行こうか。一番近いし。」
「本当だな。何年もきちんと桜をみていない。よくない傾向だ。」
「今映っている場所に遠出は無理でも身近な場所で季節を感じるのは必要よね。」
「GWのどこかの日一緒に行こうか?ああ、ダメだったな。直美がいない。」
GWはだいたい大きな会場が入っているからノンビリ連休を満喫することは不可能。今年は東京の会場だから完全に時期を逃すことになる。向こうの桜はすでに散っているから、こうやって毎年桜を見逃してしまう。
「帰ったあとの週末はどうかな。もう葉桜?」
「そうだろうな、でも葉桜でもいいじゃないか。ベンチにすわって木を眺める時間だけでも無いよりずっといい。」
「お弁当持って行こう。地下鉄で行けばビールも飲める。」
章吾は私の太ももあたりをポンと叩いた。
「白昼堂々アルコールか。不良中年だな。」
「いいのよ、大人の特権。」
『次はシネマ・レストランです。』
にこやかなアナウンサーの声でテレビに視線を戻す。
画面に映り込んでいるSABUROはよく知っている場所なのに少し違って見える。カメラというフィルターを通すと何かが変わるのかもしれない。もしくはカメラマンの印象が影響を及ぼしているのか。
私の知っているSABUROは温かい場所で、こんな風にお洒落な感じとは違う。私の場合、思い入れが加味されているから、馴染みのない人達はこの画面の印象に近いのかな。
サラリーマンの男性が今回の主役らしい。空虚な家庭生活、忙しい仕事。私の周りにもゴロゴロしている、そういう人。どこかが噛みあわなくなって理由がわからないまま時間が過ぎ去るに任せる。そして修復不可能になって初めて気が付くという、ありがちな結果。
この人は違うといいけど。
あ、後悔するって気が付いた・・・大丈夫そうね。
トア君がコーヒーのおかわりをついだ事を切っ掛けに会話が始まり、一本の映画が紹介された。「幸せへの奇跡」聞いたことが無い。ホットミルク!ホットココア!それはほっこりなストーリーに違いない。
『数日後』のテロップが画面に。
映画の感想を伝えに来たのかしら、律儀な人だ。あ、ハル君の笑顔!あ~これはまた人気が出ちゃうわよ、間違いない。メニューを持ってきたのはトア君。
「覚えていますか。」「もちろんです。」
映画の感想を伝える顔は笑顔だ。きっと家族で見ることができたのだろう。
私なんかSABUROのスタッフ皆が覚えてくれているし!なんていう妙な対抗心が沸きあがってきて自分に呆れた。でもそう感じる人は他にも絶対いるはず。「トアさんに映画おしえてもらったの私の方が先ですから!」と優越感に浸っている常連さんがいるかもね。
場面は男性の家に移り、奥さんとの心を通わせるシーンに繋がった。映画の内容はさっぱりわからないけれど、男性が涙を流す映画のシーンを想像したら少しうるっときちゃって困った。今回の構成いいじゃないの・・・もう。
SABUROに場面が戻り・・・カメラがパンすると向かいには奥さんが座っていた。一人で来店かと思いきやデートだったというオチ。
うわ~うわ~。
そうよね、これぞ「切っ掛け」を掴んだ人の話。
たぶんトア君のチョイスは絶妙なのね。この脚本書いた人、ツボを心得ている。押し付けがましくないし難しいことを言っているわけでもない。こうあるべきだという主張もない。普通に毎日の中に切っ掛けがある・・・そうよね。
最後にレンタルショップとDVDのパッケージがアナウンサーの説明とともに紹介されている。
「予想と違った。」
「なにが?」
「てっきり「幸せへの奇跡」だと。ミラクルのほう。でもカタカナで「幸せへのキセキ」だ。」
「あ、本当ね。わたしも奇跡だと思い込んでた。」
「道をたどる「軌跡」かもしれない。もしくは両方の意味を含めたのかもしれないな。」
「ぎょっとする邦題ってけっこうあるけど、これはいい感じね。たぶん素敵な映画だと思う。借りに行く?」
「たぶん無理だろうな。これを見て速攻借りに行く人が何人もいそうだ。もしくはスマホ片手に店内で待機している人がいるかもしれないぞ?」
「うわ、トア君の人気そこまであがっているかな?」
「それはどうかわからないが、今日で2回目だろう?回を重ねればそのうち、そういうファンが現れると思わない?」
「そうね、可能性は大アリだわ。」
章吾はスマホを取り出すと検索を始めた。私は不思議だなと考えていた。美也とのおしゃべりがトア君の映画好きに繋がった。美也の企画は局内で通り実現して形になった。当初の計画とは違って撮影場所がSABUROに。店の優しい雰囲気の中に悩める人が一人で遅いランチを終える寸前「切っ掛け」が生まれる。SABUROが特別な場所だと思っている私には全部が繋がっていて、テレビ画面を通して視聴者に温かさが投げかけられている、そんな気がする・・・。
「買っちゃった。」
「なに?」
「DVD。だって¥927だったら順番待ちするより買ったほうがいい。」
「そんなに安いんだ。」
「amazon価格には競り勝てないかもしれないが、このショップもレンタルだけじゃなく販売用を用意したらどうかな。絶対買う客いると思う。」
「ねえ、これらからレンタルショップに行ってみない?」
「珍しいね。」
「店内がどんな様子か知りたいし。もし販売DVDを用意していないなら美也に教えてあげたいし。レンタルショップのミニシアターを自認しているらしいから品揃えに興味がある。たぶん掘り出し物がありそうよ。
よし、決めた!」
私は勢いよくポン!とソファから立ち上がった。フェイスパウダーをかるく叩いて眉を整える。マスカラをつけてナチュラルカラーのアイシャドウ。ふんわりチークと薄づきのピンクコーラルで唇を飾る。
このメイクなら5分以内で終わるはず。
「俺からも提案。ランチはSABUROに行こう。」
「それ最高!」
立ち上がった章吾は私の頬にかるくキスをした。
「デートにいくまでの用意は15分。それを過ぎたら置いて行くから。」
「余裕よ。章吾の横でも恥ずかしくない女性に変身して現れます。15分以内にね!」
勢いよくリビングを出てクローゼットに向かう。もうコーディネイトは決まっている、それを身に着けてメイクを仕上げよう。10分あれば支度が整う。
タイムオーバーでデートを逃すなんてもってのほか。
私はラッキーな女だから切っ掛けを掴み損ねることはない。
優しく微笑む章吾を思い浮かべながら、時計をみてカウントダウンを始める。
ラッキーついでに、「トアのワンプレート」ランチをゲットできるかもしれないと期待しながら。
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