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白薔薇の花束
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カンカンカンと錆びた鉄階段の音が星明かりの夜に響いた。聖ロレンツォの星降る夜。僕はクリニックから自分の小さなアパートに戻ってきた。今日は彼の命日だった。昼間、弓弦さんの墓参りに行ってきた。あれから九年経ち、僕は三十二歳になっていた。一人暮らしで恋人はいない。
夕飯の片付けをして皿を洗い終わった時だった。表に人の足音がしてドアがノックされた。何だろう。郵便か何かだろうか。ドアスコープから覗くと白い花束を持った人がいた。花束の届け物? 弓弦さんの命日だと知っている人……彼の家族だろうか? 彼の実家から手紙が来たことがあって、それでお墓の場所がわかったのだ。だからそう思った。
僕はドアを開けた。白い服を着て白い花束を持った人が立っていた。花婿みたいだ。その人の顔を見て、僕は息をのんだ。
「弟さん……ですか?」
あの頃の弓弦さんによく似ていた。僕の中で、弓弦さんは、あの頃のままだった。今生きていたら三十六歳で、当時とそんなに変わっていないかもしれないけれど。でも本当は僕といっしょに年齢を重ねていく弓弦さんを見たかった。どんどん年下になってしまう弓弦さんの写真を見るのは、つらかった。だから写真を見ることはなく、僕は心の中の弓弦さんと比較したのだが……顔立ちや身体つきは、そっくりだった。ただギラギラした感じがないというか、たぶん自分が以前より大人になったから自分より年下の人はそう見えるのだろう、濁世から離れた清らかな感じがした。
「……そうです」
青年は答えた。よく見ると彼が持っている花束は、白い薔薇で、僕が昼間お墓に供えたものとよく似ていた。
「それは……」
まさか僕がお墓に供えた花束を突き返しにきたのだろうか? 迷惑だったんだろうか。弓弦さんの家族が僕のことを受け入れてくれていたのではなく、もう、こういうことは迷惑だからしてくれるなと言われるのだろうか。
以前、僕のところに手紙がきたのは、弓弦さんの遺品に、僕の住所などがあったから、らしかった。僕は一時期、弓弦さんと同居していたから。
僕のことをどんな風に思って手紙をくれたのかわからなかった。弓弦さんは、ただ自分の現住所として、僕の以前の部屋の住所を実家の家族に知らせたことがあっただけかもしれない。それとも僕に関して何らかの思い出のようなもの、写真や日記や、書き置きか何かがあったのだろうか。そうであれば手紙に書いてくるはずのような気がしたから、たんに生前世話になった人物として、連絡をよこしただけな気もしていた。
付き合っていた相手として、故人の恋人として遇されているとは期待していなかったけれど、そうであったことを受け入れてもらっているのだったらいいなと思っていた。でも、きっと、そんなにうまくいかない……。
「墓参りに行ったら、自分と同じような花束が供えてあったのできっと貴方だと思って」
「それでその花は」
「貴方にさしあげようと思って」
「そうなんですか……」
思い出をいっしょに偲ぶのもいいかなと思い、僕は彼を部屋に上げた。
「すみません、夜遅く……すぐ来ればよかったんですけど」
「いえ僕も、あの後、用事があって外出していたので夜でないと帰ってなくて」
「それに、アポなしで、いきなりお訪ねしてしまって失礼しました」
「お気になさらないでください……嬉しいです」
僕は、ワインの空き瓶に水を入れ、花を突っ込んだ。
「ワインお好きなんですか?」
弓弦さんの弟さんが僕に尋ねた。
「安ワインですけど……飲みます?」
「いえ、そんなつもりでは」
広居さんは断ったけれども、
「すみません、僕が飲みたい気分なんです」
とボトルを開けた。つまみにクラッカーにチーズをのせたカナッペを出したが、彼は遠慮しているのか、ほとんど手をつけなかった。
僕は、一人で勝手に酔ってしまった。
「広居さんも、飲んでくださいよ、車できたんですか?」
「そうじゃないですけど」
「一口くらい口をつけてくださいよ。供養だと思って」
僕はすっかり酔っ払って初対面の広居さんに、からんでしまった。
「すみません実は、あまり飲めないんですよ」
「口をつける真似でいいからしてくださいよ。でないと僕が口をつけちゃいますよ?」
「ええ、どうぞ」
僕は、広居さんの口に自分の口をつけた。
「……うわぁっ」
「いいって言ったじゃないですか」
「違いますよ、俺が言ったのは、俺のグラスに口をつけていいってことで」
「グラスの代わりに、僕が広居さんに口をつけたんです」
「困りますよ、いきなり……」
広居さんは、赤くなっていた。しかし、まんざらでもなさそうだった。
「広居さん……お兄さんに、よく似ていますね」
僕は、今度はグラスに口をつけ、口に含んだワインを広居さんに口うつしで飲ませた。
「……ちょっと、だめですよ、俺は飲めないって言ってるでしょ」
「広居さん、今いくつですか?」
「二十七です」
「年下かぁ。弓弦さんが亡くなったのも、ちょうど二十七でしたね」
僕は急に悲しくなった。もう泣くことは、ないと思ったのに。僕は広居さんの胸に顔をうずめた。
「僕が眠るまで、いてください。寂しいんです」
僕は、酔っていたので、ずうずうしく広居さんに甘えた。
「帰らないでください」
広居さんは、
「弱ったなあ……」
とつぶやいた。僕は、そのまま泣き疲れて眠ってしまったようだった。
物音で目が覚めると、明け方で、広居さんの姿はなかった。夢だったのかも、と思ったが、玄関の鍵は開いたままだったので、夢でなかったのだろうと思った。それよりも何よりも、白い薔薇の香りが一晩のうちに部屋に満ちていた。
以前、弓弦さんと住んでいた部屋は、あれから引っ越して、今の部屋は狭かった。古くて暗くて安いアパートだった。あの後、僕は精神的なショックから休職したり、ようやく復帰してからも治療費や毎週のカウンセリング代は引き続きかかったので、部屋代や生活費を切り詰めていたのだ。古くて狭くて暗い部屋は僕の心のように空っぽだった。
そんな部屋に広居さんが、花を届けてくれたのだ。そしてその花の香りが一晩のうちに、僕の部屋を僕の心を満たしていた。僕は彼に感謝した。
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