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溶けゆく心に
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用意されたバスで合宿所まで戻ってきた迅は、夕食までの自由時間を自室で過ごすことにした。同室者が雲峰香澄なのは気に食わなかったが、今はそれすらもどうでも良いことに思えた。部屋に着くなりベッドに疲れた身体を横たえる。幸い香澄はどこかへ出かけているようで、部屋の中は静まり返っていた。迅は重い目蓋を下ろし、先ほどの出来事を想い返す。
『今の立場も全て捨てる覚悟』
有紀は確かにそう言った。同じ覚悟があるかと問われた時、反射的に「ない」と心の中で答えていた。愛する人とはいえ、他人の為にこれまで積み重ねてきた努力を全て投げ出すことなどできるものか。それらを失くしてしまったら、それはもう風間迅という人間のアイデンティティーを捨てるも同然だ。
「・・・変わらねぇな。手前はいつも俺が出来ないことを軽々とやりやがる」
迅は深い溜息を吐くと、有紀との出会いを思い起こす。
迅が日野沢有紀という男を知ったのは12歳の自身の誕生日パーティーだった。まだ別の私立学院に通っていた迅は有紀の存在を見聞きいてはいたが、実際目にするのはこの時が初めてだった。有紀は父親である日野沢蒼空に連れられ、迅に挨拶しに来た。有紀はその頃から既に他の者とは違う特別なオーラを纏っていた。王子然としたその姿に、迅は生まれて初めて畏怖を感じた。迅の父親は日野沢学園の出身であり、蒼空の後輩にあたる。学生時代から蒼空に憧れていた迅の父親は、有紀を見ると目を輝かせ有紀の全てを絶賛した。まさに異国の王子だと。次期当主として風間家で厳しく育てられていた迅は、その父親の様子に衝撃を受けた。有紀はそれに気づいたのか賛美の言葉を並べる迅の父親を遮ると迅に微笑かけた。
「初めまして、日野沢有紀といいます。お誕生日おめでとうございます。君は獅子のようみ鋭い瞳をしているんだね。他人を無言で従わせる、そんな王者の風格を持っている。僕にはそんな威厳はないから、憧れてしまうな」
そう手を差し出され、迅は頬がカッと赤くなった。有紀に嫉妬していた自分が酷く幼く思えた。これまで常に勝者であった迅が初めて味わった敗北だった。自分こそが上だ。それを証明するために、迅は日野沢学園に編入することを決意した。この有紀との邂逅が迅の人生の全てを覆したのだ。
部屋の戸が叩かれる音に、迅は現実に引き戻される。舌打ちと共に怠い身体をゆっくりと起こし、苛々と扉を開けた。
「・・・那波」
勢いよく扉を開けたせいか、那波はビクリと肩を震わせ怯えた瞳で迅を見上げた。その態度が勘に触り迅はまた舌打ちをした。機嫌が悪いことくらい付き合いの長い那波なら予想できただろう。こうして怯えるくらいなら訪ねてこなければ良いのだ。
「何の用だ。まだ自由時間内だろ」
「迅とちゃんと話がしたくて・・・」
「話すことなんてねぇな。お前は俺を裏切った」
そう、那波は裏切ったのだ。他の誰よりも那波だけは大切に側に置いてきた。それは恋愛感情とは違うものだが、それ以上に強い情愛故だった。迅の中で那波は特別だったというのに、那波はあっさりと有紀に乗り換えた。そう考えるとはらわたが煮えくりかえった。
「裏切ってないと言っているのに・・・この分からず屋が!」
那波は声を張り上げると迅の胸倉を掴み、壁に押し付けた。初めて見る那波の激情に迅は面食らった。那波は零れそうなほど大きな双眸を苦し気に歪め、薄紅色の柔らかそうな唇をきつく噛んでいた。
「どうして分からないんですか!俺は絶対に迅を裏切りません!例え学園中の生徒が日野沢君を支持しても、迅に嫌いだ必要ないと言われようとも、俺は迅の側を離れるつもりはありません!なのに、なのにどうして伝わらないんですか!俺は迅が好きで好きで、ずっと思ってるのに!」
琥珀を宿した曇りのない瞳が、迅の虚勢で固められた張りぼての心を見透かしたように一身に見つめてくる。那波の目がこんなにも力強い色を写すことがあるのか。あるいはそこまでの情熱を本当に那波は自分に捧げていたのか.那波の強い感情に,誰の言葉にも揺れなかった迅の心が震えた.頭を鈍器で殴られたような衝撃が走り,一気に怒りが収束していった.
「お前・・・髪切ったんだな・・・」
掠れる声でそっと声を紡ぎ出す.手を伸ばし,丹念に手入れされた髪に指を滑らせた.こうして触れるのは随分久方振りな気がする.
「いつの間にか女装もやめて・・・お前も俺の知らない内にどんどん変わっていくんだな」
「変わらない人なんていません・・・.時とともに人は変わります」
那波は迅の胸元から手を離し,慈しむ様に今にも泣きそうな顔をした迅の両頬に掌を添えた.
「だけど,どんなに変わっても俺が迅を好いていることに変わりはありません.それは迅がこれから先誰を愛したとしても.俺は変わらず迅を愛し続けますよ」
那波は子供に言い聞かせるように優しい声音で囁いた.花が綻んだような微笑が,迅の目頭を熱くさせた.ずっと1人で生きているのだと思っていた.誰の支えもいらない.自分は強い人間なのだと自負していた.だが,それはとんだ思い上がりだった.本当はずっと那波が傍に居てくれることで,無条件に愛を向けてくれることで迅は無意識下で心の安寧を得ていたのだ.それを今になってようやく気づくとは.なんと愚かなのか.
「那波・・・お前が居てくれるなら,俺は強くいられる・・・.それだけは確かだ.だけど那波を愛しているのかと聞かれても,今はこの気持ちが恋だとは思えない.お前と同じ形で愛を返せねえ.それでもお前は俺の下にいれくれんのかよ・・・」
都合の良いことを言っている自覚はあった.しかし,大切な存在であるからこそ中途半端な愛情で傷つけたくはない.那波が同じ愛でもって返して欲しいと言うのならば,この心地よい温もりは手放さなければならない.だがそんな迅の杞憂をあっさりと振り払うように,那波は仕方のない人とそっと呟くと,やわらかい笑みを浮かべた.
「当たり前でしょう?今までだってそうしてきたじゃないですか.迅の傍に居るのは俺のただの我侭ですよ」
「那波・・・」
迅は思わず目の前の細い身体を抱きしめた.今ならば有紀の言葉も理解できる気がした.
『プライドを守るよりも大切なもの』
そんなものが本当にあるとしたならばそれは那波のような存在ではなかろうか.無償の愛を捧げてくれるこの存在だけは決して失ってはいけない.プライドと地位を守ることで雁字搦めになっていた迅の中で,何かがゆったりと溶け始めていた.
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