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001 prologue1 世界
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幼い頃からよく見る夢だった。
空のような、空よりも鮮やかな水が頭上にある。
水だとわかるのはそこに水面(みなも)があるからだ。
キラキラと太陽の光を受けた水面が、自らの身体に影として映る。
ほんのりと冷たくて、心地よい水の中。
(ああ……あの水面の上には どんな世界が広がっているのだろうか……)
――――――――――
今日もいつもと同じ、いつも通り何事もなく過ぎていった一日だった。
ただ例年よりも随分冷え込む日で、日が沈む頃には真冬のような寒さになっていた。
曇天の空は夕方になり雨を降らせ、降り始めた雨を見た生徒たちが「いっそこのまま雪になれば良いのに」と愚痴を零している。
昔から、雨が好きな子供だった。
昇降口で傘を開きながら思う。
でも雪は少し違う。
僕が好きなのは純粋な雨だった。
雨はあまりにも冷たくて、降り積もった雪はとても切なく思えた。
「樫本(かしもと)、ちゃんと傘ささないと風邪ひくぞ」
頬を伝う冷たい雨。
傘越しに見上げた薄暗い空は、どこまでも雲が続いていた。
「おい! 樫本!」
「あっ、ごめん……なに?」
肩を掴まれ、振り向かされる。
そこに立っていたのは、クラスメートの矢野だった。
平均以下の身長の僕とは違って、随分高い位置にある彼の顔を見上げる。
「なに? じゃねぇよ! ボーッとしてないでちゃんと傘させよ」
「あ、うん……」
矢野とは途中までのバスが同じで、高校入学以来いつも一緒に帰っている。彼は、僕が雨の日でも滅多に傘をささないことを心配してくれているのだ。
「雪に、ならないといいね……」
雨は徐々に、みぞれへと変化しつつある。
傘で防げない濡れた足元から、刺すような冷たさが伝わる。
「えー、寧ろ大雪でも降って明日学校休みにならねぇかなって、そう思わね?」
「うーん……そうかなぁ……。僕はやっぱり雨の方が好きだな」
昔から、楽しみにしていた遠足も、家族で出かけるピクニックも、雨で中止になるのは苦ではなかった。
寧ろ雨でも強行すれば、楽しみが二つに増えて良いのにと思っていたほどだ。
雨だけではなく水も好きで、休みのたびに海や川、そして近所の湖に連れて行ってくれと、よく両親に駄々を捏ね、せがんだものだった。
何かをして遊んだりとか、ましてやスポーツをするためというわけではなくて、ただぼんやりと、水を眺めているのが楽しかった。
「滑るから気をつけろよ」
寒さが身に沁みる。
バスは天気のせいかいつもより混雑していて、座ることはできなかった。
「樫本、ここ摑まれよ」
揺れる車内でバランスが取れるよう、矢野が誘導してくれる。
「ありがと」
それに従い、窮屈な車内で矢野に身を寄せた。
「あー……樫本ってやっぱ睫毛長ぇな! まじ美人」
「……気にしてるんだけど」
「いやいや、近くで見るとヤバイって」
「……やめてよ」
大袈裟な矢野の口調に呆れてしまう。
自分でも少し中性的だとは思うけれど、昔からこの容姿は揶揄われることの方が多かった。
「本当だって! 俺の顔と交換して欲しいくらいだよ」
「僕は矢野の方が羨ましいけどな。身長高くて」
「身長だけだろ?」
「……ふふ。そうだね」
矢野と何気無い会話をしながら窓の外を見ると、雨には白いものが混じり始めていた。
これから夜になるにつれ、もっと気温が下がるのだろう。
駅前に着くと、ずいぶん大勢の人がバスを降りる。
矢野もその一人だった。
「じゃ樫本、また明日」
「うん。またね」
賑やかな矢野を見送り、一番後ろの窓際の席に座る。混雑さえしていなければ、いつもこの席に座るようにしていた。
バスの窓を伝う雨が下へと落ちていく。
街灯に照らされた路肩の水も、一定方向へと向かって流れていく。
この水は、雲だったのだ。
空から降ってきたのに、川に流れ、海になる。
大地に吸収され、植物に吸われ、生き物に飲まれる。
(まるで生きているみたいだ……)
何億年も巡り巡って、今ここに雨として降ったのだ。
「僕とは大違い……」
小さく呟いた声は、乗車して来た人たちの喧騒に掻き消される。
水のようにありたい。そう思う自分がいる。
確かにこの地に立っているのに、此処が僕の居場所ではないような、そんな気がしてならないのだ。
家に着く頃には、雨は完全に雪へと変わっていた。
「寒っ……」
冷たい門の扉を開け、傘を畳む。
扉の向こうからは軽やかな足音が聞こえて来る。
扉を開けると真っ先に聞こえたのは元気な声。
「おかえりー泉兄!」
この大きな声の主は弟。
「おかえりなさぁい」
鍵を開けて迎えてくれたのは、甘ん坊の妹だ。
「ただいま。樹、華」
二人は傘の水滴を払う僕の背後を気にする。
「泉兄ぃ、これ積もるかな?」
「華はねー! 雪だるま作るんだー!」
「みぞれだからな……積もらないと思うよ」
無邪気に外を見てはしゃぐ二人を、家の中へと促す。
「お帰りなさい泉。寒かったでしょう」
夕食の用意をしていたらしい、エプロン姿の母が顔を出す。
「電車、止まらないかしら……。お父さん帰り遅くなっちゃうかもね」
「まだそんなに降ってないから平気だよ」
「そう。泉が言うなら大丈夫ね!」
「泉兄ぃおやつおやつ」
「おやつー!」
とても仲の良い家族だと思う。
けれど、僕だけは彼らとの血の繋がりがなかった。
――――僕は子供のできないこの家族に引き取られた、養子なのだそうだ。
子を切望していた父と母は、幾度となく繰り返した不妊治療の甲斐なく、子供を授かることができなかった。
それならばと、まだ乳飲み子だった僕を引き取ってくれたそうだ。
その後父の仕事が軌道に乗り、暮らしは豊かになって生活は安定した。
その頃母は、念願だった自然妊娠で弟を身籠ったのだ。
樹が産まれたのは、僕が3歳の時だった。その二年後、妹の華も産まれた。
両親は「幸運を齎してくれた」と、実の子が生まれても分け隔てなく……寧ろ実の子以上に大切に育ててくれた。
そして去年の春、僕が15歳になった時に、血の繋がりがないことを告げられたのだ。
別にそのことを聞いても、驚きもしなかったし、ショックも受けなかった。
血の繋がりなど関係なく育ててくれた両親。そしてその両親が切実に欲した子である弟と妹は、何よりも大切な存在だった。
彼らが大好きだった。僕にとって、本当にかけがえのない家族だった。
親は子を選べないし、子は親を選べないはずなのに。
両親は僕を選び迎え入れ、受け止めきれないほどの大きな愛を持って育ててくれたのだ。
養子だと知らされて寧ろ、僕は自分の『幸せ』を認識した。そして深く、両親に感謝した。
――――それなのに、この感覚は何なのだろうか……。
「ああ! 樹にぃちゃんの方がイチゴが大きい!!」
おやつのロールケーキを取り合う樹と華。
中に入っているフルーツの具材で喧嘩をしているらしい。
卵が食べられない僕のためにと、卵抜きのロールケーキだ。
僕の取り分は、弟や妹よりも多い。
両親は僕の食が細いのを心配しているのだろう。
弟も妹もそれを承知していて、決して僕の食べる分を欲しがったりしないのだ。
「もー。僕の分も食べていいから、喧嘩はやめなよ」 フォークでロールケーキを半分に切り、樹と華のお皿に乗せる。
「でもぉ」と困惑する華。
「それは泉兄の分じゃん!」と気を使う我が家一の食いしん坊の樹。
可愛くて、愛おしい。
こんな家族がいながら、『此処が自分の居場所ではない』と思ってしまうことが、本当に疎ましかった。
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