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096 王離
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異臭がする。悪夢と同じ異臭だ。
「……………て…………」
悪夢とは違うのは痛みも怒号も聞こえないことだろう。
意識が混沌の淵にあってよくわからない。
「…………きて…………」
誰かの声がする。
それともそれすらも夢なのだろうか。
「………起きて…………」
ああ……この声は誰だろう……。
鼻をつく匂い。こみ上げる吐き気。
(生臭い……)
夢よりも鮮明な香りが鼻腔の奥にへばりつき、息苦しさに眉をひそめた。
「ん……」
「あ! 生きてる! 生きてるよお母さん!」
甲高い声をどこか懐かしいと感じる。
(華…………)
かつてそうであったかのように、妹に起こされているような錯覚を覚えた。
薄っすらと目をあけると、目の前に子供らしき人物がいる。
それでも瞼が重くて、きちんと目を開くことはできない。
それどころか、もう指一本すら動かすことも叶わなかった。
少女……だろうか、一瞬見えた大きなあどけない目が印象的だった。
(ああ……そうだ……僕は……)
「大丈夫かいあんた。よりにもよって、こんな所で寝てたらいけないよ」
「…………」
聞こえたのは少女とは別の女性の声。
(何か……何か言わなければ……)
「ぁ…………」
喉が渇いていた。喉がひび割れそうに痛む。
「…………」
掠れた声は彼女たちにうまく届かない。
「ずいぶん衰弱してるみたいだね……」
「妖精さん、死んじゃうの?」
「仕方ない、いったん家に連れて帰ろう」
まるで幼い子を抱くように――柔らかい女性の腕に抱かれたのがわかった。
「………………」
厭だと、自分で歩けると言いたかったが、思うように身体は動かない。
もう、瞼を開けることすらままならなかった。
(悪い人じゃないといいな……)
ふくよかな女性の肩に顔をうずめながらそう願い、また意識は暗闇へと落ちてゆく……。
――――――――――
そして夢を見た。悪夢でも、あの水面の夢でもない。
これは――――――――ハリルの夢だ。
城の中――応接間だろうか――部屋の真ん中に彼がいる。
(ハリル……)
名を呼ぼうとしても、声が出ない。
………どうして、そんな悲しそうな顔をしているの?
(ハリル………)
もう一度、声にならない声で彼を呼ぶ。
………一体何を思っているの?
そっとハリルに抱きつく――――これは夢だから、普段できないこともできる。
温かくて、いい匂い。
夢のはずなのに、ハリルの温もりを感じる。
喉の渇きも、異様な身体の怠さも、彼に触れたら少し楽になったような気がした。
(ハリル…………ごめんね…………)
抱きしめる腕に力を込める。
「イズミ……」
そう彼に名前を呼ばれる。
(僕は…………ハリルのことを…………)
どんなに焦がれても、この想いは実らない。
「陛下……よろしいですか? お話があります……」
夢の中で、サディの声が聞こえる。
見上げたハリルは難しい顔をしている。
「すみませんが、ギルトとジーナ殿以外の方には席を外して頂きたい……」
いつの間にか、ギルトとジーナも部屋にいた。
「サディ殿、それは私もですか?」
この声の主は確か、ハリルの従兄弟の――――
「申し訳ございません、ヴァン様」
(変な夢…………)
この部屋には、元々彼らも皆いたのだろうか。
――――もう一度ハリルの顔を見る。
彼らは難しい顔で何かを話しているが、声はもう聞こえなかった。
(もう直ぐ、夢から覚めてしまう)
どうせ夢なら…………最後に、彼にキスできればいいのに。
それも、夢であっても叶わないことなのだろう。
――――身体が浮遊する。
(ハリル……)
彼から、意識が離れて行く。
(ごめんね……)
たくさん重ねた嘘。こんな形で彼と別れたくなかった。
(大好きだよ……)
何も言わずに去ってしまったこと、今も本当に後悔している。
(――――バイバイ……)
離れていく意識の中、その姿が白く霞んで見えなくなるまで、彼をずっと見続けていた。
目が覚めたとき、僕は殺風景な家の中にいた。
硬い床。薄い麻のようなガサガサした布の上で横になっている。
(あれ……ここは……?)
初めて見る光景。
薄茶色の壁、硝子がはめられていない窓からは、燦々と輝く太陽の光が差し込んでいる。
テーブルも、椅子も、全て土でできている。
ところどころにある染みは、生活感が溢れていた。
(どこだろ……ここ……)
日が昇ったせいか湿気を孕んだ空気が重く部屋に漂っている。
視線を動かすと、目の前には1人の少女がいた。
赤……よりも薄い、ピンク色の髪の毛をしている。
見開いた緑色の大きな目が、とても印象的な子だった。
「あ……」
声をかけようと思った瞬間、少女が叫び声をあげた。
「きぁぁあああ!! お母ぁぁぁさぁぁぁああん!!!!!!」
突然響く、空気を切り裂くような悲鳴。
僕が目覚めたことでどうしてこんなに叫ばれなければいけないのだろうか。
あまりのことに、僕も動けなかった。
「エダ!! 大声出したらいけないと、あれほど言っただっ……あぁ!!」
奥の扉から出てきた女性もまた、僕の姿を見て声を上げた。
「あんた……その目……」
「あ……」
そういえばこの国で黒い瞳は、とても珍しいと言われていた。
黒い髪に黒い瞳――――どうやらこの国の人たちに、この色を持つ人はいないらしいのだ。
(黒……不吉な色……)
もしかすると、そう思われたのかもしれない。
(どうしよう……)
突如不安がこみ上げてくる。
(僕は……)
二人の目は、恐ろしいほど真っ直ぐに僕の瞳を見ている。
あまりにも気不味くて……思わず目をそらす。
「あ……いや、それよりエダ! 駄目じゃないか大声あげて……」
女性は少女に向き直り、抑えた声で叱責する。
どうやら彼女は少女の母親らしい。
「だって……本当に妖精さんだと思ったんだもん……」
(妖精……?)
「あ、あの……」
それは僕のことで、妖精と言われるほど奇異な見た目ということなのだろうか。
「ああ! ごめんよお嬢さん!」
僕の表情を読み取ったのか、女性は気遣って話しかけてくれた。
(お嬢さん……?)
それも、僕のことを言っているのだろうか。
「すみません。あの……僕、男……です……」
「え!?」
「ええ!!」
二人とも母娘らしく息ぴったりに反応を示した。
空気が少し和んで、思わず苦笑いする。
そんな僕の顔を見て、少女の頬が、ぽっと赤くなった。
「あの、助けてくれて有難うございます」
「ああ……いや、一体どうしてあんなところで寝てたんだい?」
その理由はとてもじゃないけど言えなかった。
女性の視線が、僕の首筋に落ち、そして足首の拘束具を見る。
(ああ、そういえば……)
さすがに雨具は脱がされていた。
普段着ている白い衣装は、胸元が大きく開いている。
そして僕の体には、ハリルが付けた痕がたくさん残っていた。
掛けられていた布で思わず首筋を隠すと、女性はそれ以上は聞かなかった。
否定しようにも、上手い言い訳など思いつかない。
「ねぇ、あの……お兄ちゃん……」
少女にそう呼ばれると、少し照れくさく感じる。
そう呼ばれたのは久々だった。
『泉兄ちゃん!』
『泉兄ぃ!』
弟と妹の声が鮮明に思い出される。
「僕はイズミ。キミは、エダちゃん?」
会話の流れから名前を呼ぶと、エダは嬉しそうに笑った。
「イズミお兄ちゃんは、妖精さんなの?」
キラキラした目で少女が聞く。
違う……と否定したいけれど、こんな純粋な瞳で見られると、簡単に否定してしまうのも可哀そうな気がした。
でも、「そうだ」と嘘をつくことはできない。
それはまるで「水神」を否定しなかったことによって起きた、今のこの状況を物語っているかのようだったからだ。
「ごめんね。お兄ちゃんにもよくわからないんだけど、多分違うと思うよ。妖精さんじゃないよ……」
そう少女に告げるが、少女の瞳の輝きはなくならない。
純粋な目の少女は僕を見つめてニコリと微笑んだ。
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